【映画】「コリーニ事件」感想・レビュー・解説

この映画の原作となる小説を読んでいたのに、まったく覚えていなかった。そして、映画もとても楽しめた。

原作小説がドイツで出版された時、センセーションを巻き起こし、この小説がきっかけとなって、ドイツ国内である委員会(ネタバレになるのでどんな委員会なのかは触れないが)が立ち上げられた、というから、小説が現実を動かしたと言っていいだろう。法曹関係者の間では知られていたことだったようだが、この小説をきっかけに、この小説の核心となる部分が世間にも知られることとなったのだ。確かに、ドイツ人にとっては、決して「風化した」とはいえない衝撃を持って、この事実は受け取られたことだろう。

事件は、静かに始まった。それは、よくある殺人事件の一つであるように思われた。ホテルの最上階のスイートで、ジャン・B・マイヤーという人物が殺されているのが発見された。銃弾が3発打ち込まれていて、頭を踏み潰した跡がある。しかし被害者には、抵抗した様子がなかった。被疑者は、ホテルのロビーで「奴は死んだ」と自白するようなことをホテルスタッフに告げ、その後一切口を利かなくなった。男の名はファブリツィオ・コリーニ。イタリアで生まれ、30年以上もドイツで暮らしている人物だ。
カスパー・ライネンは、弁護の依頼を受け取った。3ヶ月前に弁護士登録を済ませたばかりで、今回が初めての裁判となる。国選弁護人を引き受けることに決めたが、被疑者は黙秘権を行使し、弁護士にも何の話もしない。弁護は困難を極める。
さらに、カスパーにとって驚くべき事実が判明する。なんと、コリーニが殺したのは、カスパーにとって父親代わりと言っていい人物だった。被害者の名前がジョン・B・マイヤーとなっていたので気づかなかったが、彼の通称はハンス・マイヤー。マイヤー機械工業のトップであり、彼の死はドイツ国内でも大きく報じられることとなる。カスパーは、マイヤーの娘であるヨハナとは子どもの頃から見知っていて、彼女に、知らずにコリーニの弁護人を引き受けることになったと告げる。
しかも、被害者側の弁護士(公訴参加代理人)は、カスパーの大学時代の教授であり、その名をよく知られた法律家だと分かった。駆け出しの弁護士には荷の重い案件となった。
被疑者が一向に口を開かない中、カスパーは裁判中思わぬところから突破口を開くことになる。彼は、このまま被疑者が動機を明らかにしないまま終結すると思われていた裁判を一旦止め、僅かな手掛かりを元にイタリアへと赴くことになり…。
というような話です。

正直、ネタバレのことを考えると、これ以上内容に触れられません。当然核心の部分についても書けないので、感想を書いていてもどかしい感じになりますけど、映画はとても面白かったです。

原作を読んでいたことをすっかり忘れていたので(原作を読んだのは7年も前なので仕方ない)、映画の冒頭からしばらくの間は、「この設定で、どうやってこの後物語を展開させるんだ?」と思っていました。というのも、コリーニが被疑者であることには疑いの余地はなく、争点は「謀殺か故殺か」という点だけだったからです。ドイツにおける「謀殺」と「故殺」の定義はちゃんと知りませんが、恐らく計画殺人かどうか、ということでしょう。「謀殺」と判断されれば無条件で無期懲役が確定するので、弁護の方針としては、「謀殺ではなく故殺だった」として減刑を訴えるぐらいしかありません。しかしそれも、被疑者が何も喋らないので打つ手なし、という状況なわけです。

はっきり言って、ここから何か物語が展開するとはちょっと思えないような状況でしょう。はっきり言って中盤ぐらいまで、物語は全然動かないので、そういう意味で前半は多少退屈という感じもします。それでも、ある意味で「出来すぎ」の状況設定が、物語を面白くしてくれています。弁護人は被害者を恩人と感じているし、被害者の娘とは昵懇の仲だし、被害者側の公訴参加代理人は大学時代の教授、という、普通はありえないだろう状況設定から生まれてくる、「核心部分」とは関係のない物語が、前半部分は面白く展開していきます。

カスパーは裁判の中で、被害者側の証人尋問中に聞いたある言葉に反応します。それが、「被害者が撃たれた銃は特殊なものだった」ということです。証人は、被疑者は恐らく闇市場で手に入れたのだろう、と推測を口にします。そしてカスパーはその証人に対して、「闇市場で銃を手に入れようとして、たまたまその特殊な銃が手に入る可能性はあるか?」と質問をし、「あり得ない」と回答を得ます。つまりコリーニは、”わざわざ”その銃を手に入れた、ということです。

そこにどんな意味があるのか…はここでは触れませんが、ここから物語は一気に動き出します。しかし、観客には、真相は最後の最後まで謎のままです。そして、その真相は、裁判の中で意想外の形で提示されることになるのです。

全然関係ない(わけでもないのだけど、「核心部分」を知らない人には唐突に思えるだろう)話をしましょう。先日、ある科学の一般書を読んでいて興味深い事実を知りました。科学の世界では、教科書などにも普通に、「1897年にJ・J・トムソンが電子を発見」と書かれます。しかし、その本によると、どうやらそれは事実ではないそう。詳細は省きますが、当時の様々な科学者が様々な実験結果や仮説を提唱する中で、総合的に「電子が発見された」というのが真実なようで、「電子の発見」という出来事をJ・J・トムソン一人の手柄に出来るような事実はない、と結論されています。にも関わらず、誰もが疑うことなく、「1897年にJ・J・トムソンが電子を発見」と書き、話をするわけです。

これは、「正しさ」というものが、人為的に(あるいは人為と偶然のミックスによって)生み出される、ということを示しているでしょう。僕らが「当たり前」だと受け取っているけれども、その事実を実際に自らで確かめたことがない事柄についても、常に同じことが言えるのではないか、と考えさせられました。

「正しさ」には、「基準」か「大多数による賛同」のどちらか(あるいは両方)があるでしょう。物事の「正しさ」がどちらに支えられているのか、そしてそれは疑いようがないものなのか、ということは、常に意識してもいいのかもしれません。

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