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最高指導者ブレジネフ。もたらしたのは平和か腐敗か?

ズドラーストヴィチェ!
研究員のRyuseiです。
今回はソ連時代の最高指導者の1人レオニード・イリイチ・ブレジネフについて解説していこうと思います。

同志の皆様や、歴史がお好きな方にはもはや馴染みのあるビッグネームではありますが、レーニンやスターリンと比べるとどうしても知名度の劣るブレジネフ。
ベルリンの壁のあの有名な絵で見たことはあるけどパッと名前が出てきにくい…なんならこの絵はこの人だったのね…なんて言われちゃう人です。
さて、このブレジネフという男。実はソ連の最高指導者を18年間も務めた人で、スターリンに次いで2番目に長〜い任期の指導者なのです。
長期政権を担ったがなんとなーく地味な男ブレジネフ。今回はそんな彼にスポットを当てたブログになります!

この絵のシーンやアートジャンルソッツアートの解説は過去の記事でも取り上げておりますので、そちらもぜひあわせてお楽しみください ↓↓↓

コルパシェヴォのレザーブランドCorridaからもブレジネフデザインの財布が何種類か出ていたりもします。
デザイナーのチョイスでこの人のデザイン。なぜこの人が選ばれるのかはわかりませんが、彼について調べればわかるかも…?
それではまずはブレジネフの小話から紹介していきます。

①ブレジネフはバカ…?


ロシアやソ連にはアネクドートというものがあります。主にソ連共産政治を皮肉ったジョークや滑稽な小話のことなのですが、中にはブレジネフを題材にしたものも。いくつか例をば。

赤の広場で酔っ払いが叫んだ。「ブレジネフは大馬鹿だ!」
彼はすぐさま秘密警察に逮捕された。
「私の罪状はどうなるんでしょうか。侮辱罪ですかね。」
「いや、国家機密漏洩罪だよ。」
ブレジネフがソ連の宇宙飛行士を呼び集めてこう言った。
「同志諸君。アメリカ人が月面着陸を成功させたぞ。協議の結果、我々は太陽への着陸を成功させる。」
宇宙飛行士は答えます。「しかし、レオニード・イリイチ。それでは我々は焼け死んでしまいます。」
「うむ、しかし心配は無用だ。ロケットの打ち上げは日没後にするものとする。」
「レオニード・イリイチは手術中です。」
「また心臓か?」
「いえ、胸郭を拡大する手術です。もうひとつ金星勲章が付けられるように。」

ちなみにひとつめに紹介したものにはこんな続きもあるそう。

「ブレジネフを"大馬鹿"と言った酔っ払いが釈放されたって本当ですか?」
「本当です。ブレジネフ氏が国連でスピーチをした後は、国家機密ではなくなりましたから」

頭が悪い人として描写されてばかりですね(笑)
アネクドートには指導者たちの性格を強調して描かれるものが多く、次のものとかは他の指導者との比較になってて個人的に面白いなと思います。

最高指導者たちの乗っている鉄道の列車が突然、急ブレーキを掛けて止まってしまった。前を見てみるとなんと線路が無くなっている! そこで彼らのすることは?

レーニン: スボートニク(休日返上の勤労奉仕日)を宣言、労働者と農民に参加を呼び掛ける。

スターリン: 列車を動かさなかった罪で運転手を、線路を先へ敷かなかったのをサボタージュとして鉄道工事に関わった労働者を粛清する。

フルシチョフ: 列車の後ろの線路を撤去して、前の線路を作るのに使うよう命令する。 

ブレジネフ: カーテンを閉めて、列車が動いていると思える様にレコードを聴く。

ゴルバチョフ: 「線路がない! 線路がないよ!」と叫んで列車を揺らす。

エリツィン: 列車自体を破壊してしまう。

勲章をやたら付けたがるところや貪欲な虚栄心もよくネタにされるブレジネフ。
写真を見ると確かにすごい数の勲章をつけています。

こんなコラ画像もありました。
アネクドートでも勲章のネタがありましたし、もしかしたらありえたんじゃないか、なんて思ってしまいます。

また、彼の時代にはスターリン時代ほどの厳しさがなかったため、法が形骸化し腐敗がソ連全土に浸透していきました。汚職事件も増えたどころか、ブレジネフ自身がなんと汚職体質の持ち主で、彼の身内にもスキャンダルが絶えなかったそう。
ブレジネフは海外製の高級車も好きだったようで共産主義の指導者があろうことにも西側の製品を好んで使って贅沢してていいの…?なんて思ってしまいます。


ここまで書いただけでは良いところが浮かばないブレジネフ。ですが、2017年のロシア全土で行われた世論調査では意外にも悪評は少なく以下の通りに。

ソ連崩壊後のノスタルジーと並行したアンケートだったのでこうなのかな…?と思い、他にもソースを求めてさらに調べてみるとこのような記事も。

印象と評価の分かれるブレジネフ。
停滞期として非難されることもあれば、安定した至福の時代として回想されることもある彼が作った時代はどんなものだったのか。
おそロシ庵さんの翻訳記事でもなかなかの高評価の様子の人物です。

では次に彼がしたことについて掘っていき、実態を探っていきましょう。

②ブレジネフって何をした人?

ブレジネフが政治的に成し遂げたことをまとめていくために、彼の任期に起こった出来事を挙げてみます。

1964 10月 フルシチョフ失脚、党第一書記はブレジネフ、首相はコスイギン
1965 9月 党中央委総会、新工業管理方式(コスイギン改革)採択
1966 第八次五か年計画(~1970年)
1968 8月 チェコスロバキアに侵入
1969 3月 中ソ国境で中国軍と衝突
1970 3月 サハロフ博士ら公開書簡をブレジネフに送る
1971 第九次五か年計画(~1975年)
1972 5月 ニクソン米大統領訪ソ
1974 2月 ソルジェニツィン国外追放
1975 8月 ヘルシンキ宣言に調印(ヨーロッパ安全保障協力会議)
1976 5月 米ソ、地下核実験制限条約に調印
1977 10月 臨時最高会議、新憲法(ブレジネフ憲法)採択
1979 6月 SALT-Ⅱ(戦略兵器制限交渉)調印
1979 12月 アフガニスタンに武力介入
1981 第十一次五か年計画(~1985年)
1982 11月 ブレジネフ書記長死去、後任アンドロポフ

前任のフルシチョフスターリン批判を断行し、米ソ冷戦でも平和共存路線をとりましたが、国内の自由化を厳しく取り締まり、また、農業政策での失敗やキューバ危機での弱腰を理由に政界を去りました。
そのこともあり改革に慎重なブレジネフは緩やかな時代を作ります。
ペレストロイカ後に「ソ連を崖っぷちに追いやったのがブレジネフなら、崖から突き落としたのがゴルバチョフ」なんて形容されるような人物ですが、一部の人からは黄金時代なんて形容されるブレジネフ時代。
内政はコスイギン首相に担当させ、主に外政を担当したブレジネフはデタント(緊張緩和)を推進し、欧州の安定と軍縮を目指して行きました。
デタントの成果として、1972年のSALT Ⅰ迎撃ミサイル制限条約の締結で戦略兵器の制限交渉に成功。’73年の核戦争防止協定、’75年の全欧安全保障協力会議ヘルシンキ宣言などがあります。

こう見るとかなり平和な時代を作った人に見えますね。立派な人!とバンザイで終われないのがここからのお話。
フルシチョフのスターリン批判以降、東欧諸国では自由化を求める運動が起こるようになっていました。1956年、ポーランドハンガリーで起こった暴動を力ずくで抑えつけ、また、毛沢東のフルシチョフ批判をきっかけに中ソ対立も勃発。共産圏が分裂していきました。
西側に歩み寄り平和を目指したものの、ソ連による東欧諸国の社会主義陣営に対する締め付けは厳しく行われ、1968年のプラハの春という民主化運動をワルシャワ条約機構5カ国軍を介入させ抑圧。ブレジネフ・ドクトリンを発表しこれを正当化しました。
ブレジネフ・ドクトリンは制限主君論とも呼ばれるもので、要約すると「社会主義国全体の利益のために一国の主権が制限されても仕方ないでしょ」ってことです。うーん。

あとはソ連経済の話です。
スターリン時代に大規模な工業化を進めたのにも関わらず、農業に依存しすぎたり、資源大国であるにも関わらずそこから得た外貨を輸入に注ぎ込み、重工業化が遅れたことがソ連経済停滞の大きな理由と言われています。
ブレジネフ時代はこの改革もうまくいかないまま、法や政治の形骸化、腐敗が進んでしまい、次のゴルバチョフがペレストロイカを推進するに至りました。

大雑把にまとめると、西側とは平和に向かってうまくやりつつも、自由化を目指した社会主義国を厳しく取り締まって共産圏は分裂が進み、経済も停滞してしまってソ連が崩壊へとゆるやかに近づいていってしまった時代、のような感じでしょうか。当時を生きていないと評価の難しい人物、、、



ブレジネフについて調べてきましたが、大体どのような人かわかってきましたでしょうか?
ここまで調べたらロシア国内でも「まぁ好きな人は好きかも」って思うようになってきました。
Corridaのデザイナーが毎度作ってくれるブレジネフデザインも何かしら彼への熱い思いがあるのかもですね。笑
そんな渋いデザインも当店限定世界にひとつのオリジナル!レザーなので経年変化も楽しめるアイテムです。興味を持っていただけたら幸いです

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