【本】青木祐子「嘘つき女さくらちゃんの告白」感想・レビュー・解説
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僕は嘘は好きではないけど、絶対にダメだとも思っていない。誰かを救う嘘だってあるし、誰かを守る嘘だってある。嘘だ、という理由ですべてを斬り捨てるつもりは、僕にはない。
けれど、嘘をつく者には、義務があるとも考えている。嘘をつき続けるという義務、その嘘を本当であるかのように成り立たせ続ける義務があると思っている。嘘をつくというのは、それがどれだけ相手を救い、守るにせよ、やはり良くない行為だと思う。だからこそ、嘘をつく側に、その嘘を突き通すという覚悟がなければならないと僕は感じる。
だから、すぐバレる嘘をつく人、雑に嘘をつく人のことが、僕は嫌いだ。
仮に誰かの嘘に気づくことがあったとしても、その嘘をついた本人が隠し通そうと努力しているのが分かれば、気づかなかったフリも出来る。内容や状況にもよるが、嘘をついてくれてありがたい、と思うこともあるだろう。自分で嘘をつく場合にも、これはいつも意識している。すぐバレる嘘は、誰も幸せにしない。ただ現実に、微妙な跡を残すだけだ。ささくれのように、時折かすかな痛みを与えるような、微妙な跡を。
雑な嘘をつく人の中には、「自分が嘘をついているという自覚」がない人がいる。僕にとっては、とても恐ろしい人種だ。身近にそういう人がいるのだが、本当に、何故そんな嘘をつくのか、全然理解できないことがある。次第に、これは本人が「嘘をついている自覚」がないのだな、と判断するようになった。
そういう人間は、理想と現実の捉え方が異なるのだ。普通の人間は、理想は理想として、目の前にある現実をきちんと捉える。理想は、目の前にある現実との差という形で意識される。しかし、嘘をついている自覚がない人は、自分の中にある理想を「現実」と捉えるのだ。当然その理想は、目の前の現実とは大きくかけ離れている。しかし、そういうタイプの人は、自分が「現実」だと捉えている理想に合わないものはどんどん斬り捨てていく。そして、あらゆる力を駆使して、自分が見ている「現実」こそが目の前にある現実なのだと周囲に錯覚させようとする。
見ていて、いつも凄いなと感じる。基本的には破綻しているのだけど、破綻しているように見えないように振る舞うのが上手い。ある意味で天才なんだなと感じるが、「現実」と目の前の現実のギャップを埋めざるを得ない者にとっては、迷惑な人だ。
理想に対する想いが、とても強いのだろう。本書の主役であるsacraも同じ人種だ。理想に対する憧れが強い。自分はこうなっているべきだ、という想いが先行し、あらゆる手段を使ってその理想を現実にしようとする。苦手なタイプだ。
しかし、sacraの話を読みながら、同時にこんなことも考えた。美人であることの苦悩についてだ。
本書でsacraは、恐ろしいほどの美少女として登場する。そして、美少女であるが故に、皆sacraの中身に関心を持とうとしない。
…と断言してしまうのも少し違うと思うので、この作品はなかなか難しいのだが、とりあえずそういうことにして話を進めよう。
圧倒的に外見が良いと、外側しか見られなくなる。もちろん外見は、興味を持ってもらう入り口として良い役割を果たすだろう。それに中身に関心を持ってもらうことに興味がなければ、外側だけ良ければ十分だ。しかし、すべての美人がそういうわけではない。外見はともかくとして中身を見てほしいのだ、と感じる人もいるだろう。
僕は昔からずっと、こういう部分に美人の苦悩はあるよな、と感じていた。
僕は変人が好きで、自分の変人センサーに引っかかる人と関わりを持とうとすることが多いのだけど、僕がこれまで関わってきた変人は、美人が多い。これには色んな要因があるだろう。僕が外見の良い人しか視界に入れないから、そもそも美人ではない変人がいても気づかないという可能性ももちろんあるだろう(僕はそうではないと思っているけど、それを納得してもらうことは難しい)。けど、とりあえずそういうことを措いて、仮に「変人には美人が多い」というのが正しいとすれば、それは美人であることの苦悩故なのではないか、と思っている。
自分の中身にまで到達して欲しいけれど、外見がもの凄く良い人がいるとして、その人は、いつも自分の外見ばかりに注目が集まることに不満がある。だから、外見以上に内側から出る「変さ」みたいなものを表に出していけば、とりあえず外見にだけ注目が集まる状況を変えられるのではないか…。みたいなことを無意識に感じていないだろうか。もちろん。「変さ」を内側から出しても大丈夫、と判断できるのは外見が良いからという側面もあるわけで、どのみち外見の良さという呪縛から逃れることは出来ないのだけど。
こういうことを、割と普段から僕は考えている。
では、sacraはどうだろうか?
sacraは、「外見ではなく中身を見てほしい」と単純に思っているタイプではない。完全に、外見の良さを一つの手段として使っている。しかしそれは、中学の頃からだ。sacraが物語の中できちんと描かれるようになるのは、中学の頃からなのだ。だからそれ以前に、「外見ではなく中身を見てほしい」と思った可能性はゼロではない。
…ゼロではないが、やはり違う気はする。sacraはとても捉えにくい。sacraが何故嘘ばかりつき続けたのか、何故虚構ではなく自分の内側から出てくるもので生きようとしなかったのか、イマイチ捉えきれない。その理由を、圧倒的な外見に求めて理解しようとするのだけど、それも上手くいかない。
ただ一つ言えることは、sacraが圧倒的な美少女でなければ、sacraのこの生き方は間違いなく成立しなかった、ということだ。sacraがもし美しくなく生まれていたら、sacraはどんな人生を歩んでいただろう。ただの凡人として生きるしかなかっただろうが、その状況に耐えられたのか。美しさを武器に出来なくても、何か手を打ったのか。そのことに、とても関心がある。
内容に入ろうと思います。
sacraという、美人イラストレーターが失踪した。テレビに出たり、個展が大盛況だったりと人気を集めていた彼女だったが、彼女には盗作・経歴詐称・結婚詐欺などの疑惑が次々と持ち上がっていた。
彼女は一体何者なのか?
sacraの中学時代の同級生であり、現在はフリーラーターである朝倉美羽は、失踪したsacraとこれまで何らかの形で関わりがあった人間に取材を試みていた。同級生、絵画教室の先生、漫画家、芸術家…。彼ら彼女らは、自分たちが見たそれぞれの「sacra」を語っていく。
あらゆる場面で、息を吸うようにして嘘をつき続けたsacra。他人の好意を利用し、他人のエピソードを拝借し、他人の作品を剽窃し、他人の成果でステップアップする。sacraは全身、他人から奪ったもので出来ていた。sacra自身に属するものは、その恐ろしいまでの容姿の美しさだけだ。
容姿と嘘以外何も持たぬまま徒手空拳で世間を渡り歩き、自分では一切何も生み出さないまま人気美人イラストレーターとしての地位を確立したsacra。彼女は一体何がしたいのか?何故失踪したのか?その素顔とは?
嘘だけで塗り固められたモンスターのような少女の軌跡を、大勢の人の証言によって追う物語。
これは面白い作品だったなぁ。メチャクチャ面白かった。
とにかく本書は、sacraという少女の造型が素晴らしい。このキャラクターを生み出し、血肉を与え、作品の中で自由自在に躍動させたことがこの作品の勝利だ。sacraは、どこかにいそうな気もするし、どこにもいなさそうな気もする。そのギリギリのラインにちょうど立っているような感じがするのだ。これ以上エキセントリックだとリアル感が失われるし、これより大人しいと魅力に欠ける。実際的な存在感を保ちながら、ギリギリのラインまでエキセントリックさを追求している点が素晴らしいと思う。
この作品を読まずに、ちらっと聞いた内容だけで判断した場合、「美人っていうんだから男ばっかり騙されてるんだろう」と思うだろう。しかしそうではない。もしそうだったとしたら、この作品はもっとつまらなくなっていただろう。sacraは、男女だけではなく、全年齢的に、様々な人間に嘘をつき、信頼させ、自分のために利用した(とはいえやはり、sacraの嘘に気づいて離れていくのは、女性の方が多いのだけど)。
『断ったら終わりだってことはわかってました。さくらは深追いはしませんから。
それをつまらなく感じてしまった。さくらを失いたくなかったんですね。
さくらといると、面白いんですよ。ジェットコースターに乗っているみたいなの。上がったり降りたり。次はどうなるんだろうってわくわくするんです』
少なくない人が、sacraのおかしさに気づいていた。特に女性はそうだ。sacraが嘘をついていて、その嘘を駆使して様々な状況を打破しているということに、結構気づいていた。読者も、そうだろうなと感じるだろう。何故ならsacraの嘘は、雑だから。隠そう、という意志はほとんどない。というか、冒頭でも触れたように、嘘をついているという意識がないのだ。自分が口から発していることが真実だと思い込めるからこそ、sacraは様々な発言や行動の整合性を取ろうとしない。その美貌と、様々な苦労を連想させる経歴(それらもほとんど嘘なのだが)のせいで、ちょっと違和感があっても気にしなかったり、逆に信じたいと思う者もいる(特に男に多い)。sacraは、個々の嘘に真実味を持たせるのではなく、「sacra」という存在に真実味を持たせることで、嘘をつくことで生じる様々なズレに目がいかないようにした。もちろんそれは、sacraの超越した美貌があってこそ成せる業ではあるのだけど、とはいえそれだけでは女性も騙されているという事実が説明出来ないだろう。天性の勘とセンスの良さで、「sacra」という存在の真実味を押し広げていったのだろう。
朝倉美羽からインタビューを受けているその時点においても、まだsacraのことを信じている者もいる。人は自分が信じたいと思うものを信じるのだ、というのは、作中にも出てきたし、巷間よく言われることでもあるのだけど、まさにその通りだなと感じた。皆、sacraのことを信じたがった。sacraといると楽しいからという者もいれば、sacraに嫌われたくないと思う者もいただろう。守ってあげたいのだ、飾りにしたいのだ、褒められたいのだ…。皆、様々な理由からsacraを信じたがった。
sacraは、皆のそういう気持ちを、実に見事に利用し続けた。それはもう、見事というべきものだ。sacraは本当に、自分では何も生み出さなかった。sacraが生み出したとされる様々なものは、どれも誰かのものだった。
『わたしが欲しいのは才能だよ、由香さん。わたしは自分を人に認められたいの。わたしは、誰かの奥さんとしてではなくて、自分の名前で生きていくの』
彼女は「才能」という言葉を、果たしてどんな意味で使っていたのだろうか。sacraには、間違いなく才能がある。それは、良いものを見抜く嗅覚と、人たらしの能力だ。そしてこれらを駆使すれば、プロデューサーやキュレーターという立場で、自分の名前で生きていくことは十分可能だっただろう。
何故彼女は、そういう生き方を選択できなかったのか。
sacraは最後まで、「自分で作品を生み出すこと」、もっと言えば、「自分で作品を生み出しているように見えること」にこだわり続けた。彼女にとって「才能」とは、何かを、sacraにとってそれは絵だったのだけど、とにかく何かを自分の内側から生み出す能力のことだけを指していたようだ。
何故なんだろう。何故彼女は、プロデューサーやキュレーターでは満足出来なかったのか。
その理由となり得る要素も、作中では描かれている。古くから活躍する著名な漫画家の存在や、中学生時代の美術教師とのエピソードなどだ。絵はsacraにとって、ある種の成功体験と言えるのだろう。それを再現したい、という気持ちが、大人になる過程で一向に衰えることがなかった、ということなのだろうと思う。
とにかくsacraという女性の描写は圧倒的だ。近くにいたら、僕も間違いなく騙されてしまうような気がする。たぶん、すぐに胡散臭さには気づくだろう。でも、気づいたとしても、「sacraといると楽しいから」という理由で、その嘘に気づかないフリをしてしまうかもしれない。だから、作中に登場する「sacraに騙された人達」のことを責められない。
「sacraに騙された人達」の話は、とても面白い。様々な人間が断片的なsacraの姿を語っていくのだけど、ある人物の語りの中で謎だった部分が、別の人間の語りの中で明らかになっていく。そういうエピソードがもの凄くたくさんあるのだ。インタビューをしている朝倉美羽と読者だけは、複数の人間の話を総合的に聞いているから、sacraの嘘の悪質さがより理解できる。しかし、自分が見たsacraの姿しか知らない面々は、自分が見聞きした情報だけでsacraを判断してしまうから、sacraを疑いきれないし、信じたくなる。
この点がこの作品の構成の非常に面白い部分だと思う。みんなの話を聞いてる俺たちだけはちゃんとsacraの嘘が分かってるんだぞ、という謎の優越感もあるし、思いもしなかったところで様々な人間の話が繋がっていく展開も非常に魅力的だ。複数の話を突き合わせてやっと分かるsacraの嘘の真意もあるし、すぐバレてもおかしくない嘘をつきながら圧倒的な対応力で現実をねじ伏せてしまうsacraの力強さも体感できる。sacraの魅力には到底及ばないものの、「sacraに騙された人達」もそれぞれに一癖も二癖もある人間たちで、彼らの考え方や価値観にも興味が持てる。全体的に魅力溢れる人物ばかり登場する小説という印象だった。
最後の最後までsacraらしさが炸裂する物語で、ラストの展開には読者も唖然とするだろう。結局最後まで、そうまでしてsacraが追い求めたものが何だったのかは、はっきりとは掴めない。このモヤモヤ感も、この作品らしくてとても良いと思うのだ。最後までsacraの謎めいた魅力に振り回され続ける作品だ。
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