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【本】サイモン・シン「フェルマーの最終定理」感想・レビュー・解説

数学の美しさは、驚異的であり、かつ特殊である。


美しいもの、と言って思い浮かべるものはなんだろうか?例えば、人にも確かに美醜はある。あるいは、建造物や宝石、文章や絵画、自然や環境、そういった様々なものに美しさを感じることだろう。


さて、おおまかに二つに分けよう。つまり、人間が作ったものとそうでないものの二つだ。


人間は古来、ありとあらゆるものを作ってきた。それは、利便さを追求してきたものもあるが、美しさというものを追い求めてきたものも数多くある。
しかし、人間が生み出したものに対して感じる美しさは、どこか『違う』という感覚を与えはしないだろうか?


うまく表現できる自身はなにだが、テレビドラマを例にあげようと思う。


テレビドラマというのは、いくつもの『お約束』というものがある。今はこんなシーンはアニメぐらいでしかありえないだろうが、例えば、朝遅刻しそうになって学校に向かって走っていると、可愛い同級生とぶつかって…、あるいは、事件解決のシーンは何故かいつも崖か岩場、というような、つまりそういうことである。


僕らはテレビドラマを見る時、そういった数々の『お約束』というものを、こう捉えているだろう。現実の生きる人間としては、それは不自然だと理解している。しかし、テレビドラマを見ている時の人間の心理は、そのテレビドラマの内部にあるのである。そのテレビドラマの内部からの視点で捉えれば、その『お約束』は不自然ではない、という風に処理できるのである。こうやって僕らは、現実世界ではほぼ起こりえないと知っている数々の『お約束』を処理しながら、テレビドラマを楽しんでいる。


さてここで話を戻すが、人間が作ったものに対して人間が感じる美しさというのも、それと同じ構造を持っているのではないか、と思うのである。つまり、『人間が作ったもの』を見ている『人間』は、『人間が作ったもの』と同じ部分にある。これは、『お約束』を見ている人間の視点が『テレビドラマ』の内部にあることと対応している。その上で人間は、その『人間が作ったもの』に美しさを感じる。そういう構造ではないかと思うのだ。


もし人間が、今いる世界のもうひと回り外側の世界(つまりそれは、テレビドラマを見ている現実の人間の視点に相当する)にいくことができるとするならば、もしかしたら人間の作ったものは、テレビドラマの『お約束』のように不自然なものなのかもしれない。僕はそんな風に思ってしまうのである。


もちろん、人間が作ったものに対して僕も美しいなと感じることはよくある。特に僕は、緻密な建造物・奇抜なデザイン・流麗な文章、そういったものに美しさを感じることが多い気がする。しかし、あくまでもそこには、人間が作ったものである、という限界が存在するような気がしてしまうのも事実である。


一方で、人間が作ったわけではないもの、ここでは自然と表現するけれども、それを考えてみよう。


僕は、自然というものは何にしろ、美しさを備えていると思う。


ここで注意しなくてはいけないことがある。僕らは、刷り込みとして、『自然=美しいものだ』という概念を植え付けられすぎている、ということだ。とにかく、自然は美しいものである、という概念ばかりが広がりすぎている、と感じる。


僕は僕なりに、できるだけその固定観念を排除した上で、それでも自然は美しい、と判断しているつもりである。証明はできないけど。


というわけでここでは、自然は美しいものということで話を進めていく。


さて、自然は何故美しいかと言えば、逆説的な話になってしまうが、結局それを人間が作り出すことができないからではないかと思うのである。


例えば人間は、クローンという技術を生み出した。これは倫理的にかなり賛否両論を集めているが、これにしても、自然を単にコピーしているだけにすぎない。また、砂漠に緑を、という活動があるけれども、結局あれも、自然の再生能力を補助しているにすぎない。


というかそもそも、『人間が生み出したわけではないもの=自然』という定義をしているので、何を作ろうが人間が作ってしまえばそれは自然ではないのだけど。とにかく、人間は自然に太刀打ちできないからこそ、そこに美しさを見出すのだろうと思う。


また、自然は人間が存在しなくても美しくありつづける、というところもまたいい。例えば、人間が作り出すものは、人間が存在しなければその美しさも存在しない。しかし自然の場合、人間がいようがいまいが関係なく、それだけで美しいのである。


さて、ここまでが前置きで、ようやく数学の話をしよう。


では、数学は、人間が作ったものなのか、あるいは自然なのか、どちらだろうか?


この質問は、本質的に難しい部分を含んでいる。というのも、この問いは、長年数学者の間で語られているからである。


数学者の数学に対する立場というのは二通りある。


一つは、数学は元から『存在』するものであり、人間はそれを『発見』しているだけだ、という立場。これは、『神様のノートを覗き見る』というような表現をされる。


もう一つは、数学は人間が『生み出した』ものであり、人間はそれを『発明』しているのだ、という立場である。


前者が、『数学=自然』、後者が、『数学=人間が作ったもの』ということになるだろう。数学者の間でも意見がわれているのである。


数学は、人間という存在がいなければ間違いなくその美しさを見出すことのできなかったものである。そう考えれば、数学は自然ではないのかもしれない。しかし一方で、数学の中で見出される美しさは、とても人間が生み出したとは思えないほどの超越した美しさなのである。


数学の美しさを言葉にすることはとても難しい。しかしその美しさは、体感することさえできれば、他に代えようもないほどの鮮烈さを持っていて、なるほど、数学に魅了される人間がこれほどにも多いのも頷けるな、という感じがする。


数学者は、美の探究者だ。それは、学問を追い求めるというよりも寧ろ、芸術を追い求める姿勢に近い。数学者は、まだどこかに眠っているかもしれない美の神秘を求めて、日々思索に耽っているのである。それがどれほど高級な思索なのかを、なかなか普通の人は知ることができない。


本作は、そんな数学者の高級な思索の一端を垣間見せてくれる至極の作品である。


というわけで内容に入ろうと思います。


さてまずは、本作のテーマである、フェルマーの最終定理について説明しようかと思います。この定理は、様々な経緯を経て、数学にあまり興味のない人間にも広く知れ渡ったものなので、知っている人も多いかと思います。


まずは本作に倣って、ピタゴラスの定理、という懐かしい話をしましょう。恐らく中学時代(小学校では習わないよな、確か)に誰もが馴染んだあの定理です。

ある直角三角形の、直角に交わる二辺の長さをそれぞれx,y、斜辺の長さをzとした時、どんな直角三角形についても、


(xの2乗)+(yの2乗)=(zの2乗)


が成り立つ、というのがピタゴラスの定理でした。


さて、今から350年ほど前の数学者フェルマーは、このピタゴラスの定理を拡張して考えてみることにしました。すなわち、nを自然数(n=1,2,3,4…ということ)とした時に、


(xのn乗)+(yのn乗)=(zのn乗)


を満たす整数解x,y,zが存在するだろうか、ということです。


つまり、


(xの3乗)+(yの3乗)=(zの3乗)
(xの4乗)+(yの4乗)=(zの4乗)
(xの5乗)+(yの5乗)=(zの5乗)
………


というような式が成り立つような整数解x,y,zはあるだろうか、とフェルマーは考えたわけです。


そしてフェルマーは、ある本の余白に、世界中で有名となった次の文句を書いたのです。


『(xのn乗)+(yのn乗)=(zのn乗)
を満たすような整数解x,y,zは存在しない。
私はこの定理の真に驚くべき証明を持っているが、余白が少なすぎてここには書けない。』


なんとも人を喰った男である。以来350年間、この問題はフェルマーの最終定理として、そして、数学上最も証明の困難な問題の一つとして、数学界の中でも特異な位置を占めていたわけです。それゆえに、フェルマーの最終定理に関わる歴史には、ありとあらゆるドラマとロマンが詰まっています。本作には、そのすべてが詰まっている、と言っていいでしょう。


大まかな流れは、他の同様の本(フェルマーの最終定理に関する本はいくつか読んだことがある)と同じような形式です。すなわち、まず古代の数学の話が出て、フェルマーとその時代の話が描かれる。そこから、フェルマーの最終定理と格闘した数学者、またはなんらかの貢献をした数学者の話を続け、そして最後に、フェルマーの最終定理を見事証明したアンドリュー・ワイズという数学者に焦点を絞っていく、という形式です。形式に特に変わったところはないし、むしろ王道だと言えるでしょう。

しかし、本作は、他のどんなフェルマーの最終定理に関する本よりも、そして他のどんな数学に関する本よりも(無論僕が読んだ中ではということだけど)、とにかく簡単に分かりやすく書かれていて、しかも面白い作品でした。サイモン・シンという作家は、本当に稀有な能力を持った作家だな、と思いました。


まず、全体の構成は特に他の作品と変わらないのに、流れというものが本当にうまく作られています。通常、フェルマーの最終定理に関わらず、数学に関する本となると、ある一連の明確な流れを示すということは難しいです。

というのも、一つの証明の話の中に、いくつもの必要な知識があるわけだからです。他の本ではそれをどう処理しているかというと、『ここでちょっと、今後の展開に必要なので、流れを一旦切って~~の話をしましょう』という感じで持っていくのである。


しかしサイモン・シンは、フェルマーの最終定理に必要な道具や知識を、ある大きな流れの中に巧みに潜ませ、流れを分断することなしに読者を導いていきます。これは本当に驚異的な構成力だと思いました。さすがに、章と章の間では流れは切れているけども、ある章の内部で言えば、ある話の過程で必要な知識を提示し、その提示された知識を元とする話を次に出し、さらにその流から次に必要な知識に結びつく話をする、という感じで、無駄がないし、息継ぎなしでも苦しくない、という表現がぴったりの作品でした。


また、他の数学の本では、読者にはどうせ理解できないだろうから、という著者の考えが見え隠れすることが多いです。例えば、


『モジュラー形式とは、喩えていうならば…』


と言った感じの文章があるとしましょう。この場合文章の奥には、


『(読者にはきっとわからないだろうけども)モジュラー形式と(いうものがあってそれ)は、(読者にはわからにだろうから)喩えていうならば…』


というような思考が読み取れてしまう、そんな文章が多いのです。しかし本作の中でサイモン・シンは、そんな逃げを打つことはありません。

例えばモジュラー形式ならば、それを、できるだけ具体性を排除した上で、しかし抽象的にもなりすぎず、できるだけ多くの人が理解できるように、という風に配慮されています。

通常フェルマーの最終定理の本ならば、証明の最終段階についてあれこれ詳しく書いたりはしません。大体、谷村=志村予想に触れ、これを証明できさえすればフェルマーの最終定理を証明したことになるということを示し(この証明すら省かれるのがほとんど)、さらにそれがモジュラー形式というものと関係があるのだということをほのめかし、そして証明された、という形で終わるものが大半だと思います。

しかし本作では、なるべくわかりやすい形で、何故谷村=志村予想を証明すればフェルマーの最終定理を証明したことになるのか、という点にも触れ、またモジュラー形式と楕円曲線の関係とその解法へのアプローチというものについてもある程度踏み込んでいる、という、今まで読んだこともないような内容まで書いてあって、しかもわかりやすいという、本当に驚異的な作品でした。


さて、本の内容から離れて、もう少しフェルマーの最終定理についての話をしましょう。


フェルマーの最終定理は、それが発表された当時、そしてしばらくは比較的注目された難問でした。しかし、実は次第にその価値が疑われるようになってきて、つい数十年前まで、大方の数学者が見向きもしないような問題になってしまいました。それは、それを解くことで名声は得られるかもしれないが、解くことに膨大な時間が掛かる上、解いたところで数学という分野に新たな革命をもたらすものではないだろう、と思われていたからです。


しかし、谷村=志村予想が現れ、その考えが一変しました。


名前からわかるようにこの予想は、ある二人の日本人が生み出したものです。これはどういう予想かということをなるべく簡単に説明しようと思います。


古代の数学者から連綿と受け継がれてきた分野に、楕円曲線というものがあるます。ある方程式の形で表されるものに関する分野で、これは古来から長年の伝統のある由緒正しき数学の一分野です。

一方で、モジュラー形式という、かなり最近の数学の分野があります。これは、他の数学との関連性が極めて弱いという、追求することにあまり価値を感じさせない分野で、世界では置き去りにされた分野でした。


日本の谷山と志村は、このモジュラー形式の注目し、ある一つの予想を打ち立てることになります。それは、あるモジュラー形式は、ある楕円曲線と対応しているのではないか、ということです。比喩的な表現をすれば、『モジュラー形式』という名前の南京錠と、『楕円曲線』という名前の鍵があって、それが一つ一つに対応している、つまりある『楕円曲線』という名前の鍵で開けられるのは、ある一つの『モジュラー形式』という名前の南京錠だけなのではないか、という予想でした。


この予想は、発表された当初はまるで見向きもされませんでした。それは、そんなことが成り立つわけがない、という感情からでした。何故なら、古代から伝統のある『楕円曲線』と、最近になってようなく研究され始めた『モジュラー形式』が、結局は同じものであるということがあるだろうか、と思ったからです。


しかし次第にその素晴らしさが認められ、「もし谷村=志村予想が正しければ…」で始まるいくつもの証明が提出されるようになりました。この予想が証明されれば、数学界でかなり有益だと考えられるようになりました。しかしこの谷村=志村予想は、証明するのがかなり困難だと思われていたのです。


そしてある数学者が、谷村=志村予想とフェルマーの最終定理を結び付けました。つまり、谷村=志村予想を証明しさえすれば、自動的にフェルマーの最終定理は証明されたことになる、ということが示されたわけです。


これで、フェルマーの最終定理は、またも表舞台に戻ってきました。フェルマーの最終定理を証明することは数学的に特に進歩がないと思われていたのが一変し、フェルマーの最終定理が証明されれば、数学界でもかなり有益な予想である谷村=志村予想も証明されたということであり、数学界にとって大きな一歩になるからです。


日本人としては、フェルマーの最終定理という難問に、日本人のアイデアがかなりコアな部分で関わっている、ということが誇らしく思えます。さらにもう一人日本人が関わっているのです。それは、フェルマーの最終定理を証明したと思っていたワイルズの証明に穴があることがわかり、途方にくれていたワイルズに最後の光明を見出した岩澤理論というものでした。日本人もなかなか素晴らしいものです。


さて最後に、数学における証明がどれほど重要であるか、という強烈な例が載っていたので、書いてみようと思います。


フェルマーの最終定理は、コンピューターを使って、nがかなりの大きさまで行っても整数解は存在しないということがわかっていました。普通の感覚ならばそれでいいのではないかという感じになるのですが、一つ反例があります。


オイラーという数学者が提唱した「オイラーの予想」というものがあります。それは次のようなものです。


(xの4乗)+(yの4乗)+(zの4乗)=(ωの4乗)


が成立するような自然数解は存在しない、というものである。長年に渡ってこの「オイラーの予想」は、証明されることも反例が見つかることもなかった。コンピューターで結構大きな値までやってみたけど自然数解は見つからなかったので、誰もがこの予想は正しいのだと思い始めた。しかし、1988年にノーム・エルキース人が、次のような解を発見したのである。


(2682440の4乗)+(15365639の4乗)+(18796760の4乗)=(20615673の4乗)


というわけで、オイラーの予想は成り立たないということが証明されたわけだが、しかしすごい数字である。


こういう点から見ても、数学において証明というものは、とても大事なのである。


フェルマーの最終定理には、ロマンと絶望とドラマがつまっています。普通は、文系の人間だけでなく、理系の人間でも理解するのはお手上げな世界です。しかし、サイモン・シンという非凡な才能を持つ作家が、理系の人間だけでなく、文系の人間にもわかりやすい本を書いてくれました。それに感謝して、皆この本を読むべきではないか、と僕は思います。数学の美しさというものが隅々にまで行き渡った作品です。是非読んでみてください。


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