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【本】アリス・ロブ「夢の正体 夜の旅を科学する」感想・レビュー・解説

僕は、全然夢を見ない。

時々、「夢を見たな」という感覚が残っている時はある。それでも、年に数回くらいだ。夜寝ている時はほとんどそうならず、昼間あまりに眠くて寝ようと思ってるわけではないのに寝てしまった時などに、見たなという感覚になることが多い。

僕の場合、そもそも、視覚的な情報の認知や記憶が弱い。人の顔は、すぐには覚えられないし、しばらくすると忘れる。外形的な変化にはほとんど気づけない。小説を読んでいても、映像は一切頭の中に浮かばない。僕が夢を見ないのは、そういう、脳内の映像の処理に関わる部分が人より劣っているからだろう、と思っている。

本書は、科学者や医師などではないジャーナリストが、夢に関する自身の経験や、様々な研究結果などを紹介し、

【文化からどのようにして夢が失われてしまったのか、そして、それがどのようにして再発見されたのかをつづっている】

本になっている。

この点に最も関係する、非常に印象的なエピソードがあった。

【夢を軽視する文化のために、夢の話は退屈だとされるのは非常に悲しいことだ。夢をつまらないものとする社会においては、夢の話は、よく言って不適切、悪く言えば独りよがりでわがままだとされる】

と著者は書くが、こうなった要因の一つが、『夢分析』などの著作で知られるフロイトだというのだ。

イギリスの近代史を研究するシェーン・マッカリスティンという人物は、19世紀の警察の報告書を調べる中で、目撃者や被害者が、警察官や検視官に夢の話を頻繁にしていたということに気づく。夢の中で、事件や死を予知していた、と語っているというのだ。夢について語ることは、弱者が権力者に対峙出来る手段の一つだったという。しかし、1920年代には、取り調べの報告書からニュース記事からも夢の話は消えてしまったという。その理由を、マッカリスティンは、

【フロイトの理論が広まり、人々は夢の世界とのつきあい方を考え直した。夢について恥ずかしい思いをすることが増えたのだ】

と指摘している。フロイトは夢を、性的なものと結びつけて語ることが多かった。そのせいで、人々は夢の話をしなくなり、文化的に夢は遠ざけるものとなってしまったのだという。

本書では、先住民族の夢についても扱われる。彼らにとって夢というのは、【この世界と別の世界―魂や祖先と通じあえる神聖な場所―をつなぐかけ橋として扱われる】という。本書で描かれるイロコイ族は、「夢」という単一の神を信仰している、と評されている。夢がもたらす指示に強く恭順するのだ。ある宣教師は、ヒューロン族の男性が、指が切断される夢を見たために自分の指を切り落とすのを目撃したという。現在でも、先住民族が夢を進行する強さには変わりはないという。

夢は、ごく最近まで、科学では扱われなかった。例えば、レム睡眠が偶然にも発見されたのは、1950年代のことだ。それまで、寝ている時の脳は活動を止めていると考えられていたが、睡眠中に脳が活発に動いており、さらにその間、眼球も激しく動いていることが分かったのだ。ここから、「睡眠」というものが科学の土俵にきちんと乗るようになっていく。

しかしそれでもまだ、「夢」が科学で扱われるには時間が掛かった。そのきっかけの一つは、1991年、夢の研究で名を馳せるつもりのなかった、ラットを使って記憶に関する研究を行っていたマット・ウィルソンによってもたらされた。彼は、ラットの海馬に微小電極を埋め込み迷路に放すという実験を行っていた。人間を含めた動物が、新しい場所で道を覚える際に活発になる「場所細胞」と呼ばれるものに注目していた。ニューロンの発火を記録するために、彼は通常の記録装置とは別にオーディオ・モニターにも繋いだ。音でも、ニューロンの発火を確かめようとしたのだ。ラットが活発に動き回り、場所細胞が活動すれば、オーディオ・モニターから音が聞こえることになる。

ある日彼は、ラットが眠っているのにオーディオ・モニターから音が聞こえることに気がついた。それは、昼間に迷路を走り回っていた時に活動していたのと同じ場所細胞の活動を意味するものだった。ラットは眠っているのだから、つまり、夢の中でこのラットは場所細胞を活動させているということになる。この発見は、「夢」が科学で扱える可能性を刺激することとなった。

同じように可能性を刺激したものがある。ロバート・スティックゴールドは2000年に「テトリス論文」と呼ばれる論文を発表した。「夢」を扱った論文としては30年以上ぶりに、一流科学雑誌「サイエンス」に掲載されたものだ。これは、昼間にテトリスをした場合、夜の夢にゲームの映像が出てくる、ということを明らかにしたものだが、中でも独創的だったのが、健忘症の患者も実験対象にしたことだ。健忘症の人たちは、記憶を継続できない。しかし、夢の中でテトリスの映像を見ていた。そして、テトリスの夢を見た健忘症の人たちは、前日テトリスをやったことは覚えていないのに、テトリスの操作が少し上達していたのだ。これにより、「健忘症の人はアクセスできないだけで、まちがいなく記憶を保持している」ということが明らかになったし、夢とスキルの上達の関係についての理解も進んだ。しかし何よりも、「夢」を科学で扱うことが出来るということを知らしめたという大きな功績があるのだ。

その後も、「夢」を研究することで、新しい発見が生まれた。脳には、「デフォルト・モード・ネットワーク」と呼ばれるものがある。これは、「何かに取り組んでいないときに活動する脳領域ネットワーク」という、矛盾するようなものだ。この領域が、夢を見ることや創造的に考えることと関係がある、と考えられている。また2015年には、マウスによる実験で、夢を見ている間に記憶を変えられる可能性が示された。睡眠中、脳に刺激を与えることで、特定の条件付けが出来ることが分かったのだ。これは、PTSDの患者の治療に有効ではないか、と考えられている。

また、「夢」の研究の最大の問題点を解消しようとする試みもある。「夢」の研究は、被験者が正しく報告しているか、という懸念がつきまとう。夢の内容について、嘘をつかれているかもしれないが、それを判定する方法はなかった。しかし2013年に、堀川友慈率いる研究チームが、脳波計から夢の内容を推測できる夢辞典らしきものを作ったと発表した。様々な被験者から聞いた夢の内容と、その時の脳波の状態を結びつけることで、脳波の状態から夢の内容をある程度推測できるようになったという。まだ研究は始まったばかりだが、いずれ、脳波から正確に夢を判定できるようになるかもしれない。

さて、ここまでは、科学的に夢を扱う話を多く紹介したが、本書はそういう話ばかりではない。むしろ、全体の割合としては、科学的な話ではないものの方が多い。どういう夢が記録され、それがどのように解釈されたのか、というような話が結構多い。先程触れた通り、そもそも「夢」が科学でちゃんと扱われるようになったのはごく最近なのだから、「夢」を扱う場合、科学的でない話が多くなるのは当然だ。個人的な好みとしては、やはり、非科学的に感じられてしまう話はあまり好きではない。

とはいえ僕も、数学者や科学者が、夢のお陰で大発見をした、というエピソードは様々な本で読んだことがあって、そういう話は、割と信じている。信じているというか、実際にどのように発見をしたにせよ、そういう人たちは、歴史に残る重大な功績を成し遂げているわけだから、普通ではたどり着けない知見に行き着く手段として「夢」という飛躍があるのは、まだ理解しやすい。本書にも、神経と筋肉の情報伝達が化学物質によって行われたことを発見したオットー・レーヴィの例が紹介されている。

しかし、ある夢をきっかけに早い時期にドイツからアメリカに亡命したという話や、「悪夢」が原因で多くの人が亡くなったという話になると、どう捉えていいか難しいと感じられる。もちろん、脳というのは未解明な部分がまだまだ多々ある。科学という切り口では全然辿り着けそうにない現象があってもおかしくはない。そういう意味で、否定したいという気持ちなわけでもない。非科学的であろうと、「夢」が誰かを救う可能性があるなら、それは良いことだ。「夢」を分析することでセラピー的な効果があったり、「夢」を解釈することで自殺を止められる可能性があるなど、理屈がはっきりしていなくても一定の効果が認められているのであれば、それは有益だと思う。

さて、著者が本書を書くきっかけになったエピソードはなかなか面白い。オックスフォード大学で考古学と人類学を専攻した著者は、発掘調査で訪れたペルーの村で退屈していた。こんなに暇だと思わず、持参した小説は2週間で読み切ってしまった。英語の本が買える書店までは村からバスで6時間。仕方なく、友人が読み終わったペーパーバックを読むことにした。

それが、スティーヴン・ラバージの『明晰夢の世界を探る』という本だった。この本を読んで著者は、明晰夢に興味を持ち、実際に訓練をして、明晰夢を見られるようになったのだという。

「明晰夢」という言葉を、本書を読むまで僕はきちんと認識していなかったと思う。2010年に公開され大ヒットとなった『インセプション』という映画が扱っているのが明晰夢であり、この映画の後、明晰夢という単語はかなり知られるようになったという。

明晰夢というのは、夢の中にいながら自分が夢を見ていることを自覚出来ている状態で、訓練によって、夢の内容をコントロール出来るのだという。明晰夢がどれだけリアルであるかについて、本書には、あるライターの表現として、

【本物としか思えないほどリアルだった】
【本物以上に本物だった】
【ドアの取っ手は、本当にドアの取っ手だった】

と書かれている。

明晰夢は、アリストテレスやアウグスティヌスの書物の中でも言及されるほど長い歴史があるが、科学者は長いことその存在を疑っていた。しかし、先の本の著者であるラバージが、「眠っている時に、あらかじめ打ち合わせをしておいた目の動きをすることで、観察している人に明晰夢の存在を信じさせることができる」と発想し、様々な取り組みをする中で、明晰夢に関する理解は徐々に進んでいった。最近では、「普段眠っている時には休止していて、明晰夢を見ているときには活動する脳の部分」が明らかにされ、明晰夢の存在ははっきりと認められたと言っていい。明晰夢を不安障害の解消やスポーツトレーニングに応用する動きも出始めているという。

著者は、文献を調査するだけではなく、夢や睡眠をテーマにしたAISD(国際夢研究協会)という会合や、明晰夢を見るためのプログラムをハワイで行っている「カラニ」というグループに参加したりする。著者自身は、そういう場にあまり馴染めなかったというような感想と共に叙述するが、著者は客観的に、「人生において夢の比重を高くしている人たち」のことを描写していく。まだまだ世間との温度差はあるが、科学による研究の成果が後押しとなって、夢を巡る考え方はこれから大きく変わっていくかもしれない。

まったく夢を見ない僕は、本書を読んで、少しは夢を見られるようになる努力をしてみたい、と思った。夢日記をつけるのが一番手っ取り早いようなので、ちょっと検討してみよう。科学的にも、夢が問題解決やスキル向上の役に立つことは明らかになりつつあるようなので、少し足を踏み入れてみたい気もする。


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