【映画】「GUNDA/グンダ」感想・レビュー・解説

面白かったかどうか、と聞かれると、ちょっと答えにくい。ただこの作品なんとなく、ドキュメンタリーとして高く評価されているように思うのだけど(この感想を書いている時点でまだレビューなど観てないので詳しくは知らない)、高く評価されているとすれば、その理由は理解できるような気がした。

恐らくこの映画は、ドキュメンタリーにおける「デュシャンの『泉』」なのだと思う。

ドキュメンタリーとは、当たり前だが、「現実を切り取る」ものだ。しかしドキュメンタリーを観る度に感じることは、「ドキュメンタリーという性質上、現実を完全には切り取れない」ということだ。

何故なら、「そこにカメラがある」という事実が、少なからず「現実」に影響を与えるはずだと思うからだ。

普通僕らは、なかなかカメラを向けられることはない。最近はYouTuberなどが街中でカメラを持っているので、「カメラで撮影されている光景」そのものは見慣れたものになりつつあるが、しかしやはり、カメラで撮られる対象は、「自分は今カメラに撮られている」と意識するだろう。

だから、カメラに映る現実というのは、「カメラに見せてもいい現実」でしかない。例えば僕がカメラの密着を受けるとして、不用意にオナラなんかしないだろう。普段は気にせずしていても、カメラの前ではしない。そしてそのオナラの分だけ、リアルさは減る。

オナラなんかどうでもいいが、ドキュメンタリーの場合この、「そこにカメラがある」という事実がどの程度対象に影響を与えているのかが分からないことが多く、受け取り方が難しくなる。

ドキュメンタリーで映し出されるのが自分の知り合いなどであれば、その人の普段の様子と比較して、「カメラがあるから気取ってる」とか「撮られてるけど自然だ」などの判断が可能だ。しかし普通ドキュメンタリーを観る場合、映し出されるのは赤の他人であり、普段の様子と比較することなど叶わない。

ドキュメンタリーにおいては、否応なしにこの「カメラ」の問題が付きまとう。

しかし『GUNDA』は、人間が一切登場しない。もちろんもしかしたら動物も、撮られている時とそうでない時で振る舞いが変わるかもしれないが、重要なことは、観ている側が、「動物はきっとカメラがあってもなくても振る舞いに変わりはないだろう」と思えるという点だ。だからこそ、カメラに映し出されるものをそのまま「現実」と受け入れることができる。

しかしこれだけの話であれば、「人間以外を被写体にしたドキュメンタリー」すべてに当てはまる話だろう。しかしこの映画にはもう1つ特徴がある。それは、「カメラマンに撮影意図があるように思えない」という点だ。

ドキュメンタリーは、繰り返すが「現実を切り取る」ものだが、しかし、普通は監督には撮影意図があり、「こういう画を撮りたい」と考えるはずだ。もちろんその撮影意図は、被写体が人間である場合にも影響するわけだが、人間以外でも状況は変わらない。

例えば、アフリカの草原の映像を観ているとして、画面に「ライオン」と「インパラ」が映っているとしよう。この場合、映像の展開をどう予想するだろうか? 当然、「ライオンがインパラを狩る」という展開を予想するはずだ。

ライオンもインパラも、カメラに撮られているからと言って振る舞いを変えることはないのだが、しかし、ある意図を持ってカメラを回すことで、その映像から「撮影者の意図」が滲み出てしまう。もちろんこれは悪いことではない。ドキュメンタリーに「撮影者の意図」があるのは当然だし、その意図は観客にとっては映像を観る際の指針になるわけだから、あった方がいいとも言える。

しかし、「撮影者の意図」という枠組みの中でしか「現実」が切り取られていないという意味では、やはりそこにリアルさを感じるのは難しくなってしまう。

しかしこの『GUNDA』には、「撮影者の意図」があるようには感じられない。カメラに映し出されるのは、恐らく家畜だと思われる「豚」「鶏」「牛」である。我々が食肉としてよく食べているこれらの動物の”日常”をひたすらカメラで捉えている。

「こういう画がほしい」という意図があって撮られている映画なのかもしれないが、少なくとも僕はこの映画から、そのような「撮影者の意図」を感じなかった。なんとなくだが、「どんな画がほしいか」という意図より、「そこで何が起こっているのか」という興味の方が強く出ているように感じられた。

ドキュメンタリーにはこのように、「カメラの存在」「撮影者の意図」と2つの要素が必然的に組み込まれており、僕たちはドキュメンタリーというのはそういうものだと思い込んで映像を観ている。しかし『GUNDA』は、この「当たり前」をぶっ壊したからこそ評価されているのではないか、というのが僕の考えだ。

現代アートの世界に、デュシャンの「泉」という作品がある。これは、既製品の男性用小便器にペンでサインを書いただけの代物だ。しかしこの「泉」は、現代アートとしてもの凄く高く評価されている。

その理由は、「既存の考えを破壊したから」だ。それまで芸術の世界では、「美しいもの」「一点物」にこそ価値があると考えられていた。しかし「泉」は、美しいとはとても言えない男性用小便器を使っているし、既製品にサインをしているだけだから一点物でもない。これをアートとして提示することでデュシャンは、美術の世界の既存の常識を壊したのだ。

『GUNDA』も同じような評価のされ方をしているのではないかと、映画を観ながら考えていた。いや、単純に映像がキレイだし、音楽もナレーションもないという斬新さもあるし、そういう点で評価されているのかもしれないけど。

あと、映画のモチーフを「家畜」にしたことも、非常に面白いと感じた。

「家畜」は僕らの食生活に無くてはならないが、僕らは普段「家畜」のことなど考えない。むしろ、その存在を知りたくないとさえ考えているかもしれない。昔から「屠殺」は穢れ的に扱われてきたようだし、今だって憧れられる仕事とは言えないだろう。「生き物を誰かが殺してくれているから僕らは肉を食べられる」のだが、その事実を見ないフリして、肉だけ美味しく食べたいのだ。

この映画では、そんな”撮るに足らない”(誤字ではない)存在である「家畜」を、非常に優美な映像で何の説明もなく映し出すことで、僕らのその「家畜の存在など知りたくない」という気持ちを揺さぶるのではないかと思う。

豚の親子は必死で生きているし、片足の鶏は勇敢な姿を見せるし、ハエにたかられている牛たちの表情はなんだかカッコいい。しかしたぶん僕たちはそんな姿を知りたくない。何故なら僕らは、彼らの「肉」を食べているからだ。

この映画を「良い」「カッコいい」と感じることは、普段自分たちが「肉」を食べているという事実と相反し、否応なしにザワザワさせられる。被写体として「豚」「鶏」「牛」が選ばれた理由は分からないが、そういう「矛盾」みたいなものを突きつける意図があったのではないかという気がする。

さて、少し前の話に戻ろう。この映画には「カメラの存在」と「撮影者の意図」が無いという話だ。さて、普通であれば、この2点が無い映像は「ドキュメンタリー」とは呼ばれないと考える方が自然ではないかと思う。しかし僕は、この映画は「ドキュメンタリー」だと感じた。

その明確な理由を掴み取ることはできなかったが、被写体が「家畜」であり、それ故に観客にザワザワした感情を呼び覚ます、という点は、本書を「ドキュメンタリー」として成立させている要素の1つなのかもしれないと感じた。

正直に言えば、ところどころウトウトしながら観てしまった。普段から大体眠いので、「眠ってしまったからつまらない映画だった」というわけではないのだが、確かに単調であることは否めない。ここまで書いてきたように、「ドキュメンタリー映画」として非常に斬新なことをやっていると感じたが、とはいえそれは「面白いかどうか」とはまた別軸の評価である。

決して面白くなかったわけではないが、「凄く良かった」という感じの映画でもない、というところだ。

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