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【本】森博嗣「自由をつくる 自在に生きる」感想・レビュー・解説

内容に入ろうと思います。


本書は、森博嗣が『自由』について書いた本です。人は自分が支配されていることに気づかないからまず気づくことが大事だ、支配されている状況に甘んじているのはそれを許容しているからだ、自由とはある意味で大変なものだ、というような、これまでの森博嗣の著作からも感じられたような森博嗣独自の哲学(というほど高尚ではないかもしれないけど)を、『自由』をいうキーワードでまとめたものです。


具体的な内容については、あとで文章をいろいろ引用しながら書きますけど、ホントに素晴らしい本だと思います。僕は、『全人類必読!』とかいうPOPでもつけてたくさん売ってやろうかなとか思っています。


僕は本書を読んで、系統としてはかなり森博嗣の考え方に近いと思いました。同じ数直線上にいる、というイメージです。もちろん、それ自体が錯覚かもしれないし、あるいは同じ数直線上にいても、僕が10ぐらいで森博嗣が100万ぐらいかもしれないけど、でも確かに僕は同じ直線上にいると感じました。


読んでいると、自分が森博嗣と同じような考え方をしているという箇所がたくさんありすぎて、ページの端を何度追ったか分かりません。ただ森博嗣と僕の最大の違いは、それを明確な言葉で表現出来るかどうか、という点かなと思います。僕は自分では、自分の価値観や哲学みたいなものをかなり言葉にして表現出来ると認識しているんですけど、本書を読んで、まだまだ全然足りないなと思いました。これまで自分ではうまく言葉に出来なかった概念なんかも、すごく単純な言葉で説明していて、あぁそういうことなんですよ、と言いたくなる場面がたくさんありました。


僕は個人的には、周りの人間にどう思われようが関係ない、というのがメインのスタンスになっています(もちろんすべてのあらゆる状況でそういう自分でいられるというわけではありませんけど。まだまだ修行が足りません)。僕は自分が世間の人と比べて『変だ』という自覚があるんだけど、でも僕はもっと周りの人から変だって思われたいんですね。とにかく、『普通』っていうのがあんまり好きじゃないんです。

これ、特に最近の若い人はよく言いますけど、『普通が嫌だ』とか言っておきながら、みんな似たようなことしてますよね。似たような服とか、似たような趣味とか、似たような考え方。僕はホントそういうのが全然好きじゃない、というか受け入れられないですね。もちろん、『普通』のことであっても自分の価値観的に許容出来ることであれば別にします。

だから、『普通』だからという理由で何かを拒絶するつもりもありません。本書を読むと、『普通』だからという理由で何かを拒絶するということも、ある意味支配(自分が自分にしている支配)だということなので、僕自身ある程度はそういう支配から逃れることが出来ているんだなと少しだけ嬉しくなりました。


しかし本当に最近周りの人を見ていると、『みんなと同じ』ということがいかに大事なのか、というか普通の人が周りの人のやっていることに合わせることが大事だと思っているということがよくわかります。

特に僕は書店員なんですけど、テレビとかで紹介された本が爆発的に売れたりするのを見ると泣きたくなりますね。もちろん、売上は伸ばさなくてはいけないので、人々のそういう習性は利用させてもらっていますけど、しかしそんな理由で本が売れていくのは哀しくなりますね。テレビで紹介されたら良い本か?と聞きたいですね。自分で選べ!自分で!


というわけで以下、本書を読んでよかったと思えるフレーズを抜書きしながら、自分の意見をダラダラ書いていこうと思います。

『自由というのは、「自分の思いどおりになること」である。自由であるためには、まず「思う」ことがなければならない。次に、その思いのとおりに「行動」あるいは「思考」すること、この結果として「思ったとおりにできた」という満足を感じる。その感覚が「自由なのだ」』


「自由になりたい」と思っている人はたくさんいるだろうけど、じゃあ具体的にどうなりたいのかを「思う」人はなかなかいないような気がします。

『人間でいえば、社会の一員として、平和的な家庭を作り、毎日通勤電車に揺られて出勤し、夜はときどき仲間と酒を飲んでみたり、流行を気にしてファッションに気を遣ってみたり、仲間から遅れることを極度に恐れ、逆に自分だけ突出することも避ける、大過なく役目を全うし、つつがなく人生を送る、というような、よくある「光景」である。
僕は、そういった光景を「支配された不自由だ」と感じる。』


僕もまさにその通りです。結婚して子供を育てて、満員電車に揺られ会社では上司に怒られなんていう人生は、僕には「ありえなかった未来」です。僕はそれを「選択しない」ことで、自分なりの(他人には理解されないかもしれないけど)自由を手に入れた、と考えています。

『何度も書いているが、僕は、この「支配されていることの安心」を悪いというつもりは毛頭ない。(中略)この「自覚」こそが重要だと考える。支配だと気づくことで、その傘の下にいる自分を初めて客観的に捉えることが出来る。それが見えれば、自分にとっての自由をもっと積極的に考えることができ、自分の可能性は大きく広がるだろう。』


僕にも不思議に思えるのだけど、世の中のあらゆることに流されている人は、自分が支配されているのに気づかないようです。例えば、テレビで紹介されていたからと言ってその本を買ってしまうような人は、僕からすればもの凄く支配されている人にしか見えないのだけど。

『そもそも農業というものが既に自然の営みではない。極めて人工的な行為だ。田畑で穫れる作物とは、ようするに「養殖」された植物である。自然とはほど遠い人工的な環境にとって大量生産され、また品種改良された製品なのだ。
これを成し遂げたのは科学である。(中略)
「人工」や「科学技術」を捨てて、過去へ戻ることはできないし、まして現在の人口を支えることはまったく不可能なのだ。』


自由というのは人工的なものなのだよ、という話での例示。僕はマスコミとか新聞とかで取り上げられる問題について違和感を感じることが多いんだけど、それは森博嗣がここで明らかにしているような『前提の認識の間違い』(この表現が正しいかどうかは分からないけど)が問題なんだろうなと思う。

『流行というものがあって、大勢の人たちがそれを気にして、できるかぎり従おうとしている。自分の着るものくらい自由に選びたくないのだろうか?どうして流行に左右されるのだろう?
(中略)
しかしそれでも、もう少し個性的な選択があるように思える。流行を取り入れることは、つまりは考えなくて良い、「手軽な安心」の選択なのだ。それに従っていれば、誰かに文句を言われないで済む、という緩やかな「支配」に甘んじているといえる。』


僕は服には興味がないんですけど、この文章の「服」を「本」に変えると、まさにその通りだよな、と実感します。自分が読む本ぐらい、自分で自由に選びたくないのだろうか?

『(ブログを書いていると、ブログに書きやすい日常を過ごしてしまう、だから試しに一ヶ月ぐらいブログを休んでみたらという話の後、)
誰にも見せない、誰にも話さない、としたら、貴方は何を選ぶ?自分のために選べるだろうか。自分が本当に欲しいもの、自分が本当に好きなものは何か、と考えることになるはずだ。ものを買うとき、選ぶとき、他者からどう思われるかを判断基準にしている、少なくとも、その基準が大半を占めていることに気づくはずだ。』


僕もブログは書いているし、ブログを書くことで読書のスタイルに多少の制限はあるのだけど(なるべく長い本は読みたくない、など)、それでもブログに書きやすい本を選ぶことはしないし、読みたくない本を読んでいるわけではない。支配に自覚的になればいいという話で、ブログが悪いという話ではないのです。

『僕は、だいたいにおいて、他人の目を気にしない人間だと思う。自分が基準なので、自分が普通だと思うわけで、結局、「何故、みんなはあんなに人の目を気にするのか」と考えるはめになる。ものごとを客観的に観察しようとすると、人の目といった想像上の(思い込みの)自分の目こそ疑いたくなる。
もう少し説明すると、「人の目を気にする」人間の大半は、「自分の周囲の少数の人の目を気にしている」だけである。そして、「人の目を気にしない」というのは、自分一人だけの判断をしているのではなく、逆に、「もっと確かな目(あるときは、もっと大勢の目)」による評価を想定している、という意味だ。それは、「今の目」だけではなく、「未来の目」にも範囲が及ぶ。それが「客観」であり、「信念」になる。』


これはまさに僕が普段考えていることとまったく同じです。

『周囲から見ると、「自由な仕事」なんて、天国のような理想郷に思えるかもしれない。しかし、まったくその反対である。
そういった職場にいると、大きなプレッシャがかかるのだ。その証拠に、ときどき、教授から「ちょっと、これを手伝ってくれないか」などと仕事を頼まれると、もの凄く嬉しい。やらなければならないことがある、という状況が非常に清々しいのである。』


国立大学の研究者という立場だった森博嗣だからこその実感でしょう。確かに、「やらなければならないことがある」という状況は楽だなと僕も思います。

『僕がいいたいのは、「自由」が、思っているほど「楽なものではない」ということである。自分で考え、自分の力で進まなければならない。その覚悟というか、決意のようなものが必要だ。』


これは僕も分かる。僕は生きてるのがめんどくさいんだけど、それは自分の価値観に沿って生きていくのがハードだからだ。もちろん、世間一般の価値観に流されるようにして生きていくことが楽だということは充分に分かっているけど、同時に僕は、自分の価値観を抑えて世間一般の価値観に流されるようにして生きていくのは不可能だと分かっているので、まあ仕方ないですね。

『(小学生がテレビ番組の企画でドミノ倒しをやり達成感を得ている話を書いた後で、)
自分の発想でやり始め、自分が自分に課した目標であれば、たとえ見かけ上それを達成したとしても、新たな目標が必ず出てくるし、途中できっと不満な部分に出会い、あそこを直したい、もう一度ちゃんとやり直したい、という気持ちになるはずだ。自分の自由でやると、絶対にそうなる。経験がある人にはわかるだろう。
コンテストや競技、あるいは競争というイベントのときだけに「やった!」という達成感がある。とりもなおさず、それは自由を獲得したというよりは、不自由から解放されただけのことで、単に自由の出発点に立ったにすぎない。』


なるほど、これは僕の発想にはなかったので、うっかりしていたな、と思いました。確かにそうですね。これからは少しは気をつけようと思いました。

『僕は、「友達を作るな」といっているのではない。「そんなに無理に作らなくても良い」という意味だ。「友達が作れなければ、もう生きていく資格がない」と考えているとしたら、それは間違いである。静かなところで一人でいた方が安心出来る、一人の方がのびのびした気持ちになる、という人はいる。いても良いのである。大勢がそうだとはいわないが、必ずいるはずだ。そういう人たちが、大勢が押しつける「常識的」な価値観に悩まされているのも事実である。みんなでがやがや賑やかなことが必ずしも善ではない。「常識的な大勢」は、そのことをもう少し理解した方が良い。』


これはまさに親が理解すべきことだなと思います。

『もちろん、お祭り、宴会、イベントが無性に好きだ、という人はそれで良い。(中略)どうしても「やらなければならないもの」と考えることは、実に不自由である。少なくとも、やるかやらないかを選択出来るものでなければならない。「式」がつくものは、ほとんどやってもやらなくても、どちらでも良いものだ。個人の好きにすれば良い。本当はやりたくないけれど、人から何を言われるかわからない、後ろ指をさされたくない、だからまあ、やっておくにこしたことはない、という考えの人も多いことと思う。その支配に甘んじているわけである。』


僕も、万が一結婚するようなことがあっても結婚式なんてしたくないし、自分が死んでも葬式なんてしてほしくない。最近「葬式は、要らない」って本が売れてますよ。

『(封建社会や軍国主義のもとでは)こういった不自由さは非常にわかりやすいから、そんな社会では自由が渇望され、本当の自由を多くの人たちが夢見たことだろう。不自由な社会では、みんなが思い描く自由はほとんど一致している。遠くにあるからこそ、ほぼ同じ方向に見える。』


この、「遠くにあるからこそ、ほぼ同じ方向に見える」という発想は素晴らしいなと思います。

『(住宅ローンについての話)そして、35年間も、健康で、給料が下がらず、そもそも住宅が価値を保ち続けるという奇跡を信じる楽観主義者以外は、手を出さない方が賢明である。少なくとも、リスキィな選択だと認識すべきだ。』


僕もそう思います。わざわざ借金してまで家を買うのはアホだと思います。

『(嫌なことがあれば嫌だと伝えるべきだという話の後で、)ただ、意見を伝えるだけで、仕事の進行に抵抗してはいけない。仕事をきちんとこなさなければ、通る意見も通らない。』


これを自覚出来ていない人は結構多いような気がします。仕事自体や仕事の環境自体にウダウダいうのはいいけど、まずきちんと仕事しろよ、と僕もよく思います。

『もう20年以上もまえに僕が見出した法則の一つに、「悩んでいる人は、解決方法を知らないのではなく、それを知っていてもやりたくないだけだ」というものがある。』


だから僕は人にあんまり相談とかしません。僕は解決方法を知っているけどそれをしたくないだけだ、ということを自覚しているからです。大抵人に相談している時点で、自分の中では結論が出ていると思って間違いないでしょう。

『(自由を手に入れるための秘訣の一つとして)最初に思い浮かぶのは、「みんなと同じことをしない方が得だ」ということである。これは、かなりの確率で成功する秘訣のように思う。』


僕もそう思います。

『非合理な常識よりも、非常識な合理を採る。それが自由への道である。』
いい言葉ですねぇ。

『だが、そもそも常識の9割は、個人の思い込みが、社会的にぼんやり映し出されて集積したものだ。』


僕は明確な判断基準がある場合(法律や、あるいは店の売上を伸ばすなど)は『常識的』というフレーズを使ってもいいと思っているんだけど、そうでない場合、『常識的』という言葉はほとんど何も意味をなさない言葉だと思っています。

『たしかに、「森博嗣の初期の作品が面白い」と評されることは多い。それは、そういう面白さを、初期には狙って書いていたからだ。悪い言葉でいえば、それに乗せられた人が多かったのだろう。騙された、と表現しても間違いではない。手品だって騙されるのだし、エンタテインメントとは、乗せられてなんぼ、のものである。』


僕も、「森博嗣の初期の作品が面白い」と評している人間の一人です。でもそれは、僕個人の感覚で言えば正しいのだから、別にそれでいいと思っています。それを誰かに押し付けたり、あるいは森博嗣という作家はだんだんダメになっていったなんていう表現と結びつけてはいけないと思うけど。

『たいていの場合、夢の実現が困難になって、いわゆる「挫折」を味わうのは、「もう駄目だ」と本人が諦めた瞬間である。本人が諦めなければ、限りなく不可能に近い夢であっても、挫折は訪れない。細いながらも道はまだつながっている状態と言える。』


とはいうけど、これはなかなか難しいでしょうね。僕には特に夢とか目標はないんで、別にどうとも思いませんけど。

『(自分を騙す、あるいは思い込むという話の具体例として)たとえば、「毎日一万文字書く」というノルマを決めたとする。一万文字という制限は、それをクリアしなければならない「下限」の意味だ。しかし、これを僕は「上限」だと思い込むのである。「一万文字以上書いてはいけない」という意味だと無理に捉えるのだ。』


このやり方は素晴らしいですね。みなさん、実践してみたらいいと思います。

というわけで、久々に相当長々と書きましたけど、良い作品でした。全人類に読んで欲しいなと思います。新書で読みやすいですよ。是非是非是非読んでみてください!


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