【映画】「ザ・サークル」感想・レビュー・解説

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僕は、「情報が多いこと」にあまり価値を感じていない。何故なら、情報が多ければ多いほど、僕たちはまともな情報と接することが出来なくなる、と考えているからだ。そう考える僕なりの理屈をまずは書いてみよう。

まず、情報がどれだけ多くなったとしても、僕らが処理出来る情報には限りがある。インターネットの登場によって、僕らが接することが出来る情報がどれぐらい増えたのか分からないけど、それはもう天文学的な数字だろう。しかし、だからと言って、僕らの情報処理能力はさほど変わらないはずだ。確かに、大量の情報と接する世の中になったことで、以前よりはちょっとその能力は上がっているかもしれない。しかしそれは、情報の増加速度に比例するはずもなく、微々たる変化でしかない。

さてこの場合、僕たちにはどういう選択肢があるだろうか?情報は膨大、でも処理できる情報には限りがある、という場合には。

脳の情報処理に見合った情報にしか接しない、という方法も一つある。個人的には、これが出来るなら何の問題もない、と考えている。一昔前であれば、そういう生活も可能だっただろう。しかし、現代ではなかなかそんな生活は出来ない。SNSのアカウントを持っていて、ネットで検索して、youtubeを見る生活をしていれば、あらゆる情報と接する機会を持つことになる。接する機会そのものを減らすのは、困難だ。

さてではどうするか。恐らく多くの人が、意識的にせよ無意識的にせよ、「情報を選択する」という行動によって、情報を制限しているはずだ。情報と接する機会を減らすのと、情報を選択するとでは何が違うのかと言うと、機会を減らす場合は、そもそも10の情報にしか接しない。しかし選択する場合は、100の情報に接しながらそこから10選ぶ、ということだ。

さて、これで問題は内容に思える。脳が処理出来る10の情報を選べばいい、というのだから。でも、ここにこそ僕が感じる問題がある。というのは、「何を基準に選ぶのか」という問題があると思っているからだ。

情報というのは、接して咀嚼してみなければ、自分にとっての価値は分からない。しかし、情報を選択する場合、接した時点で良し悪しを判断することになる(咀嚼まで含めるのであれば、それは100接した内100を選ぶということと変わらない。選ぶというのは、咀嚼する前に判断して選ぶ、ということだ)。

じゃあその情報をどう選ぶか。咀嚼しなければ良し悪しがわからないはずの情報を、咀嚼する前に判断して選択するのだから、出来ることはただ一つ。「自分にとって良さそうかどうか」という判断基準を設けるしかない。

つまり、それがどんな情報であれ、「自分にとって良さそうに見える情報」は選ばれ、「自分にとって良さそうに見えない情報」は選ばれない、ということだ。選ばなかった情報の中に、自分にとても良い影響を与える情報があるかもしれないのに、それを選ぶことは出来なくなる。

「良さそうに見える情報」を作り出すことは簡単だ。例えば、楽してダイエットしたいと思っている人には、「1日1分で簡単に10キロ痩せる!」みたいな見出しをつければいい。どんなことが書かれているかに関わらず、「良さそうに見える」から、その情報を選ぶだろう。しかしそういう情報は、大抵ろくなものではない。

つまり、「良さそうに見える情報」を選ぶ、という意識が、自分の元に届く情報を極端に制限し、自分にとって価値のない情報ばかりに取り囲まれてしまうことになりかねない、と僕は考えているのだ。

そして、SNSなどを通じて多くの人と「繋がる」ことは、情報を増やすことだ。だから、今の思考をそのままトレースすれば、繋がれば繋がるほどロクな関係性は得られず、自分にとって価値があるかもしれない人と分断される可能性が出て来る、ということだ。

僕にとってそれは、あまりに価値を感じることが出来ない日常だ。だから僕は、SNSを止め、なるべくネットを見ず、オンラインで人と繋がらないように徐々に意識するようになっていった。

もちろん、僕のこの考え方を受け入れない人は大勢いるだろう。それで、別に構わない。僕のこの考え方が、完全に正しいとも思っていない。とはいえ、「繋がる」ことへの嫌悪感は、もっと多くの人が意識的に考えるべきことだ、とも信じている。

一度繋がってしまえば、なかなか人類は後戻りすることが出来ないだろう。繋がった世界が理想郷である可能性ももちろんある。しかしそれは、人類のこれまでの歴史や文化を破壊する可能性だって十分あると僕は考えている。そんな壮大な社会実験は、僕には怖くて出来ないし、容認もしたくない。

内容に入ろうと思います。
派遣社員として日々怒りに満ちた人と電話越しにやり取りするだけの日々にうんざりしているメイは、ある日友人のアニーから、明日面接だ、という連絡が来る。それは、世界中の人が使っている「サークル」というSNSを生み出した会社であり、メイはそのサークルで顧客とのやり取りをする仕事をすることになった。
サークルには、会社の敷地内にナイトクラブや有機農場、ライブ用のステージやボルダリング施設など様々なものが揃っている。また、社員やその家族に対する福利厚生も充実しており、多発性硬化症を患う父を持つメイも、その恩恵に預かれることになった。メイは、そんな世界的企業で働けることになったことを非常に誇らしく感じている。
しかし、違和感は少しずつ募っていく。同僚から、休日に社内のアクティビティに全然参加していないことをやんわりと指摘される。彼らがメイの充実した人生のためを思って言ってくれているのは分かる。しかしメイはどこか拭えない違和感を覚える。毎夜開かれているように思えるパーティーで、サークルを通じて子供を見守るシステムを開発している女性と話をした。子供が視界から消えるとすぐに通報が行くシステムを開発しているそうだ。メイが子供の行動をどうチェックするのかと聞くと、その女性は、子供の骨にチップを埋め込むのだ、と答えた。ジョークだと思ったメイは爆笑するが、相手が本気だと知る。ここでもまた、なんとも言えない気分がやってきた。

また、実家の近くに住む男友達にマーサーからも、度々サークルに対する違和感を突きつけられることとなった。マーサーはオンラインでみんなが繋がることに嫌悪感を抱いている。メイとマーサーの関係はなかなかうまく行かなくなってしまう。
そんなある日、メイはちょっとした行動から大問題を起こしてしまう。すぐに事態は収束したが、それはサークルが開発したシーチェンジという小型の無線カメラのお陰だった。その出来事をきっかけにメイは考え方を変え、自分の生活をすべて晒す初のサークラ―として世界的に有名になっていくだが…。
というような話です。

扱っているテーマは、僕が長い間意識的に考えるようにしてきたものだったので、興味深かった。繋がることや情報が飛躍的に増大することに対する嫌悪感は冒頭で書いた通りだけど、そういう感覚が描かれていることが面白い点ではある。

とはいえ、映画全体としては消化不良という感じはした。映画が何か結論を出すべきだとは思わなかったけど、世界中をオンラインで繋げるサークルというSNSがもたらす未来や状況を、うまく描けていないような感じがしてしまった。どの辺りが、と言われると困ってしまうが、この映画で描き出すSNSの怖さは、個人的にはちょっと矮小化されているように感じられてしまった。もちろん、それは僕が冒頭で書いたような問題意識を持っているからそう見えるだけかもしれないし、あるいは、一般的には親SNSの人が多いだろうから、そういう人たちを嫌悪させるような描写をすれば映画を見てもらえなくなる、という判断があったのかもしれない。その辺りのことはなんとも分からないけど、個人的には、ちょっとそういう方向じゃないんじゃないか、という気がしてしまった。

また、恐らく世間一般の人とはこの映画の見方が違うだろう、という部分も、この映画をうまく捉えきれなかった原因だと思う。

世間の人は親SNSの人が多いだろう。そういう人がこの映画をどう見るか。まずメイは、サークルに対して違和感を抱く。しかし親SNSの人たちは、この部分には共感しないのではないだろうか。つまり、最初メイはあまり共感されない存在として受け取られる。しかし、ある出来事をきっかけにしてSNSに対する考え方が代わり、サークルによってもっと人々を繋げる方向へと自らを突き動かしていく。そうなった後のメイには共感するのかもしれない。最終的にはメイの行動によって色々問題が起こる展開になるのだが、それも、SNSを信じすぎるとやばいことになる、捉えられ方になるのではないか。

つまり、親SNSの人がこの映画を見たら、最初は共感できなかった主人公が次第に共感出来る存在に変わっていく。しかし、それもやりすぎると大変なことになるからほどほどに、という映画として受け取られるのではないか、という気がする。これはあくまでも推測なので、間違っているかもしれないけど。

さて、僕はこの映画をどう見たか。最初僕は、サークルに対して違和感を抱くメイに共感した。しかし次第に共感できなくなってしまう。後半の方の展開によって、またメイの考えが変わることになるので、そうなることでまたメイに共感できるようになるが、中盤にメイに対して感じる違和感はなかなか払拭出来ない。という感じになる。

そういう意味で、ちょっと難しいと感じた。

また、そのこととはまた別に、僕にはメイが心変わりする最初のきっかけに違和感を覚えた。メイは、最初はサークルに変さを感じていたが、自分が命の危険にさらされたことで考えを変える。確かに、命の危険をサークルの技術が救ってくれたのだから、考えが変わってもおかしくないかもしれない。でも僕としては、あの出来事をきっかけに、そこまで一気に針が逆に振れるほど考えが変わるものだろうか、とも思ってしまった。その点に対する違和感も、なかなか捨てがたかったです。

個人的には、もっと違う描き方、切込み方を期待していたので、そういう意味で、観終わった感想はあまり良いものではない。

エマ・ワトソンは良かったなぁ、と思う。演技どうこうというのはよく分からないけど、僕の感覚としては、エマ・ワトソンが演じたメイはとても普通の女の子に見えた。メイが特別な存在ではなく、ごく一般的な感覚を持っている普通の人だ、という受け取り方をされることは、この映画にとっては大事なことだと僕は感じたので、そういう意味でエマ・ワトソンは凄く良かったなと思いました。

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