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【本】鯨井あめ「晴れ、時々くらげを呼ぶ」感想・レビュー・解説

昔、万引きをしたことがある。
一度だけ。
ほとんど同じような理由で。

【理不尽に対抗する手段さえ、理不尽なんだ】

子供に出来ることは、限られている。

僕は、辛い子供時代を過ごしたわけではない。要素だけ並べれば、むしろ恵まれているように見る人もいるだろう。虐待もいじめもない。裕福ではないけど貧困だったという感じでもない。友達もいたし、勉強はできたし、進学もちゃんとさせてもらえていた。要素だけ拾えば、不自由はないはずだ。

でも僕は、なんか嫌だった。
今現在と比べてみても、子供時代の方が圧倒的にしんどかった。
そして確かに、そのしんどさの源泉は、まとめて「理不尽」と呼んでしまいたいような気がするのだ。

【私が思っているよりわたしは非力で、世界は強かった。】

何が理不尽に感じられたのかと問われると困る。困るぐらい、具体性はない。強いていうなら、「生きていることそのもの」が理不尽だった。なんとなく、自分が平然と生きていることを認めたくなかった。なんか間違っている気がした。無数に道は拓けているように見えて実はほとんどが行き止まりだったり、自由が尊重されているように見えて道を踏み外したらただの自己責任だったり、正しいとされていることが次第に正しさと認められなくなっていったり、なんかそういうことの全部にイライラしていた気がする。

何かがおかしい。認めたくない。狂ってる。異常だ。正しくない。分かり合えない。

小学生ぐらいの頃から、たぶん、自分の内側にそういう苛立ちとか怒りみたいなものがずっとあったと思う。

でも、これって、今現在でも納得感を伴った形で言語化出来ないような、自分でもなんだかよく分からない感覚だ。当時は、「なんかムカつく」ぐらいの解像度でしか捉えることは出来なかったと思う。自分が何に苛立っているのか分からないから、それは親や教師が悪いんだということにした。この理不尽さがどこからやってくるのか分からないから、自分の環境すべてが悪いんだということにした。でも、それを周囲に認めさせる方法は、なかった。今でも、思いつかない。今だって、僕がこうして言葉にしていることは、「誰か」には伝わると思うけど、「みんな」には伝わるとは思えない。「子供の頃に戻りたい」とか言ってるヤツには、絶対に理解できないだろう。

なんかそういうものがグルグルしていて、万引きをしたんだろうな、と今は思う。

万引きをして、すぐに店主に見つかった。母親に連絡が行き、優等生だった僕が万引きをしたという事実に母親は混乱し、泣いていた。それを見て、僕は特にどうとも思わなかった、と思う。当然だ。「親が悪い」と思うことにしていたのだから。万引きをした前後で、何か変わったという記憶もない。理由は覚えていないが、店主は警察に連絡しないでくれた。大事にならなかった。それを、良かったと感じたのか、残念と感じたのか、それすら覚えていない。

【きみさ、何かに反撃したいと思ったことはないの?】

大人になって、怒りや苛立ちを以前よりは明確に言葉で捉えることが出来るようになった。だから、正しくない人物を標的に仕立て上げる必要もなくなった。怒りや苛立ちを表明することに無意味さも、少しずつ理解していった。結局何も変わらないし、表明した分の労力が無駄なだけだ。疲れる。そしてそもそも、怒りや苛立ちは、「期待」から生まれるのだと分かるようになってきた。だから、「期待」を減らせば、怒りや苛立ちも、減る。

理不尽は無くならないが、理不尽への対処は上手くなってきた、と思う。

けれど、そりゃあいつだって思ってる。
何かに反撃したいって。

内容に入ろうと思います。
図書委員である僕(越前亨)は、一学年下の後輩で、同じく図書委員である小崎優子の奇妙な振る舞いに僅かながら関心を持っている。他人とあまり深く関わりたくはないが、「クラゲは空から降ります」と言って、屋上で「クラゲ乞い」をしている彼女は、なんとなく気になる。背が低く、童顔で、勉強が苦手で努力が空回りする彼女は、しかし、クラゲを降らせることができる、という点には何故か確信があるらしく、飽きずに「クラゲ乞い」をしている。ちなみに、小崎を含め図書委員の面々は皆本好きだが、僕は違う。読書なんか、時間の無駄だと思っている。でも、夏目漱石や太宰治、井伏鱒二の本を読む。半ば義務感で。それらは、父親が遺した本棚にある本たちだ。
父親は、作家だった。七尾虹という、売れない小説家。僕と母親を残して死んだ。迷惑ばかり掛けている。腹立たしい。そんな七尾虹のことを、小崎が大ファンだ、というのも、なんだか気に食わない。
小学校からの幼馴染の遠藤、図書委員の矢延先輩、クラスの優等生である関岡。彼らとの、なんてことはない学校生活が続く。遠藤に「小崎は彼女なのか?」と聞かれ、矢延先輩と小崎は大好きな本や作家の話をし、関岡は図書室の定位置でいつも勉強している。僕は、図書委員と帰宅部をきちんとこなしながら、雑誌の編集をしている母親と話し、読みたくもない本を義務感で読んでいる。
あの日までは。
というような話です。

面白かったなぁ。なんというか、凄く良く出来てた。「テンションの低い男子」と「元気いっぱいの女子」という取り合わせは既視感バリバリだし、物語のセオリーをある意味で無視しているような展開だったりと、正直「大丈夫なんかな」という感覚を持ちつつ読んだのだけど、最終的には凄く良かった。

でもこの小説、何が良いのかうまく掴めないんだよなぁ。「この部分がこれこれこうだから良い!」とスパッと言えないような、そんな魅力がある。

物語は、途中まで、ほぼ何も起こらないと言っていい。その何も起こらない部分も、なんだかんだ面白く読ませるので、それはキャラクターの力だろうな、と思う。人それぞれ気になるキャラは違うだろうけど、個人的には矢延先輩がお気に入りだ。

矢延先輩は、「受験生だから」という理由で、常に一歩引いた立ち位置にいる。ただ、このスタンスが矢延先輩を、「物語の先導者」であるように見せる。矢延先輩は、この物語全体を駆動する主軸には関わらない。物語の主軸を動輪するのは、遠藤や小崎や関岡や僕だ。でも、矢延先輩は、彼らよりも常に半歩先にいるような感じがする。物語を動輪する者たちよりも、先を進んでいる感じがするのだ。しかも、本を媒介にすることで、その立ち位置に違和感を抱かせない。矢延先輩は、「~って私の好きな作家が言ってた」という発言を多用することで、半歩先に立っているように見えるスタンスに説明らしきものをつけてしまう。みんなの先を行こうとしてるんじゃなくて、好きな作家の発言を口にしていたらたまたまそこにいることになってたんだよ、というような。

この絶妙な立ち位置が、矢延先輩を魅力的に見せている感じがする。ミステリアスな存在なのに、現実離れしていない。この物語の中で特異な存在感を放っているのに、浮いてしまっているわけではない。

浮いている、と言えば、小崎は完全に浮いていると言っていい。「不思議ちゃん」と言われてしまっているくらいだ。ただ読者は次第に、小崎が浮いているのではなく、自分たちが沈んでいるのだと気づく。いや、「浮く」「沈む」という、どちらが上かという問題ではないのだけど、相対的に小崎が浮いているように見えるだけで、小崎の振る舞いは、「理不尽に対して素直に反応しているに過ぎない」ということが理解できるようになる。

その理解の一助を担う存在が関岡だと言っていいだろう。関岡は逆に、理不尽に対して素直に反応出来ない存在として登場する。小崎は、理不尽の存在を認め、目を見開いて直視し、さてどうしてくれようかと考えている。一方関岡は、理不尽の存在を認めたくなく、出来るだけ目を反らし、そういう在り方に耐えきれずに爆発してしまう。

また、主人公の越前も、理不尽と上手く関われていない人間だ。彼の場合、何が理不尽なのかを捉え損ねている、と言っていいだろうか。間違った「理不尽」に対して、正しく反応しようとしているから、彼もまた理不尽に振り回される一方なのだ。

そう、この物語は、理不尽との関わり方の物語だ。だからこそ、前半の何も起こらない部分にも意味が出てくる。「何でもないように見える、学校生活を穏やかに過ごしている人たちも、理不尽と闘っているのだ」ということが、前半の静けさのお陰で強調されるからだ。

僕は、この物語で一番好きな言葉が、「目撃者の義務」という概念だ。

【そうだよ。見た限りは話を聞いてあげるなり、諭してあげるなり、何か手を差し伸べてあげるべきだよ。それが目撃者の義務であり、この世で生きていくために必要なことなんだって、】

僕自身、「目撃者の義務」を果たせるかと問われると自信は持てないし、どちらかと言えば僕も、他人に関心がない(持ちすぎないように意識している)という意味で主人公に近い。だからこそ、主人公が一歩踏み出す大変さが分かるつもりだ。この「目撃者の義務」という概念がきちんと提示されるからこそ、主人公の変化のきっかけや、変化の大きさが捉えやすくなる。

しかも、冒頭では「クラゲ乞いってなんだよ(笑)」程度に感じていたのだけど、後半に行くに連れて、「(笑)」という反応に誰しもがなってしまうだろう「クラゲ乞い」というモチーフだからこそ感じ取れる「真剣さ」みたいなものが浮き彫りになっていく。例えばこれがもっと想像の範囲内のこと、例えば「いじめられている同級生を助ける」みたいな話だった場合、誰もが「自分に出来るかは分からないけど、いじめを食い止めることに真剣になるのは当然」と思うだろうから、主人公が発揮する「真剣さ」に焦点が当たりにくい。しかし「クラゲ乞い」の場合、「真剣に関わることが当然ではない」からこそ、真剣さが浮き彫りになる、と僕は感じる。

とまあこんな風に、「どうしてこの小説を良いと思うんだろうなぁ」という理由をなんとなくつらつら書いてみるんだけど、的を射ている気がしない。なんとなく、本質的ではないところばかりつついているような感じがして、モヤモヤする。

というわけで最後に超どうでもいいことを書くと、【一番のお勧めは麻耶雄嵩かな】っていうセリフは大丈夫か?(笑)。いや、僕も麻耶雄嵩は大好きだけど、本書に登場する他の小説家とはあまりに異質でないか、と。「小川洋子とか恩田陸とか宮下奈都とか伊坂幸太郎とか森見登美彦とか宮部みゆきとか東野圭吾とか池井戸潤とかあさのあつことかと一緒に名前が挙がってるから、麻耶雄嵩も読んでみようかな」という判断は、勧める方も勧められる方も不幸な可能性があるんじゃないかな(笑)。いやホント、僕は麻耶雄嵩、大好きですけど!!


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