【映画】(ネタバレあり)「シン・エヴァンゲリオン劇場版」(二度目)感想・レビュー・解説

「シン・エヴァンゲリオン劇場版」二回目を見に行った。たぶん三回目見ることはないと思うけど、気が向いたらまた行くかもしれない。

(一度目の感想)

一度目の感想は、内容についてほぼ触れず、自分が観てどう思ったのかという感覚をひたすら書いた。自分ではそこまで「エヴァンゲリオン」というものに強い思い入れを持っていたつもりはなかったのだけど、それでもとてもとても大きく心を揺さぶられたので、どうして自分がそんな風に感じるのかという自分の気持ちを深堀りしてみたかった。同時に、普段から「ネタバレ」というものに対して自分なりのルールを定めながら感想を書いているのだけど、この「シン・エヴァンゲリオン」に関しては、事前情報にまったく触れずに観たいという人の方が圧倒的に多いだろうと思った。だから、内容にはほぼ触れずに、感想を書いた。

それから、とにかく考察動画を観まくった。昨日はそれこそ、朝から8時間ぐらいぶっ通しでYoutubeを見ていた。それまでもエヴァンゲリオンの考察動画は時々見ていて、みんなよくそんなところまで分かるなと感心していたのだけど、今回ほど見漁ったことはない。

そして、考察動画を見漁った上で、再び「シン・エヴァンゲリオン」を観に行って感じたことは、多様な解釈が許容される作品において、内容に関しても「自分はこんな風に感じた」という考えを出していくことは、「エヴァンゲリオン」という現象全体に対しても面白いことなのだな、と感じるようになった。

そう感じた一番の理由は、いくつかの考察サイトで指摘されていた、「シン・エヴァンゲリオンは、作中の登場人物たちの解放に留まらず、エヴァンゲリオンという作品に囚われていた制作陣やファンの解放をも目指しているのだ」という考えに触れたからだ。

もちろんそれが、庵野秀明監督の意図であるのか、答え合わせは難しいかもしれないが、しかし考察動画を見ると、なるほど確かにそういう指摘は正しい気がするなぁ、と感じる。特に、これも考察動画で知ったことだけど、エヴァンゲリオン新劇場版は、「序・破・Q」までの制作陣と「シン・エヴァンゲリオン」の制作陣では、作画監督などの体制がガラリと入れ替わっているという背景も興味深い。もちろんこれも、何か別の意図があってのことかもしれないが、「エヴァンゲリオンの制作陣の解放」という視点で捉えると、綺麗にハマるなぁ、と思う。

よく言われることだが、碇シンジや碇ゲンドウというのは、庵野秀明監督自身を強く投影している(実際は、主要な登場人物のどこかに、庵野秀明監督自身の要素が組み込まれている、らしいが)。「シン・エヴァンゲリオン」の中で繰り広げられる様々な闘いや葛藤というのは、突き詰めれば、エヴァンゲリオンという作品と向き合わざるを得なかった庵野秀明監督自身のものであり、それがこの「シン・エヴァンゲリオン」という作品で終わったのだ、という見方も、なるほどと感じる。

さらに、それまでのエヴァンゲリオン作品では、登場人物たちの描像や行く末などについてかなり曖昧なままだったと思う。そしてそのことも一因として、良かれ悪しかれ、エヴァンゲリオンという作品は様々な議論や考察を生み出し、様々な意味合いを持って語られるようになっていった。それは、「悪しかれ」側の見方をすれば、ファンがエヴァンゲリオンという作品に囚われているということでもある。「シン・エヴァンゲリオン」では、これまで未解決とされてきた(この「未解決とされてきた」という情報も、最近見漁った考察動画で始めて知る、というぐらいのにわかファンなのだけど)様々な疑問や謎に、公式的に一定の解答が与えられた作品であるとも言える。もちろん、あまりに奥深い作品であるし、さらにファン一人一人の様々な思い入れが27年間という月日で醸成されているのだから、議論や考察が絶えることはないだろう。しかしそれでも、「あれは一体なんだったんだ?」というなんともいえないモヤモヤした状態から、「少なくとも、議論のスタートラインに立てるだけの状態にはなった」という地点にはたどり着いているのではないかと思う(分からないけど)。

それはつまり、「庵野よ、俺たちに答えをくれ」という渇望が終わり、「庵野よ、俺たちが自分なりの答えを導き出せるようにしてくれてありがとう」という感謝への転換、ということなのだと思う。それをもって、「エヴァンゲリオンという作品に囚われていたファンの解放」と捉えることも、また自然だと思う。

制作陣は、「シン・エヴァンゲリオン」という作品を世に送り出すことによって「エヴァンゲリオン」という呪縛から解放された。では観客は?観客は、「その人なりの答えを思い巡らせる(望むなら、それを大衆に伝える)」という形で「エヴァンゲリオン」という作品から解放されるだろう。

考察動画を見まくったこと、そして「シン・エヴァンゲリオン」という作品を二度観たことで、このような考え方を抱くようになった。

しかし本当に、とんでもない作品を生み出したものだなと思う。

一応僕は、マンガ以外のエヴァンゲリオンはざっと観ている。そして、TV版や旧劇場版と言われるエヴァンゲリオンとは、スタートこそ同じもののまったく違う作品になっている。特に新劇場版においては、「Q」でまったく別次元の話が展開される。「ヴィレ」などという新たな組織が出てくるし、しかもそれは「ネルフ」を殲滅するための組織だ。碇シンジに対する扱いもまったく違うし、それまでのエヴァシリーズでは「乗りたくないのに乗らされること」に葛藤があったのに、「Q」で碇シンジはなんと「エヴァに乗るな」と言われる。まったく別の話になっている。

しかし、エヴァンゲリオンという世界観が非常に強固なため、表層的な設定をいくら変えようとも、「エヴァ感」みたいなものはずっと感じる(まあ、庵野が作ればすべてエヴァになる、という意見も目にしたことはある)。聖書や古典作品などをモチーフにつけられた意味深なネーミングが作品を深く読み取らせる動機に繋がるし、作中で重要な設定が深く語られずに観客が置き去りにされるため、作品の外の世界での考察も含めてエヴァンゲリオンという作品になり得る。

また「シン・エヴァンゲリオン」では、「反復」を示唆するキーワードが二つある。一つは「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の後に表記される音楽記号「:||」。これは「一度だけ決められた場所に戻って繰り返す」という意味の記号だそうだ。もう一つは「THRICE UPON A TIME」という副題。これは、J・P・ホーガンというSF作家の「未来からのホットライン」という作品の原題で、この話は「過去にメッセージを送ることが出来る機械によって、3度物語が繰り返される」というような内容らしいです(未読)。つまり、どちらも「反復」や「繰り返し」が示唆されている。

エヴァンゲリオンでは「円環」がモチーフになっていると示唆されています。考察には様々な種類がありますが、いずれにせよ、エヴァンゲリオンの世界では時間はループのように繰り返しており、「二周目以上の人生を歩んでいる者」とか「永遠に円環の時間をループしている者」などがいると示唆されています。永遠に時間のループを生きる存在というのは「渚カヲル」が有名ですが(渚カヲルについてはこれまでも、ループ構造の物語の中の語り部的な役割を担わされているのだ、的な指摘があったみたいですけど、「シン・エヴァンゲリオン」の棺桶が連なるシーンではっきり示唆されたと感じます)、人生二周目以上、については色んな説があります。特に、「碇シンジが様々な時間軸を行ったり来たりしてる」という解釈は面白いなと思いました。「Qだけ別の時間軸の話だ」とか「綾波レイの幽霊が登場すると別の時間軸に分岐する」みたいな解釈を目にして、みんなホントによくそんなこと思いつくなと思いました。

「シン・エヴァンゲリオン」の考察動画で興味深いと感じたのが、「碇ユイが人生二度目説」です。そして、「碇ユイから今後起こることを聞かされた碇ゲンドウ、冬月コウゾウ、真希波・マリ・イラストリアスの三人が、碇ユイの目的を叶えようとしつつもそれぞれの思惑を持って行動している」という解釈です。確かに映画を観てると、渚カヲルは時間をループしてる存在だから不思議はないけど、碇ゲンドウ、冬月コウゾウ、マリの三人は色んなことを知りすぎてるな、と。碇ゲンドウと冬月コウゾウについては「死海文書があるから」という理由で説明できそうだけど、マリに関してはどうしてこれほど情報を知り得ているのか謎だなと思います。碇ユイが二周目の人生を生きているという解釈は、なるほどなぁ、と思いました。

有名な話だそうですが、マリが屋上に降りてきた時に、碇シンジのSDATが初めて「トラック27」を表示した、という話も面白いと思いました。エヴァンゲリオンのTV版は全26話で、SDATはトラック1からトラック26を永遠に繰り返しているだけの機械だった。でもマリの登場によって初めて「27」が表示され、終わることのない円環構造が破られた、というような解釈だそうです。なるほどなぁ。みんな凄い。

またこの「円環構造」は、「始まりと終わりは同じ」という意味でもあり、作中にはそれを示唆するようなものがたくさん出てきます。例えば、渚カヲルというのは「第1使徒」でもあり「第13使徒」でもある。最後、碇シンジと碇ゲンドウが壮大な親子喧嘩をしますが、それも初号機(つまり1号機、碇シンジ)と13号機(碇ゲンドウ)の闘いです。最後碇シンジは、初号機とのシンクロ率が0%で、普通ならエヴァンゲリオンの操縦が出来ないはずですが、それは、0に最も近い数字である「無限大」である、という理解がなされます。また、エヴァンゲリオンという作品の核の一つである「人類補完計画」も、「種としての死は、新たな生である」というような、生(始まり)と死(終わり)は同じであるということを示唆しているようにも思います。

「円環構造」は、TV版や旧劇場版などを含めた過去のエヴァンゲリオン作品との関連性を示唆させながら(考察によっては、TV版、旧劇場版、新劇場版はすべて繋がっており、登場人物たちはその度にやり直しの人生を生きている、と解釈されます)、さらに「始まりと終わりは同じ」であるという、作品全体を貫くテーマとも関わってきます。

そして、このような深い構造を持った上でさらにこの物語が人を惹きつけるのは、「孤独」の物語だからでしょう。

パッと見、よくあるロボットアニメに思えるエヴァンゲリオンですが、エヴァンゲリオンというのは、「人間は生まれながらにして孤独で、その孤独とどう向き合うか」という話です。僕がこの設定に初めて衝撃を受けたのは、「ATフィールド」が何であるのかを知った時だったと思います。「ATフィールド」というのは、ロボットアニメによくある「バリア」的なものでしかないと思っていたのですが、そうではなく、これは「心の壁」です。

そもそもエヴァンゲリオンでは、使徒も人類も「人」だそうです(以下の解釈は、考察動画を見て自分なりに理解したことなので間違ってるかもです)。新劇場版には出てきませんが、第1使徒である「アダムス」から生まれた「人」が「使徒」で、第2使徒である「リリス」から生まれた「人」が人類、なんだそうです。で、人類が使徒に似せて作った人造の存在が「エヴァンゲリオン」です。

使徒もエヴァンゲリオンも「ATフィールド」を持ちますが(でも何故か持ってないやつもいる。その辺りはよく分からない)、エヴァンゲリオンは使徒に似せて作られたのでいいでしょう。さらに「人類」も「使徒」と同じように「ATフィールド」がある、と。それが、「人の形」そのもの、ということになります。「人類」は人の形を保つことで他者との境界を定め、他者を拒んでいる。だから、そういう「壁」を取り去って、一つの存在として混じり合おう、みたいなのが「人類補完計画」と呼ばれています。

とにかく、作品の基本的な設定の部分に明確に「孤独」というものが組み込まれているのです。

そして表層的には、碇シンジというキャラクターがとにかく「孤独」を代表する存在です。父親に捨てられ、エヴァに乗ることでしか自分の存在意義を見いだせず、否応なしに迫りくる様々な状況に翻弄され、自分のはいる価値がないと落ち込み、自分から他者と距離を置こうとしてしまう。非常に分かりやすく「孤独」をキャラクター化された人物が弱々しく主人公の位置を占めることで、エヴァンゲリオンという作品はさらに「孤独」というテーマ性を強くしていきます。

それだけではありません。アスカは優秀であるが故に孤独にならざるを得なかったキャラクターであり、綾波レイはクローンであるが故に出生的な意味で他者との繋がりを持たないキャラクターです。他にも、亡くなってしまった父親との葛藤を抱える葛城ミサトとか、同じ技術者だった母親との葛藤を抱える赤木リツコ(リツコさんの話はTV版だけなのかな?)など、色んな形で人々が孤独を感じている。

「シン・エヴァンゲリオン」でも、人類がほぼ死滅した世界でどうにか細々と生き残っている第3村の住人は個々に孤独を感じているだろうし、ヴンダーと呼ばれる戦闘機(ではなかったのだけど、とりあえず戦闘機)に乗っている面々は、基本的に死を覚悟しているという意味での孤独を背負っています。またそもそも、碇シンジを原因として引き起こされたニアサードインパクトによって、多くの者が自分の家族を喪っています。

さらに「シン・エヴァンゲリオン」では、これまで恐らく明確には描かれていなかっただろう碇ゲンドウの孤独が、はっきりと描かれます。シリーズの初期から、「自分の都合だけで世界を混乱に陥れようとする狂人」みたいなイメージだったはずで、それは「シン・エヴァンゲリオン」を見終わった今でも感想は変わらないんですけど、ただ、碇ゲンドウにも彼なりに抱えているものがたくさんあったのだ、ということがきちんと描かれたことは良かったと感じます。

シリーズの最初から、「孤独」というテーマをずっと内包してきたエヴァンゲリオンのラストを、全人類が否応なしに孤独を感じざるを得ない今の状況下において観る、という体験は、「シン・エヴァンゲリオン」そのものの評価とは別軸で、非常に感慨深く感じました。「孤独なんです」という主張は、そもそもしにくい雰囲気があるけれども、さらに現代においては、生きている誰もが孤独であるが故に、それを表立って口にすることがさらに難しいと感じられる世の中になっています。

そういう状況下で、様々な登場人物が、時には素直に、時には葛藤を抱えながら、自らの孤独について吐露していくエヴァンゲリオンや、その集大成である「シン・エヴァンゲリオン」という作品は、期せずして多くの人の心を代弁するような、あるいは、自分の心の叫びを受け止めてくれるような、そんな作品として世に登場した、と言っていいかもしれません。二度の公開延期を余儀なくされた作品ですが、つい先日、65年ぶりに「死海文書(先程名前を出しましたけど、これはエヴァンゲリオンの中で重要なモチーフで、実在するものです)」が発見されたというニュースが出たことも含め(公開から10日後にニュースになりました)、「シン・エヴァンゲリオン」という作品は公開されるべきタイミングを自ら選び取ったような、そんな印象さえ受けてしまうと感じました。

さてではここからは、もう少し具体的に内容に触れていきましょう。

やはりまず、第3村での描写が凄くいいなぁ、と感じました。特に、アヤナミレイ(黒アヤナミとか呼ばれているそうです)。「仕事って何?」「『おはよう』って何?」と無邪気に質問しながら、人間としてのありきたりの営みのすべてに新鮮に反応していくレイは凄く可愛かったです。さらに、これは考察動画を見ての意見だけど、第3村というのはようするに、加持リョウジがやろうとした「種の保存」の人類版のような場であり、大人になった鈴原トウジが医者として出産に携わっていたり、鈴原トウジの奥さんの委員長(洞木ヒカリ)がお乳をあげていたり、猫が妊娠していたりと、「生」が強く意識される場所でした。そしてそういう中で、「出生」という背景を持たない綾波レイが、その空間に居心地の良さを感じ、ずっとここにいたいと願いながらも、それが叶わないという現実に感じ入る部分もありました。

ちなみにレイは、「◯◯って何?」と質問しまくるんだけど、ヒカリはそれらに対して「◯◯は☓☓のおまじない」という言い方をよくします。ただレイは一度も、「おまじないって何?」って聞かなかったなと思います。まあ僕が覚えていないだけで、黒アヤナミが「おまじない」という単語を覚える機会が14年のどこかであったかもしれないし、あるいは、作中で描かれていないどこかの場面でヒカリに「おまじないって何?」って聞いてるのかもしれませんけどね。

アスカと碇シンジの関係については、こちらも大人になった相田ケンスケが絡んでくるという、なかなか予想外の展開になって、こちらも面白かったです。これも色々と考察を見ましたが、確かに一度目観終わった後は、アスカとケンスケは恋愛関係にあるのかな、と感じたと思います。ただその後、考察を見て、もちろんそういう解釈もありますが、ケンスケはアスカにとっての親のような存在だ、という解釈の方がしっくり来るなと、二度目を見て改めて感じました。「睡眠欲と食欲を失っているから、性欲もないはず」とか、「シンジの前ではスカーフをしてDSSチョーカーを隠している」など、ホントみんなよく気づくなぁと感心しながら考察を見ていました。

個人的に気になったのは、アスカはいつからこの村にいるのか、ということ。「Q」のことをあまり覚えていないのだけど、碇シンジが回収される作戦から始まったはずで、その作戦の最初からアスカはいたはず。だからずっとヴンダーに乗ってるんだろうな、と。もちろん、破からQは14年の年月が流れているんだから、「ニアサードインパクトが起こった後、何らかの形でケンスケと接触し、任務がある時はヴンダーに、任務がない時はケンスケの家にいた」という感じなのかな、と思いますけど、どうなんでしょう?

レイとアスカについては、プラグスーツを着ている/着ていない問題について考察している人もいて、なるほどなと感じました。レイは途中でLCL化してしまいますが、これはプラグスーツを着続けたために人間の形を保つ機能を早く使い切ってしまったのではないか。一方のアスカは、プラグスーツを着ている場面は実に少なくて、ほとんど裸に上着を羽織っているような感じ。これは、プラグスーツを温存しているのではないか、という考察がありました。確かに、風呂に入る場面とか、アスカが寝てる場面とかで、よく「脱がれたプラグスーツ」が映し出されるんですよね。アスカはシンジに「初期ロット、ちゃんと動いてる?」と聞いているし、レイはレイで「私はネルフでしか生きられない」と言っています(そもそもこの黒アヤナミは、ゼーレが管轄しているもので、ユイの魂は入っていないから、碇ゲンドウは関心を示さない、らしいです)。プラグスーツに謎の表示がされて、恐らくそれが燃料切れみたいな感じになったからレイがLCL化してしまったんでしょう。

そもそも「シン・エヴァンゲリオン」では、アスカもまたレイと同じくクローンであったということがはっきりと示されます。当初から、「なぜ名前が惣流から式波に変わったのか」という議論があったようで、「アスカもクローンなのでは?」という考察もかなり早い段階で出ていたようです。みんなホントに凄い。僕は、恐らく世の中のその他大勢の人と同じく、「なんで名前が変わったか分からないけど、庵野監督がそう決めたならそうなんだろう」ぐらいに思ってました。ちなみに、アスカがクローンであることについては一つよく分からないところがあって、アスカが13号機に取り込まれるシーンで、「式波。私のオリジナル」って言ってるんですよね。僕は勝手に、「惣流がオリジナルで、式波がクローン」だと思ってたんだけど、違うんかな?

そして恐らくこの、脱がれたプラグスーツを執拗に映すシーンは、ある意味で、後の「アスカもクローンだった」という真相の伏線的な意味合いがあったんだろうなぁ、と思いました。エヴァンゲリオンって、ちょいちょい「微エロ」シーンみたいなのが挿入されて、僕としてはこれ、結構疑問だったんですよね。というのは、あくまでもなんとなくの知識でしかないけど、欧米でのマンガやアニメの基準って結構厳しいらしくて、日本人なら大したことないと思うエロシーンでもアウトだと判断されることがあるらしいんですね。エヴァンゲリオンだって世界に向けた視野をずっと持ってるだろうし、そういう観点からするとこの「微エロ」シーンは障害になるんじゃないか、と勝手に心配していました。でも、「シン・エヴァンゲリオン」で庵野監督は、「シンジ以外のチルドレンたちが裸である(というかプラグスーツを着ていない)ことには一定の意味があるのだ」ということを示したような気がするんですよね。実際的には「観客向けのサービスカット」的な意味合いが強いと思うんだけど、でもそういうシーンにさえも理由付けをしてしまう、みたいな回収の仕方が面白いなと思いました。

またこの第3村では、「アヤナミシリーズは第3の少年(つまり碇シンジ)に好意を抱くようにプログラムされている」という話も出てきました。これも考察動画の知識ですが、この話は、「序(破だっけ?)」の「こういう時、どうしたらいいか分からないの」「笑えばいいと思うよ」というシーンの伏線回収、みたいな意味合いがあるそうです。TV版にもこのシーンはあるんですけど、TV版では「笑えばいいと思うよ」という碇シンジのセリフに被せて、碇ゲンドウの映像が現れる。つまり綾波レイは、碇シンジの中に碇ゲンドウの姿を見て笑う、という流れになります。でも序だか破だかの綾波レイは、まったく同じ場面だったけど、そこに碇ゲンドウのイメージが重なることはありません。「シン・エヴァンゲリオン」でアヤナミシリーズの設定が明かされたことで、エヴァンゲリオンという作品の中でもかなり有名(だろう)「笑えばいいと思うよ」というシーンの解釈をも変えてきた、ということです。面白いですよねぇ。

基本的に感情が無い存在として扱われてきた綾波レイ(アヤナミレイ)が、最後の最後で第3村で人間の営みを体験し、それによって様々な感覚を理解していくからこそ、碇シンジとの別れの場面はぐっときますね。「稲刈りをしてみたかった」「ツバメをもっと抱っこしていたかった」「好きな人と一緒にいたかった」と言いながら後ずさりしていく場面は、やっぱ泣いちゃうよなぁ。

第3村にやってきてからずっと塞ぎ込んでいた碇シンジの心を溶かすのがアヤナミレイだというのも面白いです。人間的な感情が欠落しているが故に、教わって理解した言葉を躊躇なく忌憚なく揺るぎなく伝える。「なんでみんな僕のことを放っておいてくれないんだ」と泣く碇シンジに、「みんな碇くんのことが好きだからよ」と言ってさらに号泣させる場面など、アヤナミレイにしか成立させられない場面だよなぁ、と思います。「『好き』って分かったから嬉しい」とか、良いセリフだよなぁ。

さてそんなアヤナミレイの喪失のタイミングで、第3村にヴンダーからの離艦者(たぶん)が乗る船がやってくる。つまりそれは、アスカを回収する船でもある。ケンスケはビデオ撮影されることを嫌がるアスカに、「悪いが今日だけは記録させてくれ」という。この場面からも、ケンスケはアスカの死を予期しているし、アスカもケンスケとの別れを予期していると分かります。そしてそこに、アヤナミレイの喪失を経験したシンジがやってきて、自分もヴンダーに戻ることを決意する。

この時の碇シンジは、何を考えていたんだろう。物語的には当然、碇シンジが主人公だし、彼がいないと始まらないから、ヴンダーに戻るのは既定路線だけど、少なくともアスカがヴンダーに戻るタイミングで、シンジがヴンダーに戻らなければならない理由は特にない。ヴンダー(ヴィレ)から見れば、シンジは脱走者であり、ヴンダーに回収したところで何らかの役割が期待されているわけではない。そのことはシンジも理解していただろう。アスカも、「DSSチョーカーで親友が爆死したのを見てもなおここに戻ってくる決断をしたのはなんででしょう?」と鈴原サクラに聞かれ、「それより、葛城さんが帰還許可を出したことの方が驚きよ」と返している。碇シンジがヴンダーに戻っても、やることはないし、誰も何も望んでいないのだ。

碇シンジがヴンダーに戻った理由は、「ヴンダーに戻るべき(戻りたい)理由があった」か「第3村には残れない(残りたくない)理由があった」のどちらかだろう(他に選択肢はあるかな?)。後者である可能性もゼロではない。例えばケンスケがシンジに釣りをさせる場面。シンジは結局一匹も釣れない。これ以外の描写はないけど、恐らくシンジは第3村にいても、「自分がこの村で有益な役割を果たすことはできない」と感じたはずだ。だったら、自分には明確な役割は与えられていないにせよ、まだ何か自分の力を発揮できる可能性がある環境だ、と判断してヴンダーに戻ったのかもしれない。あるいは前者の理由としては、子供の方の加持リョウジに会ったことを挙げられるだろう。葛城ミサトの息子だと聞かされ、さらに、ミサトさんがシンジに頼り切っていたことに罪悪感を抱いているということがケンスケの口から語られる。子供の加持リョウジと会ったことで、葛城ミサトに会いたい(あるいは、会うべきだ)と感じたとも考えられる。

理由はともあれ、ヴンダーに戻った碇シンジは、やはり歓迎されない存在であるものの、そこからなんやかんやあって(「ゴルゴダオブジェクト」とか「ウィレの槍」とか「アディショナルインパクト」とか、その辺りはとにかくちんぷんかんぷん。考察動画を見てなんとなく分かった気になってる部分もあるけど、説明できるほどじゃない)、碇シンジは、父親である碇ゲンドウと壮大な親子喧嘩を繰り広げることになる。

とその前に、一度目も二度目も号泣してしまった場面がある。碇シンジが銃を向けられる場面だ。ヴンダーの船員も決して一枚岩ではなく、ニアサードインパクトを起こして家族を亡くした者は碇シンジに恨みを抱いている。しかしそれよりも、鈴原サクラの言葉に揺さぶられる。彼女もまた碇シンジに銃を向けるが、最初は「碇さんはエヴァに乗って世界を傷つけて、自分のことも傷つけてきました。だから乗らないでください。(銃で撃たれて)怪我をすれば、痛いですけど、エヴァには乗らないで済みますから」と、碇シンジに寄り添うような理由で銃を向ける。しかしその後、やはりニアサードインパクトを起こした碇シンジに対して複雑な感情を抱くサクラは、「碇さんは恩人で仇なんだ」と言って泣き崩れます。このシーン、やっぱりダメですね、号泣しちゃいます。

親子喧嘩のパートは、「撮影セット」や「書き割り」と言った、「虚構感」を強く押し出した描写になっている。これは表向きには「マイナス宇宙は人間には知覚できないから、LCLが人間が知覚可能な映像を見せている」ということになっている。現実ではなく、LCLが脳内に作り出している幻想だから稚拙なセット感があるんだよ、というわけだ。しかしこれも、色んな考察を見ていると、「僕らが映画を見ている『現実』と、映画内世界という『虚構』」という対比を、「碇シンジらがいる世界を『現実』として、その現実に対する『虚構』としてのセットや書き割り」というような対比に重ね合わせる意見があった。映画内世界という『現実』の中で碇シンジは、エヴァンゲリオンの無い世界に書き換えようとしている。そしてそれは、『現実』にいる映画を観る観客に対して、「君たちもエヴァンゲリオンの無い世界を生きよう」というメッセージだ、という解釈だ。なるほどなぁ、と思う。

イマジナリーの世界ではなくリアリティの世界で立ち直っている碇シンジは、渚カヲルに「どうしたい?」と聞かれて、「僕のことはいいから、アスカたちを救いたい」と言う。そして、様々な形でエヴァンゲリオンに囚われて来た者たちを解放していく。その過程で、今まで明確には描かれなかったような個々の登場人物の来歴的な部分に触れられることもあり、人物像がより深くなっていく。また恐らく、碇シンジによる「解放」は、円環構造を持つエヴァンゲリオンの世界からの解放という意味だろう。碇シンジが最後に解放するのが「アスカ、渚カヲル、レイ」であることからもそう感じる。アスカとレイは共にクローンであり、円環を成す世界をいくらでも生きることができるだろう。また、どうしてそういう存在になりえているのかは謎だけど、渚カヲルはそもそも円環を成す世界の狂言回し的な存在としての宿命を強いられているようだ。

この3人は、「エヴァンゲリオン」というものが存在しなければ、ある意味で「円環を成す世界の外側に出られる」といえるだろう。アスカはエヴァに乗ることで孤独を癒やしてきたし、レイはエヴァに乗ることしか存在意義がないと思っている。また渚カヲルは、やはりエヴァに乗らざるを得ない碇シンジを幸せにしたい(つまり、碇シンジがエヴァに乗らずに済むということ)と願う人物だ。だからこそ、「エヴァンゲリオン」の存在しない世界に書き換えれば、この3人は円環構造に存在し続ける必然性が無くなり、ループの世界から抜け出せる、ということなのではないかと思う。

となると謎なのがマリだ。マリについては存在そのものが結構謎だとされていて、情報も限りなく少ないので、その分百花繚乱の考察がある。マリはそもそも、碇シンジとほぼ面識がない(パラシュートでぶつかって以降、最後の決戦に挑む前に囚われの碇シンジに会ったのが二度目だ)から、「碇シンジが解放を願う人物」の中にマリが入っていなくても不思議ではない。そもそもマリは、漫画版には登場するらしいが、TV版、旧劇場版には出てこない、新劇場版で初めて大活躍する人物である。もし、TV版、旧劇場版、新劇場版がすべて繋がっており、登場人物が世界を再体験している、という設定であるならば、マリはTV版、旧劇場版にはいなかった(ユーロネルフ所属だから、描かれなかっただけでいたかもしれないけど)わけで、円環構造に囚われてはいない、と見ることも出来る。

ただ、じゃあマリって何者なのよ?っていうのが謎ですよね。

マリに関しては、「シン・エヴァンゲリオン」では多少情報が出てきて、冬月コウゾウから「イスカリオテのマリア」と呼ばれていることから考察している人もいたし、碇ゲンドウの白黒の回想シーンにマリらしき人物が多数登場することから、碇ゲンドウ、冬月コウゾウ、碇ユイと同年代という考察もある(碇ゲンドウのことを「ゲンドウ君」と呼んでるし)。「神様の力を借りなくても、人類の力だけでここまで来てるよ、ユイさん」みたいなことも言っているから、ユイと面識があることも確実だ(漫画版では、マリはユイのことが好きで、メガネをもらっている。新劇場版でマリが掛けているメガネも、ユイからもらっただと一般的には考えられているようだ)。ただ、結局謎のままだ。

しかし、マリのような存在がいなければならなかった理由は分かる。碇シンジは最終的に、エヴァンゲリオンに囚われている者を円環構造から解放することになるのだから、エヴァンゲリオンがいないという風に書き換えた世界には、アスカ・レイ・カヲルはそれまでのような形では存在し得ない。映画のラストで、ホームの反対側に学生服のような格好をしたレイとカヲルがいるけど(アスカもいる、みたいな考察を見た気がしたけど、僕は見つけられなかった)、あれは恐らく、それまでの記憶を持っていない存在のはずだ。ちなみに考察動画の中で、「庵野監督にとって、映画というのは電車のイメージだと過去のインタビューで語っている。ホームの反対側にいるということは、行き先が反対ということであり、だからシンジやマリがいるのとは違う物語を進んでいくことになるという暗示だ」というような意見を見た。なるほどである。

一方、「だーれだ」と目をマリに隠された、大人になったシンジは、「胸の大きな良い女」と返答する。これは、アスカとマリが最後の決戦に向かう前のシンジと会った時のやり取りを踏まえている。つまり、あのホームにいるシンジとマリは、それまでの記憶を持っている、ということだ。

マリのような存在がいなければ、エヴァンゲリオンに囚われた者たちを解放した後、シンジは最後一人になってしまう。それは、映画のラストとしては寂しいだろう。共に歩む者が必要だ。だから、来歴等々不明ながら、「碇シンジがエヴァンゲリオンからの解放を望まず、さらに碇シンジのことを思いやる存在」が必要とされたのだ。碇シンジはマリとほぼ面識がないから、エヴァンゲリオンからの解放云々に悩むこともないし(そもそもマリと面識があったとしても、マリはエヴァに乗ることを楽しんでいるようにも思うから、やはりどのみちエヴァンゲリオンからの解放と考えることはなかっただろう)、一方マリ側の視点に立てば、碇シンジというのは自分が愛した女性の息子であり、何がなんでも守りたいと考える対象だ。映画のラストをここに据えるのであれば、マリのような存在は必要不可欠だったなぁ、と思う。「マリ」が「マリア」を連想させる名前であることも、こういう解釈を裏付ける感じがします。

あとは、「渚司令」の話ですね。僕は正直、あんまりエヴァンゲリオンに詳しくないから、一度目の時は、「おぉ、渚カヲルってなんかの司令だったんだー。ふーん」ぐらいにしか思わなかったんだけど、エヴァンゲリオンファンからすればかなりのパワーワードだったらしいですね。考察動画でも、「渚カヲルは何の司令だったのか?」とか、「Qの予告で司令服を着ている渚カヲルが確かに映ってるけど、じゃああの場面における4つの影って誰なのよ?」など、様々な考察が入り乱れていました。

とまあ長々書いてきましたけど、改めて凄い作品だなぁ、と感じます。どこまで意図的なのかは分からないけど、「キャラクターが魅力的だから、深いことが分からなくても楽しい」という側面も持ちながら、「あまりにも深い構造や設定を持つが故に、考察してもしてもし足りない」というマニアックな側面も持っていて、制作側から「どんな楽しみ方もできるから、好きに楽しんで」と言われているような感じがあります。恐らくですが制作側も、ファン側の考察や感想などを受けて、描くべき内容を決めたりしているでしょう(エヴァンゲリオンというのはそもそも、その時々の制作側の気分みたいなものを作品にそのまま投影していくことを目指した企画だ、というような考察動画もありました)。

最終話にしてなお多くの謎を残しながら、概ねファンにとっては納得がいく(どころか、非常に満足度の高い)作品に仕上がっているんだと思います。そして中には、きちんと完結したことでエヴァンゲリオンという作品に手を出してみようと思う人も出てくるのではないかと思います。一度目の感想でも書いたことだけど、意外なことに自分の中に、「エヴァンゲリオンが終わってしまって寂しい」という感覚があります。そこまで「エヴァンゲリオン」という作品に思い入れを持っているつもりはなかったので、自分でも驚きました。

素晴らしい作品を観れたと思います。

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