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【本】森博嗣「集中力はいらない」感想・レビュー・解説

『しかし、集中するような作業の多くは、今やコンピュータが担ってくれる。その割合はどんどん増加している。人間の仕事としては、より発散型の思考へとシフトし、ときどき発想し、全然関係ないものに着想し、試したり、やり直してみたりすること、あるいは、より多数の視点からの目配りができることなどの能力が、これからは求められるようになるだろう。
これらのシフトは、仕事以外、つまり個人の生活でも、まったく同じ状況といえる』

人生の先々を考えていく上で、どうしてもこの状況を外しては思考できない。僕らは今、恐らく人類の歴史上類を見ないほどの大転換期に生きているのではないかと思う。人間にしか出来なかったはずのものが人間以外の存在でも出来る―これは、産業革命以来様々な場面で起こり続けてきたことだろうが、その変化の中でも現代は最大級のものになるのではないか。今までは、同じことを繰り返すような単純作業だけ機械に任されてきたのだけど、今はどんどん、そんなことまでコンピュータが出来るのか!と日々驚かされるような時代になっている。

そんな時代に生きる僕らにとって大事なことは、機械には出来ないことをやれる人間になれるかどうか、に掛かっていると言っていいだろう。

そして本書は、そういう視点を持つために非常に有益な一冊だと言える。

まず本書の基本的なスタンスを書いておこう。

『そもそも、僕は、「集中力」を全否定するつもりは毛頭ない。それどころか、集中力は大事だと思っている。ただ、説明が難しいのだが、全面的にそれを押し通すのはいかがか、という問題を提起したい。集中力は、みんなが持っている印象ほど素晴らしいものではない、少しずれているのでは、と気づいてもらいたいのだ』

本書では、「集中すること」そして「集中しないこと(分散や発散という単語が使われる)」について様々な形で触れている。そのほとんどに共感できる、というか、僕が普段から考えていることとほぼほぼ同じという感じがする。もちろん完全に一致ではないだろうが、概ね本書で書かれているようなことを意識して生活や仕事をしているつもりだ。

なので、そういう部分についてこのブログで触れてしまうと、あまりにも色んなことを引用しすぎてしまうだろうから、集中・分散に関しては、この箇所を引用するだけに留めておこうと思う。

『集中思考をしている人は、自分の好きなものを決めつけ、そればかりを探しているから、どんどん見える範囲が狭くなっていく。』

『分散思考をしている人は、できるだけ対象から離れようとする本能的な方向性を持つようになる。これが発散思考と呼べるだろう。どうしてそうなるかといえば、分散思考をしているうちに発想したものが、まるで違う分野、遠い場所からヒントを見つけた結果であり、思わぬ得をした経験が重なるためである。だから、今まで自分が見ていない領域へ足を踏み入れようとする。まだ新しいものがあるはずだ、と常に探している。自分の好き嫌いに関係はないし、また自分の願望あるいは意見にも関わらない。そうではなく、自分が持っている信念を打ち砕くようなものに出会いたいと思っているからだ。』

僕はまさに、ここで書かれているような分散思考を意識している。自分の好き嫌いに関わらず色んな本・情報・体験に手を出すことで、自分が想定している場所からどんどん遠ざかりたいと思っているのだ。

何故かと言えば、それが何らかの「発想」に繋がっていくという、本能的な直感があるからだ。まったく同じことを森博嗣も書いている。

『一つだけ言えることがあるとしたら、発想は、集中している時間には生まれないということである』

僕は日々、様々なことを考え、アイデアを生み出し、実行に移すことをしている。ある意味ではそれが仕事の一部になっているし、趣味の一部でもある。色んなアイデアを生み出してきたと自分では思っているのだけど、基本的には「何かを考えるための時間」を設けることはない。常に、何かしながら考えている。二つのことを同時には考えられないから、本を読んだり売場づくりをしながらは思考したりは出来ないが、手や足を動かしていればいいという時には、頭では別のことを考えていられる。歩いていたり、自転車に乗っていたり、ちょっとした隙間時間にふと思い出したりしながら、常に色んなことを考えている。何を考えるべきかというのは思いついた時にメモをしておくし、何か思いついた時にすぐメモ出来るように常に何か書くものは携帯するようにしている。

僕の感覚としても、「よし今からこれについて考えるぞ」と意気込んで(集中して)アイデアが生まれた経験はない。それよりは、何かしながらふと何かの表紙にポロッとこぼれ出るような形で生まれることが多いように思う。まさに森博嗣が持っている感覚と同じだ。

そして「発想」を得るためにもう一つ大事な要素が「材料」を手に入れることだ。

『情報というのは、思考するための「材料」です。材料を加工することが、思考という作業です。加工しないでアウトプットする人は、ただ、情報に反応しているだけです』

その通りだなと思う。

思考が苦手だという人は、まず「材料」が足りない可能性について考えるべきだろうと思う。こんな状況を思い浮かべて欲しい。ある人が「料理の才能がない」と嘆いているのだけど、実はその人の家にある冷蔵庫は1年間ずっと空っぽだ、というような。確かにその人は「料理が出来ない人」だろう。しかし何故料理が出来ないのかといえば、冷蔵庫が空っぽだからであり、それは料理の才能がないこととは直結はしない。冷蔵庫に材料が潤沢にあるのに思うように料理が作れないのだとすれば、それは才能の問題である可能性はあるが、冷蔵庫が空っぽの時点では才能の問題かどうかは判断しようがない。

思考も同じだ。思考が苦手だという人は、そもそも頭の中に材料がない可能性がある。そりゃあ、思考も出来るはずがない。ただ、頭の中に思考のための材料があるかどうかは、冷蔵庫ほどにははっきりとは分からないので、よくよく自分の状況を観察してみる他ないと思う。

『こういった社会に育つと、「考える」チャンスがほとんどないといっても良い。
多くの場合、頭に思い浮かべて、ただ選択する、あるいは反応する、という程度である。それが「考える」ことだと思い込んでいる。また、大多数の人たちは、「学ぶ」ことが「考える」ことだと勘違いしている。「学ぶとは、頭にインプットすること、知識を入れて覚えるだけのことだが、「考える」とは、それらインプットしたものを頭の中で組み立てること、仮説を作ることなのである。脳の活動として、まったく異なっている。
今の若者に多いのは、まず「考えよう」として、頭で問題を思い浮かべるものの、すぐに「分からない」という結論になる。頭に思い浮かべているだけであり、ぼうっとしているのと変わらない状態である。そして、わからないのは、自分がこの問題を「知らない」からだ、とすぐに結論を出す。では、「知る」ためにどうすれば良いかといえば、調べる、検索する、誰かに教えてもらう、という行動しかない。今は、調べるのも、検索するのも、教えてもらうのも、とても手軽にいつでもできるようになったから、すぐにそこに飛びつく。
これらが簡単にできない時代の子供たちはどうしていたかというと、しかたがないから、自分で考えたのだ』

思い当たるという人も多いのではないだろうか?とにかく、何よりも大事なのは、正しい意味での「考える」という行為をすることであり、そのためにまず材料となる情報をインプットすることなのだ。これをしない限り、コンピュータが世界を席巻する世の中で人間の存在価値はなくなってしまうだろう。

先ほど『材料を加工することが、思考という作業です。』という部分を引用したが、この「加工」に関してもこんな文章がある。


『いずれにしても、雑多な情報の中から何を選ぶのか、という問題ではなく、その情報をどう加工して自分の頭に入れるのか、というところが肝心だと思う。
どう加工するのかとは、つまり自分が持っている知識や理屈と照らし合わせて、フィルタリングしたり、あるいは推測を行ったりする、ということであって、まずは、自分の知識と理屈を持っている必要がある。そして、この知識と理屈は、そうやって加工された入力によって築かれていくのだから、短時間に出来上がるものではない』

先ほど、「考える」ために材料となる情報をインプットすべき、と書いたが、それだけでは「考える」にはたどり着けない。情報は加工して頭に入れるべきだが、加工をするためには知識と理屈が必要。しかしその知識と理屈は、情報を加工して頭に入力していくという繰り返しによって作られていく。だから、知識と理屈で情報を加工し、加工された情報で知識と理屈を育てていくというフィードバックを繰り返して初めて、「考える」というステージに到達出来るのだ。

なかなか大変だ。しかし、僕の感覚としても、やはりそうしないと「考える」にはたどり着けないなと思う。僕の20代は、本をひたすら読み、本を読んで考えたことをブログで書く、ということの繰り返しで終わった。別に自分の頭を鍛えようなんて発想でやっていたわけではなくて、趣味と暇つぶしの間みたいなつもりでしかなかったが、20代ひたすらやり続けた読書と文章化が、今の僕の基礎となっている。正直に言って、30代の読書と文章化の継続がなければ、僕の30代はあり得なかった。20代の頃の積み重ねがなかったら乗り越えられなかった状況を、30代では多く経験した。やる前は「無理かもしれない」と思っていたことが結果的に大体出来たのは、20代の積み重ねのお陰だったと思っている。

じゃあどうすればいいのか―その答えは自分で見つけるしかない。

『ただし、僕は自分の頭しか持ったことがないし、六十年間の試行錯誤の結果であったとしても、これが大勢の人の頭に適用できるとはとうてい考えられない。そこまでの自信はまったくない。したがって、各自が自分に当てはめて、これはできそうだと思うものを試していただきたい。そんなことをするうちに、自分に適したやり方が見つかるのではないか、とも期待するところである』

『よくよく自分の頭や躰の反応を観察し、どうすれば上手く使えるか、どんな傾向があるのか、と考えれば良いだけである。本に書いてあった方法だから、TVでやっていたことだから、と安易に信じないこと。それくらい人それぞれ違っていて当たり前なのである』

『成功した人の例を参考にして、同じようにすれば良いのか、とも想像し、憧れが、前例の模倣へとステップアップする。
しかし、憧れの人、その人の方法論、というものに集中しているうちは、おそらく成功はありえない』

僕もその通りだと思う。世の中の「こうすれば絶対◯◯」「これだけやれば△△」みたいなものは、ほぼほぼ嘘だと思う。そんな方法はない。それが何であれ、自分に合ったやり方は自分で見つけるしかない。その試行錯誤の過程で、様々な方法論を知るという意味で他人のやり方を見聞きするのは良いことだと思う。しかし結局は、試してみて自分に合うかどうかということでしかない。そしてまさにそれは、先ほど書いた「知識と理屈で情報を加工し、加工された情報で知識と理屈を育てていくというフィードバック」そのものなのだ。

とはいえ、漠然としたアドバイスはある。

『もっと簡単に言うと、まず変えるべきものは「習慣」だろうと思う。こつこつと、少しずついろいろやることを「習慣」にする、という意味だ。そうすることで、考える習慣ができる。周囲を気にする時間、周囲とのつながりを確認する時間は、今の半分にして、その分を「考える」そして「作る」ために使うことである。こうした習慣こそが、さらに分散思考の頭を少しずつ耕してくれるだろう』

僕もこの「習慣にすること」はとても重要視している。何か新しいことを始めようと思う時は、それを毎日少しずつでもいいから継続してやれるかどうかを考える。その時間が取れない、と判断すればやらない。やっても身にならないからだ。1日10分でもいいから毎日やること。その重要性を僕は自分なりに理解しているから、「習慣にすること」は強く意識している。

まだまだ引用したい文章は山程あるのだけど、既に引用過多だろうからこれぐらいにしておこう。これからの時代を生きる上で、非常に重要でためになることが書かれている一冊だと思う。


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