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【本】宮部みゆき「ソロモンの偽証」感想・レビュー・解説

久しぶりに、物語に浸りきった。


これほど長い物語を読んだのに、まだ読み終わりたくないとずっと思いながら読んでいた。


ずっと、彼らの物語に付き合っていたいと。


そして、こんなに魅力的な面々に囲まれた、苦しくても前向きな夏休みが、凄く羨ましいと。


本当に、そんな風に思わせてくれる物語でした。


あー、ホント、読み終わりたくなかったなー。

内容に入ろうと思います。


本書は、1巻当たり700ページ強で、全3巻という、なかなか化け物みたいな分量の物語です。間違いなく、僕がこれまで読んできた本の中で、一番長い物語です。


それぞれの巻毎に、かなりはっきりと区切りが分かれていて、まずその区分からざっくり書いてみます。

1巻 【事件発生&そこから始まる怒涛の展開】
2巻 【裁判開廷の決意&準備】
3巻 【裁判】

という形になります。


ここで大事なポイントは、この作品における『裁判』は、普通の裁判ではないという点です。


彼らは、中学校で起こったとある出来事について、現実の裁判所に対して何らかのアプローチをし、裁判を開かせようとするわけではありません。どだい、中学生にそれは無理でしょう。


彼らがやろうとしていることは、『中学生の被害者』を追い詰めたという容疑を掛けられている『中学生の被疑者』を、『中学生の検事』が追究し、『中学生の弁護人』が擁護し、『中学生の裁判官』が裁定しつつ、『中学生の陪審員』によって評決が下されるという、非常にざっくりとした表現をすれば【裁判ごっこ】をやろうとするわけです。


もちろん、『ごっこ』なんて表現できるような生ぬるいレベルではない。それが、この物語に凄まじさを与えている。


本書は、確かに物凄く分量のある物語だ。僕も、本屋大賞の一次投票でノミネートされなければ、きっと読まなかっただろうと思う。そう思わせてしまうほどのとてつもない分量だ。僕も、「読み始めたら一気読みだ」という評判は前々から聞いていたのだけど、なかなか手が伸びなかった。確かに一気読みなのだけど、ただまだ1巻目を途中までしか読んでいない頃に、こんな風にも思った。


『そりゃあ、こんだけ枚数を費やせるなら、どんな風にでも展開させられるし、なんだって書けるだろう。もちろん、そういう作品を書ける環境を実力でもぎ取った宮部みゆきは凄いと思うけど、でもこれだけの分量を使って描くのはやっぱりズルいな』

でも、その印象は、読み進めていく内に大きく変化して行きました。

『なるほど。この物語には、これだけの分量がどうしても必要だったのだ』

そう思うようになりました。何故なら、僕はこう考えたからです。

『中学生が、すべて自前で裁判を開くことに、圧倒的なリアリティーを持たせるためには、どうしてもこれだけの分量が必要だったのだ』

『中学生が自前で裁判』と聞いただけで、おいおい大丈夫かよ、と思う方もいるのではないかと思います。そんなん、出来るわけないだろうがよ、と。もちろんその反応は、本作中の大人たちの反応でもあり、裁判に関わらないことに決めた多くの生徒達の実感でもあります。

ただ、読んでいると、なるほど彼ら彼女らであればこの裁判をやろうという意志を持つだろうし、そしてやり遂げるだろうと、そんな風に自然と思わせてくれる。裁判シーンについては、おいおい中学生にはちょっとオーバースペックすぎやしないかい、と思わせる部分もないではないけど、でもそれも、それまでの緻密な書き込みによって、ある程度の納得感を与えてくれる。『中学生が自前で裁判を行なう』という、現実にはありえなさそうな途方も無い物語に、可能な限りリアリティーを付与するために、どうしてもこれだけの分量が必要だった。僕は読んでいてそう理解しました。


というわけで、分量にひるまずに、是非読んで欲しいと願うばかりであります。


というわけで、仕切り直しでもう一度書きます。


内容に入ろうと思います。


1990年12月25日。前夜から振り続けた雪が辺りを白く染め上げる中、城東第三中学校の二年生である野田健一は、遅刻しそうになっていた。正門に回っていたら間に合わない。彼は、遅刻者や、あるいは学校から抜けだそうとする者がよく使う通用門に回り、教師に見つからないように学校に入ろうとした。


そこで、死体を見つけてしまう。


顔を見た瞬間にわかった。柏木卓也。彼と同じ2-Aのクラスメートだが、現在は不登校中であるはずだ。その柏木が、なんで?


学校は大騒ぎになった。とはいえ、柏木卓也は、学校内ではそれほどまでに存在感の強い少年ではなかった。後々、彼が様々な人間に対して『不可解な爪痕』とでも呼ぶべき違和感を残してきたことが明らかにされるが、しかしこの時はまだ、柏木卓也はただの不登校の少年であり、不登校になっていることさえ同学年でも知らない者もいるという、その程度の存在であった。柏木卓也を発見した野田健一にしても、同じクラスにいたという認識程度であり、彼のことは詳しく知らなかったし、友達だとも思っていなかった。

葬儀の場で、柏木卓也の両親は、息子は自殺したのだと思う、という発言をし、また警察の調べでも他殺を強く疑うような根拠は特に見つからず、柏木卓也は自殺したのだということで多くの人間の見解は一致していた。


しかし、根拠のない噂も出まわることになる。それは、城東第三中学校の札付きのワルである大出俊次とその子分である橋田祐太郎と井口充である。彼らが何らかの形で関わっているのではないかという噂は、既にくすぶり始めていた。


そしてそれは、仕方のないことだった。


彼ら三人の素行は教師でも手を焼くほどであり、彼らから被害を被った人間は、学校内だけではなく方方にいた。手荒なことであれ躊躇なくやってしまう恐ろしさを、多くの人は実感と共に持ちあわせていた。さらに、大出俊次の父親がまたとんでもない人物であり、短気で凶暴であることは知れ渡っていた。あの親にしてこの子あり。彼なら、何をするか分からない。
そんな折、学校中を揺るがすようなとんでもない代物が出てきた。
告発状だ。


匿名の告発状は、大出俊次とその取り巻きが、柏木卓也を突き落としたのを目撃したと告発していたのだ。


というような話です。


冒頭でも書きましたけど、とにかく凄い物語でした。久々に、物語の世界に浸り切ったな、という感じがします。読みながら、彼らと一緒に様々な『事件』を体験し、彼らと共に『調査』をし、彼らの横で『裁判』を聞いているような、そんな感じさえしました。


正直に言えば、1巻目は、スイスイとは読み進められなかった感じはあります。これは、ある程度は仕方ないと思います。というのも、この1巻で、その後の『調査』と『裁判』の屋台骨を支えるありとあらゆる状況や要素を描き出さなければならないからです。いわば1巻は、「トランプを配っている」ような物語であって、2巻3巻でようやく「クラバレたトランプを使ったゲームが始まる」というようなイメージです。

もちろん、別に1巻がつまらないと言いたいわけではありません。十分に面白い作品です。ただ、2巻3巻を読んでいる時の、あのどっぷり浸かっているような感じは、1巻目を読んでいる時にはなかったように思います。なので、これは切にお願いなのだけど、もし1巻を読んでいて、うーんあんまりかなぁと思っても、そこで読むのを止めないでください。2巻以降の物語が、きっとあなたを虜にしてくれると思います。


さて、色々書きたいところなんだけど、やっぱり物語そのものに関わる部分にはどうしても触れられないので、そういう部分を避けつつ、どうにかあれこれ書いてみようと思います。

まず、とにかく手放しで絶賛したいのが、藤野涼子を始めとする、学校内裁判の主要な関係者の「人間力の高さ」です。これは本当に素晴らしい。


中学生らしくない、と言われれば、まあその通りかもしれない。いくら舞台設定が25年近く前であっても、中学生でここまでのことが出来ると想像するのはなかなか難しい。ずば抜けている要素は違うとはいえ(熱意だったり、風格だったり、能力だったり)、中学生とは思えないレベルで思考・行動を続ける彼らに、むしろ共感できないような人もいるかもしれません。


僕はそうではありませんでした。僕自身は、「大人がそう思うこと」こそが、子供を窮屈にさえ、ひいては本書で描かれているような展開に繋がってしまうのではないか。そんな風にさえ思えます。


学校という場について、野田健一がこんな風に述懐する場面がある。

『僕は、学校は世渡りを学ぶ場だと思っています。自分がどの程度の人間で、どの程度まで行かれそうなのかを計る場です。先生たちは、先生たちの物差しでそれを計って、僕らにそれを納得させようとします。だけど納得させられちゃったら、たいていは負け犬にされます。先生たちが「勝ち組」に選びたがる生徒は、とてもとても数が少ないから』

子供は、大人のことをよく見ている。本書では、「子供→教師」の眼差しだけではなくて、「子供→親」の眼差しも様々に描かれる。むしろ、様々な環境の家族が描かれるために、「子供→親」の眼差しの多様性の方が目に付くかもしれません。


たとえば、大出俊次や、作中でなかなか重要な役回りとして登場する三宅樹里、あるいは野田健一にしても、親とのコミュニケーションに別々の形で苦労することになる。彼らは、自分の言葉が親には通じないという絶望を胸に、それでもその環境で生きていかなくてはならないという諦念と闘いながら日々を過ごしている。

柏木卓也は不登校になるのだけど、何故不登校になったのかというのが次第に語られていくことになる。これは、物語そのものには大きく関わる要素ではないけど、柏木卓也というパーソナリティを描き出すのには非常に重要な要素で、僕は柏木卓也のこの部分について触れたいので、不登校になった理由を書く。


柏木卓也は、

『学校に通う意味がない』

と感じていた。


この感覚は、僕も凄く理解できると思った。柏木卓也のパーソナリティについて書き過ぎないようにしないといけないけど、とにかく柏木卓也は、学校という場に見切りをつけていた。


僕も、柏木卓也と同じような感覚だったかまで分からないけど、学校というものに失望を感じながら学校に通っていたように思う。


それは、学校という場で出会う大人(つまり教師)への失望ということになるだろう。


僕には、彼らが「まっとうな大人」であるようには思えなかったのだろうと思う。昔のことだからもうはっきりとは覚えていないけど、教師に対して、この人は信頼出来ると感じられた人は、ごくごくわずかだったと思う。


しかし、その感覚に、絶対の自信も持てないでいたと思う。というのも、これは高校ぐらいまでなら普通だと思うけど、それまでの人生で出会う大人は、親族と教師ぐらいしかいないからだ。だから、教師という大人が真っ当なのかどうか、正しい判断基準を持つことが出来ない。


柏木卓也は、そういう点についてははっきりとしていた。自らの考えに自信を持っていた。裁判の過程で、柏木卓也というパーソナリティが様々な形で明らかにされるのだけど、それらは非常に興味深いし、読む人によっては彼に共感を覚えることもあるだろう。


僕は学校というのは、『「学校という特殊な場」でしか通用しない「存在意義」を早くから見出し、それに疑問なく従える人間』にとっては、とても居心地の良い環境だろうと思う。外側との繋がりがかなり絶たれた環境の中で、限られた価値観に押し込められながら(それを、「教育」と読んでいる)、特に何に疑問を抱くでもなく日々をやり過ごせるのは、とても羨ましい。

でも、そんな風に出来ない人間もいて、そういう人間にとって学校という場は酷く残酷だ。その中にいる意味を見いだせない、と感じられてしまうことも、凄くよく理解できる。


恐らく現実の世界でも未だにそうなのだろうけど、本作では、大人が子どもを「子ども扱いする」ことで支配しようとする、そんな構造が見え隠れする。本書で描かれる問題は、ほとんど最初から最後まで「生徒たちの問題」だったはずだ。常に、生徒たちが中心の出来事であったし、生徒たちが中心にいるべき出来事であった。

しかし大人は、中心にいるはずの生徒を無視した。様々な形で関わることになる大人(教師だけではない)の多くは、中心にいなければならない生徒たちを排除し、それらを「大人の問題」にすり替えてしまう。

生徒たちは、それに対して、生理的な拒否感を覚えたのだろう。いや、そういう感覚を抱いたのはごく僅かな生徒だったのだけど、その熱意が学校内裁判を開かせるに至った。これは「生徒たちの問題」だと、大人に突きつけた。そして、生徒たちだけで問題に対峙し、真相を追究した。


彼らは確かに中学生で、まだまだ子どもだ。でも、子どもだからと言って、真っ当な判断が出来ないわけではない。大人になると、何故かそのことを忘れてしまう。この作品で描かれるゴタゴタは、結局のところ、「大人が生徒を子ども扱いした」がために起こった、なんて言い換えてもいいかもしれない。


そういう作品だからこそ、子どもを子供扱いしない大人の存在は光った。作中でも、何人かそういう大人が出てくる。立場は様々だけど、皆、彼らの決断と勇気に喝采を送り、一人の個人として相手を尊重し、子どもだからと言って軽くあしらうことをしない。本書では、お手本にすべきではない大人もたくさん出てくるのだけど、お手本にすべき大人も結構出てきて、やはりそういう大人には好感が持てるなぁと思う。


学校内裁判の関係者は皆本当に素晴らしいのだけど、その中でもやはり、検事である藤野涼子、判事である井上康夫、弁護人である神原和彦の三人は、本当に見事だと思う。


藤野涼子には熱意が、井上康夫には風格が、神原和彦には能力が備わっている。


藤野涼子は、この学校内裁判を開こうと主張し、様々な無茶を繰り返しながらどうにか開廷にまでこぎつけた。彼女は、当初自分が関わろうとしていたのとは違った形で裁判に関わることになってしまい、そして初めの内はそれにかなり苦しめられることになる。それでも、覚悟を決め、自分がすべきことがなんであるのかを明確に見定めることが出来るようになって、ようやく決然と前に進み出せるようになる。


勝ち負けを争う裁判ではない。真相を明らかにするための裁判なのだ。


その意志が、彼女を最後まで支えることになる。


それでも、辛いことは多い。


藤野涼子は元々クラス委員であり、クラスのどんな立場の子であっても仲良くできていた。成績も優秀で、みんなから慕われていた。しかし、裁判を提案し、実行に移す過程で、彼女は自身への評価が変わっていくことに気づくことになる。

『あたし、嫌われ者なんだ』

それでも彼女は、前に進むことを止めない。その強さは、本当に凄い。自分が嫌われようとも、これは絶対に必要なことなんだという意志をはっきりと持つことで、彼女はあらゆる辛さを吹き飛ばしていく。本当に強いし、その強さには憧れる。


井上康夫は、学年トップの秀才だ。クラスの副委員を務めていて、藤野涼子もその有り様に信頼感を抱いている。

井上康夫を一言で語るなら、杓子定規、となるだろうか。ただ、融通が利かないわけではない。筋さえ通せば、どんな状況でも受け入れるだけの度量がある。一方で、筋の通らないことは、たとえそれが教師であっても認めない。そういう強さがある。


この裁判は、井上康夫の存在があってどうにか成り立ったと言っていいだろう。彼が何故か持つ『風格』がなければ、異例づくしであり、荒れに荒れたこの裁判を乗り切ることは出来なかっただろう。


そんな彼も、時々間違えることがあって、そういう時になんとなく、あー良かった、みたいな感じになる。そうだよね、彼だって中学生だもんね、と。
神原和彦は、恐ろしいまでの切れ者だ。それは、神原和彦の登場以来あらゆる場面で発揮されるのだけど、裁判中にはより一層その凄まじさがかいま見えることになる。


神原和彦の戦術には、もう何度も驚かされた。どうやってもひっくり返すことなど出来ないだろうと思われる事柄を逆に自分たちに有利になるように持ち込んだり、度肝を抜くような展開に持ち込んだりと、本当に凄かった。これが、中学生同士の裁判として描かれていなくても、その戦術には感動したんじゃないかなと思う。それぐらい、なるほどそうくるか!と思わされる場面が何度もあった。


藤野涼子は努力の人という感じであり、藤野涼子も中学生とは思えないような弁論を繰り返すのだけど、やはり神原和彦が持つ不気味さみたいなものはない。神原和彦は、次に何を仕掛けてくるのかまるで分からないような怖さがあって、それが一種の法廷を支配する雰囲気になっているようなところがあった。


この三人の存在が、学校内裁判という異例の『課外活動』を成立させる要因になった。他にも、こいつがいなかったらなかなか厳しかっただろうなと思わせる人物はいるのだけど、この三人は決定的だ。


中学生が裁判をやる、という展開になった時点で、どう決着をつけるのかという部分への興味が一気に膨らんだ。それはそうだろう。言っても、中学生同士による裁判だ。判事も陪審員も中学生なのだ。それで、誰しもが(もちろん読者も)納得感を抱くことができる結論に落ち着かせることが、果たして出来るのだろうかと思った。


読んでいく中で、その展開そのものに引き込まれて、ラストがどうなるのかという部分への興味は、最初に思いついた時よりは薄れたとはいえ、やはりどう決着するのかは非常な関心があった。


そして、少なくとも僕は、素晴らしい形で裁判が終結したと、そんな風に思う。この裁判を開かなければ絶対にそうはならなかっただろう、中学生たちの真剣さと熱気でしか届き得なかった真実にたどり着くことが出来た。本当に見事だと思いました。


さてあと書きたいのは、マスコミの話と、弱さの話。


先にマスコミの話から。


本書を読みながら強く感じたことは、テレビで報道される事件の背後にも、様々な人間がいて、様々な出来事が起こっている、ということだ。


テレビや新聞という『窓』は、どうしたってその一部だけを切り取ることしか出来ない。


だけど、報道に触れる側は、どうしてもそのことに無自覚になる。その窓から見える景色が、物事全部だと思えてしまうのだ。


でも、そんなわけがない。


本書でも、城東第三中学校の出来事に絡んで、マスコミが関わってくることになる。その関わり方はちょっと特殊であったとはいえ、こういうことはやはり、僕らが生きている世の中でも普通に起こりうることだろう。


僕らは、『何を見たいか』という意識によって、見えるものが引きずられてしまう生き物だ。先入観に囚われ、前提を忘れ、現実を歪める才能を持っている。


もちろん、そのすべてを知ることは出来ないだろう。でも、「すべてを知ることは出来ない」からこそ、軽率な判断や行動はしてはならない、と僕は思う。


何か事件が起こると、事情を良く知りもしないだろう、マスコミの報道だけで事件を「知った気になっている人」が、わいのわいのと喧しいことを言ったり、普通であればとても認められないような行動を取ったりする。それは、彼らの意識では「正義感」がやらせているのだろうけど、しかしその正義感を生み出した情報に誤りがあればなんにもならない。


本書では、様々な人間の行動原理や価値観が様々な形で作用し、真実がねじ曲げられていく過程が、そしてそれを少しずつ解きほどいていく過程が描かれていく。僕たちは、もう少し認めなくてはならないと思う。自分たちが「何も知らないのだ」ということを。そしてその「何も知らない」というところからすべてが始まるのだと。「知った気になっている」時が一番危険なのだと、本書を読んで強く感じました。


さてもう一つの弱さについて。


本書では、様々な人間の心の弱さが、色んな形で描かれていく。


柏木卓也の兄である柏木宏之の、柏木卓也の死体の第一発見者である野田健一の、柏木卓也殺害の容疑で法廷に立たされている大出俊次の、大出俊次を告発した三宅樹里の、柏木卓也の弁護人である神原和彦の。他にも、様々な人間の弱さが描かれていく。


みな、学校という場で、あるいは家庭という場で、自分がどう生きていけるのかで悩み、苦しんでいる。その弱さが、人によって様々な発露となって表に出てくる。柏木卓也の事件をきっかけとした影響が彼らの日常にも忍び寄り、何らかの発露があり、さらにそれが柏木卓也を中心とした事件にフィードバックされていく。


その過程で、裁判を開こうと決めた学校内裁判の関係者の面々の中に、じわじわとこんな思いがわき上がっていくことになる。


それは、「肯定してあげること」だ。


作中に、こんなシーンがある。

『逆に言えば、それほどに俊次が、「君は濡れ衣を着せられているんだ」という言葉に飢えていたのだということにならないか』

肯定されたことのない人間、あるいは、本当は肯定されていないわけではないのだけどその実感が持てない人間は、日々前を向いて歩いていくことがしんどいだろうなと思う。僕は本書を読んで、環境こそが人を作るのだろうなと思うのだけど、例えば大出俊次にしても、あんな家庭で生まれなければ、もしかしたらもっと違った風に育ったかもしれない。学校内裁判を行なうことで、彼らの一部は、この裁判を通じて「肯定すること」が出来るということに気づく。そして、それこそが何よりも大事なことなんだという確信を深めていくことになる。


そしてこれは、言うのは簡単だけど、やるのはとても難しい。どうしても好き嫌いの先入観に囚われてしまうし、こちらが相手を肯定しても、それが相手に伝わらないことだってある。


しかし、それでも彼らは、その辛い道のりを選択する。裁判という、相手側の主張を否定しにかかることがメインとなる議論の場においても、彼らは様々な手段を通じて「肯定すること」を実現しようとする。


その心の優しさに、とても感動した。ただ真実を明らかにしようとするだけなら、必要のない事柄もたくさん出てくる。でも、そうではないのだ。元々勝ち負けではなく、「真実を明らかにするため」に裁判を行なってきた彼らだけど、その一方で、その裁判の場は、「誰かを全力で肯定してあげる場」にもなると彼らは気づき、全力でそれに注力する。素晴らしいじゃないかと思う。本当に、素晴らしい。


作中のほとんどのことに触れることが出来なかったし、恐らくこれだけウダウダ色々書いても、作品の雰囲気も伝えられていないだろうなと思います。これだけのボリュームです。冒頭でも書いたけど、僕も本屋大賞にノミネートされなければ決して読むことはなかったでしょう。だから、軽々しく人にオススメするわけにもいかない気もしているのだけど、でもそんな僕だからこそ、この作品を全力で推したい。


長いから、というだけの理由でこの作品を読まないとしたら、それはあまりにももったいない。「読まないと損をする」という表現は、僕にはちょっと意味不明であんまり使いたくないのだけど、今回は使ってみよう。読まないと損をします。そう言ってしまいたくなるぐらい素晴らしい物語でした。読んでいる間、僕は彼らと一緒に目の前の出来事に関わっていたし、読み終わってしまう時には彼らとお別れなんだと思って凄く寂しい気持ちになりました。

こんな気持ちになれる物語は、本当に久しぶりに出会いました。是非とも読んでください。本当に、メチャクチャ面白いです!


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長江貴士
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