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【本】森博嗣「喜嶋先生の静かな世界」感想・レビュー・解説

『「既にあるものを知ることも、理解することも、研究ではない。研究とは、今はないものを知ること、理解することだ。それを実現するための手がかりは、自分の発想しかない」』

大人になって、「何かを学ぶ」という機会は、とても少なくなった。大人になった、とは言っても、僕はまあ真っ当からそれなりに外れているだろうし、サラリーマンがどんな風なのかちゃんと知っているわけでもないからあくまでも僕個人の印象だけど、でも、年を取れば取るほど、何かを新しく学ぶということがどんどん少なくなっていく、というのは、ある程度一般則ではないかと思う。


特にそれが、仕事や生活のために役立つわけではない「学び」であればなおさらだ。


僕たちは大体みんな学校に通っていて、そこで何かを学んできた。僕は子どもの頃は、学校の勉強は結構好きだったのだけど、その「好き」は、「学ぶこと」そのものへの関心ではたぶんなかった。


僕にとって「学ぶこと」というのは、「強いポケモンを手に入れる」とか、「かっこいいファッションをする」とかに近いものとして捉えられていたはずだ。つまり、「学ぶこと」は僕にとって、一種のコミュニケーションツールでしかなかった。


勉強をして、それを誰かに教えることで、教室という場の中である一定の存在感を得る。そういう手段として、僕はずっと勉強をしていた。そういうことを、きっと当時の僕も自覚的だったはずだ。


大学に入ってから、滅法勉強をしなくなった。


それは、それまでと比べれば、という話であって、周囲の人間と比べればやっていたほうだったと思うのだけど、やっぱり自分の感覚では、勉強に対する意欲は大学に入ったことで一気に削がれたように思う。それは、僕にとって「学ぶこと」のモチベーションがコミュニケーションにあったわけで、大学ではどうも、「勉強が出来ること」というのが有効な通貨として機能しないのだなぁ、ということが徐々に理解されてきたんだと思う。少なくとも、小中高時代よりは、勉強が出来ることへの価値は、それほど高くはなかったと思う。そういう空気を察して、きっと僕は「学ぶこと」の意欲を失ってしまったのだろう。


もう少しどこかの段階で、ちゃんとした動機を持つことができていればなぁと、本書を読んで悔やまれる思いがする。

『これは、すべてのことにいえると思う。小学校から高校、そして大学の三年生まで、とにかく、課題というのは常に与えられた。僕たちは目の前にあるものに取り組めば良かった。そのときには、気づかなかったけれど、それは本当に簡単なことなのだ。テーブルに並んだ料理を食べるくらい簡単だ。でも、その問題を見つけること、取り組む課題を探すことは、それよりもずっと難しい。』


僕は昔から、パズルを作るのが好きだった。高校時代に「パズラー」というパズル雑誌(現在休刊)にハマったのだけど、その雑誌に読者投稿欄みたいなコーナーがあって、そこに投稿する用に授業中にパズルを作り始めたのが最初だ。


そのコーナーは、オリジナルルールの新作パズルを公募するコーナーだった。既に世の中に存在しているパズルではなくて、新しいオリジナルなルールのパズルを作って投稿する、というコーナーだ。

『研究者が一番頭を使って考えるのは、自分に相応しい問題だ。自分にしか解けないような素敵な問題をいつも探している。不思議なことはないか、解決すべき問題はないか、という研究テーマを決めるまでが、最も大変な作業で、ここまでが山でいったら、上り坂になる。結局のところこれは、山を登りながら山を作っているようなもの。滑り台の階段を駆け上がるときのように、そのあとに待っている爽快感のために、とにかく高く登りたい、長く速く滑りたい、そんな夢を抱いて、どんどん山を高く作って、そこへ登っていくのだ。』


ルールを考えて、新しいパズルを生み出すというのは、本当に面白い。ルールを思いついた時点では、それがパズルとして成立するかどうか分からないのだ。だから、色々と試行錯誤してみる。その中で、そうかもしこれがパズルとして成立するならば必ずこういう性質があるなとか、別解を生み出さないようにするためにはこういう条件を付け加えないと成り立たないなということが徐々に理解されてくる。


そうやって色々試して見て、少しずつ「どこか」に向かっていく。その「どこか」は、「正解」なのか「不正解」なのか、そういうはっきりとした色を持つ場所ではない。新しいものを作っている時は、それが正解かどうか、ということはわからないものだ。オリジナルのルールでパズルを完成させることが出来ても、それが「正解」とは限らない。なぜなら、その同じルールでもっと洗練されたパズルを生み出すことが出来るかもしれないし、もしかしたら既に誰かが生み出して発表しているパズルであるかもしれないからだ。

『「問題さえ見つければ、もうあとは解決するだけだ。そんなことは誰にだってできる」』

『そういう意味では、数学の問題を解くことは、極めて昆虫的だった。あれは考えているというよりは、おびき寄せられていただけなのだ。』

パズルを解くことも好きだけど、やはり作る方が圧倒的に楽しい。パズルを解く場合は、誰かの思考をなぞっているんだな、という感覚が強い。誰かが一度通った道を、同じように歩こうとしているのだ、と。それはそれで、もちろん楽しい。なるほど、そんなルートがあったのか!とか、そこからあそこへ飛躍するって発想はなかったなぁ、というような、誰かの思考をトレースすることの楽しさもある。

しかしやはりそれ以上に、何もないところに自分で足跡をつけていくことの楽しさの方が圧倒的に楽しいと感じる。

『「この問題が解決したら、どうなるんですか?」
「もう少しむずかしい問題が把握できる」』

本書を読むと、「学ぶということ」についての本質が分かった気になれる。別に、哲学的な難しい小説というわけではない。ごく一般的な、そう評して良いならば娯楽小説である。とはいえここでは、「学ぶ」という営みがいったいどんなものであるのかについての深い考察がある。

『「そうやって調べることで、何を研究すれば良いのか、ということがわかるだけだ。本茶資料に書かれていることは、誰かが考えたことで、それを知ることで、人間の知恵が及んだ限界点が見える。そこが、つまり研究のスタートラインだ。文献を調べ尽くすことで、やっとスタートラインに立てる。問題は、そこから自分の力で、どこへ進むのかだ」』

学校での勉強は、結局のところ「学び」とは程遠かった。それは、スタートラインを示すための行為でしかなかった。人類が、今どこで立ち止まっているのかを示すための儀式のようなものでしかなかったのだ。学生の頃は、そんなことはなかなか分からなかった。先人の叡智を頭の中に取り込んでいき、そしてそれをいつでも引き出せたり応用できたりすることが「学ぶこと」だと思ってきた。

確かにそれも「学び」ではあるだろう。しかし、やはり本質はそこにはない。誰かがたどり着いた地平は、結局のところスタートラインを示すものでしかない。それをいくら取り込んでも、「学んだこと」にはならない。そのスタートラインに立って、一歩でも前に進む行為を「学び」と呼ぶのだ。


コミュニケーションを動機に勉強をしていた自分を後悔する。あれだけ膨大な時間を費やして「勉強した」のに、結局僕はスタートラインがどこなのかさえ、もう把握出来なくなってしまっている。スタートラインが分からなければ、そこから先に進むことも出来ないだろう。「学び」の本質を早くから見極めることが出来た子どもは、非常に幸運だろう。本書の主人公も、その一人だ。

『小さかった僕は、それを神様のご褒美だと考えた。つまり、考えて考えて考え抜いたことに対して、神様が褒めてくれる、そのプレゼントが「閃き」というものなのだと信じた。』


橋場は、幼い頃に入った図書館で数々の本と出会い、その本を読むことで新しい世界を知り、思索ふけることができた。橋場にとって「学ぶこと」というのは、エキセントリックでファンタスティックな行為だった。


しかし、残念ながら、学校での勉強は彼にそんな感覚を与えてはくれなかった。


大学に行きさえすれば、と希望を抱いていたが、大学も三年生までは同じようなもの。教授が本の内容を喋っているだけだ。そんなものは、本を読めば理解できる。


橋場にとって、喜嶋先生との出会いは、だから奇跡的なものだった。どこかで喜嶋先生と出会っていなければ、彼は人間や世の中に絶望したまま能力を持て余しただろうし、研究者になることもなかっただろう。


喜嶋先生は、大学の中では助手という、講義も研究室も持たない立場ではあったが、世界的な研究者であり、助手の身分のままで学内でも研究者として一目置かれていたことは周囲の観察から分かった。教授・助教授しか研究室は持てないのだけど、橋場は実質的に喜嶋研と呼んでもいい環境の中で、充実した研究生活を過ごす。


本書はそんな、喜嶋先生と出会うことで世界が変わった橋場の、子どもの頃から研究者として独り立ちするまでを描いた作品です。


森博嗣の作品を読む度に書いていると思うのだけど、森博嗣の小説を読む最大の魅力は、森博嗣の思考に触れることが出来る、という点だ。


もちろん、物語もキャラクターも文章も好きだ。しかし何よりも、小説という形態の中に、森博嗣の思考が詰まっている。いや、この表現だと誤解を生むか。小説という形態そのものが、森博嗣の思考の産物であり、それに触れることが出来る喜びというのが確実に存在するのだ。

それは、森博嗣の価値観を知ることができる、というのとはまた違う。森博嗣はエッセイで何度も、小説の登場人物の価値観を森博嗣の価値観と同一視する読者がいる、という話を書いている。僕も、そうしたくなることはよくあるんだけど、でも自制する。小説の登場人物の価値観と森博嗣の価値観は別物だ。

だから、小説を読んだところで、森博嗣の価値観が理解できるなんて思っているわけではない。しかし、小説というのは、そこに森博嗣の価値観がどれだけ含まれるかに関わらず、森博嗣という人間の思考の産物であることは明らかだろう。それは、キャラクターや文章なんかの端々で読者が勝手に読み取るものだし、場合によってはタイトルや装丁からもそういう何かを読み取る。それが明らかな誤読であっても、まあ別にいいのだ。森博嗣の思考だ、と信じられるものに触れることが出来れば、特に問題はない。


本書は、冒頭でもグダグダ書いたけど、読むと「学ぶこと」について深い洞察を得る事ができる小説だと思う。しかし、繰り返すけど、別に難しい小説ではない。


本書を呼んで、こんなことを考えた。


僕ら一人一人の個人は、何かの方程式の「解」みたいなものだ。僕らは、ただ「解」として世の中にポーンと放り出される。自分が、どんな方程式の「解」なのかは、分からないままで。


僕という「解」を、どこかにある方程式に代入すれば、きっとしっくりくるはずだ。なるほど、自分はこの方程式の「解」だったのか!という感覚を得ることが出来るはずだと思う。


本書では、橋場がまさに、自分を表す方程式を見つけた人間として描かれている。もちろん、すぐに辿りつけたわけではないのだけど、様々な幸運と、自らの努力によって、自分がどんな方程式の「解」であるのかを掴みとった。


それは、とても幸運な人生だ。


一方で、自分がどんな方程式の「解」なのか、永遠に分からないものもいるだろう。


本書では、大学院生の自殺率が高い、というような話が出てくる。自分が、これが正しい方程式だ、と思って飛び込んだ世界に何年もい続けながら、自分がその方程式の「解」ではなかったことが分かってしまった、ということなのだろう。


たぶん、ほとんどの人が、最適な方程式に出会うことが出来ないままで一生を終えるのではないかと思う。それはきっと、仕方のないことなのだ。自分が見つけた方程式に合わせて「解」自体を変化させる、という荒業を使える人も、中にはいることだろう。それはそれである意味では幸せなことなんだろうと思う。その一方で、その「解」として生まれた自分に最適な方程式があるはずだ、という感覚を捨て去ることはなかなか難しいのではないかと思う。


森博嗣の思考の断片には、本当に共感するし、心を掴まされる。

『「普通の人間は、言葉の内容なんかそっちのけで、言葉に現れる感情を読み取ろうとする。社会ではそれが常識みたいだ。そうそう、犬がそうだよ。犬は、人の言葉の意味を理解しているんじゃない。その人が好意を持っているか敵意を持っているかを読み取る。それと同じだね。特に日本の社会派、言葉よりも態度を重んじる傾向が強い。心が籠っていない、なんて言うだろう?何だろうね、心の籠った言葉っていうのは」』

喜嶋先生は、言葉を何かで包んで発したりしない。常に正直に、思ったことをストレートに言葉に載せて話す。それが、怒っているように見られたり、冷たいと取られることになる。そういう話の中で、喜嶋先生が言ったセリフだ。

これは僕もいつも思う。どうしても、自分の言葉が言葉通りに通じない、と感じる場面が多くある。もちろん、それなりに大人だから、どう伝えたら自分の真意がちゃんと伝わるか、考えながら喋るのだけど、時々、そのままのむき出しの言葉で喋っても通じる人に出会うと嬉しくなる。

『良い経験になった、という言葉で、人はなんでも肯定してしまうけれど、人間って、経験するために生きているのだろうか。今、僕がやっていることは、ただ経験すれば良いだけのものなんだろうか。』

確かに、そう問われると、経験するために生きている、というのはなんとなくおかしく思えてくる。経験が人の価値を高めてくれるという信仰は確かに根強くあるように思うけど、目に見えない経験というものが、目に見えない個人の価値に変換される過程を思い描くことは、案外難しいかもしれない。

『物理的な影響、時間的な不自由を、僕はまだ受け入れられない。考えるのをやめた瞬間に、綺麗に消えてしまうものが好きだった。』

これは、文章が凄く好きだ。「考えるのをやめた瞬間に、綺麗に消えてしまうものが好きだった」というのが、僕も凄く理解できる。そして、それをこんな風にシンプルに表現できる森博嗣は、やっぱり良いなぁと思う。

『なにかの本で読んで、人間ならばそうするべきだ、というルールを学んだのかもしれないけれど、残念ながら、物理法則のように普遍的なものではない。同様のことは、宗教や哲学や、とにかく人間が作ったこの世の大多数のものにいえる。ようするに、ここから世界が築かれるという根拠に位置する基本法則がないのだ。ただなんとなく、そっちの方が良いかな、という程度の判断の積み重ねだけで、この世のすべてのルールが出来上がっているように思える』

ルールが曖昧なままの方が社会がうまく回っていく、という経験則をみんなが信じているんじゃないかと思うことはある。はっきり線引出来そうなことであっても、なんとなくそのまま、灰色の部分を残しておきましょう的なありようが、なんか色んな混乱を産んでしまうような気がするのは気のせいだろうか。

最後に、清水スピカの話をしよう。


橋場と清水スピカがレストランで会話をする場面がある。もうこの場面は、おかしくって仕方がなかった。お互いの話がすれ違う。お互いに、自分なりにきちんと考えて発言してボールを投げているつもりなのに、お互いが立っている場所があまりにも違い過ぎるために、そもそも相手のボールがどこから飛んでくるのかさえ理解できないのだ。このやり取りを読んで僕は、僕らが普段どれだけ「曖昧な前提」を「共有した気になって」会話をしているか、ということに気付かされた。


こう書くと、なんか信者みたいで嫌なんだけど、でも個人的には、森博嗣の思考に触れられるだけで嬉しい。そういう感覚でいるから、本書が普通の人にどんな風に捉えられるのかは、よく分からない。けれども、森博嗣が好きな人間としては、やはり多くの人に森博嗣の思考に触れて欲しいな、と思ってしまう。本書でなくても別に構いません。いつかあなたの人生に、森博嗣の思考が占めるスペースが生まれますように。


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