社会の時間
1.はじめに
古代エジプトにおけるトト、ギリシア神話のモイライ(運命の三女神)であるラケシス、クロト、アトロボスそして北欧神話に登場するノルン(運命の女神)三姉妹ウルド、ベルダンディ、スクルド。これらの神々は時間を支配する神と考えられている。特に人間の生きる時間と死ぬ時間をつかさどる神々である。現在、これらの神々の名前は神話そのものではなく、漫画やアニメ、テレビゲームなどを通して若者たちに伝えられている。それらのどの作品においても、これらの神々は何らかの形で「時間を支配する力」をもつ。このことは神話の思想が現在にも伝えられて続けていることを示す。
日本神話においても時間を支配する神々が登場する。大年神(おおとしのかみ)、御年神(みとしのかみ)、若年神(わかとしのかみ)は人間界の一年を支配する神、聖神(ひじりのかみ)は「日知り神」という言葉が転じた名前をもつ神で、暦を司る。この他『古事記』には何をしたかは不明であるが、名称から時間をつかさどると推察される時量師神(ときはかしのかみ)という神が登場する。
これらはごく一部の例だが、世界の多くの神話のなかに時間を支配したり管理したりする神がみられる。こうした神の存在が表現されているということは、人間の社会には古い時代から「時間」という概念が存在していたことを示している。時間概念は、神話という「お話」だけに登場するわけではない。
古代エジプトではナイル河が定期的に氾濫し肥沃な土をもたらした。エジプトでは、このナイル河のもたらす土によって作物が豊かに育った。豊かな収穫という点で重要なことは「いつナイル河が氾濫するのか」ということである。氾濫する時期がわかればそれにあわせて農作業を行うことができる。人々はナイル河氾濫を予測するために天文観測を行い、「太陽暦」を発明した。太陽とシリウス星(天狼星)が同時に観測できる時期にナイル河が氾濫するということにちなみ、この太陽暦をシリウス・ナイル暦と呼ぶ。シリウス・ナイル暦と呼ばれる暦は、エジプトで発見された遺跡や遺物の研究および古代ギリシアの歴史家ヘロドトスが書いた『歴史』の分析から明らかにされ、この暦が紀元前3300年頃にはエジプトに普及していたことがわかっている。
暦が利用されていたのは古代エジプトだけではない。他の地域にもエジプトと同じような暦やその地域独自の暦が存在している。暦については次の章で詳しく説明したい。このように人間は古代から時間についての概念を発展させてきた。ただ注意すべきことは一言で「時間」といってもその内容は多様であるということだ。本稿では人間が利用する多様な時間概念のいくつかを紹介し、それらの時間が我々にどのような影響を与えているのか、それによって我々の生活がどのように変化するのか、ということについて論述したい。
2.暦について
2.1.太陽暦
中央アメリカにあるマヤ文明の遺跡チチェン・イッツァにあるピラミッド、カスティーヨはピラミッド全体がひとつの暦になっている。ピラミッドを構成する4面には91段の階段があり、最上段に神殿がある。4面の階段を合計すると364段になり、これに最上段を加えると365段になる。また各面は9層構造になっており、各層は中央の階段によって2つに分けられ合計18層になっている。マヤ暦の1年は18ヶ月だったため、これは1年の月数を示す。
このピラミッドは春分の日と秋分の日に生じるイベントによって全世界に知られた。春分と秋分の日の太陽が沈む前の時間、階段の側面にうねうねとした影が浮かび上がる。この影が階段の下部に作られた蛇の頭部の石像に合わさり、マヤの羽をもつ蛇の神ククルカンが舞い降りたように見える。これを「ククルカンの降臨」と呼ぶ。人々はこの現象をみて季節の変わり目を知る。つまりカスティーヨは建物全体がマヤ文明のカレンダーになっているわけだ。
マヤ文明と先にあげたエジプト文明はおそらく直接接触はしていない。しかし両文明ともに月の数は異なるが、1年を365日と定めた。両者ともに1年を365日としたのは、両文明が同じ地球という惑星で誕生した文明であり、天文学を発達させたからである。
太陽と星の観測によって、これらの文明の人たちは特定の星が定期的に同じ場所に位置することに気づいた。現代の我々はこれが地球の公転によって生じることであることを知っている。古代人たちはこれを天文観測によって知った。場所が異なっていても同じ地球上であればこの周期は一致する。マヤ文明やエジプト文明で発見された、地球の公転にしたがって作られた暦を「太陽暦」という。
太陽暦は農作物の生育や環境と一致した周期をもつ。だから農耕が発達した大部分の地域では太陽暦が用いられた。
2.2.太陰暦
沿岸地域では農耕ではなく漁が行われる。農耕では1年周期で生じる自然の変化が重要である。しかし漁で重要なのは、1年周期の変化ではない。漁を行う日の潮の満ち引きのタイミングだ。したがって沿岸地域では太陽暦ではなく太陰暦が用いられた。太陰暦は朔望月《さくぼうげつ》をもとにする。朔望月とは新月を朔、満月を望と呼び、新月から新月、または満月から満月をひとつの周期になる。太陰暦ではこの周期を1ヶ月と考える。
現在でも太陰暦を用いている代表的な暦はイスラム暦だ。正式にはビジュラ暦と呼ばれる。太陰暦では朔望月を1ヶ月と考えるのだが、朔望月はおおよそ29.5日である。したがって太陰暦での1ヶ月は29日の小の月と30日の大の月を交互に繰り返す。太陰暦は12ヶ月を1年とし、1年は354日になる。太陰暦の1年は354日、太陽暦の1年は365日で11日の差がある。ビジュラ暦ではこの差を調節せず、そのままの暦が運用されている。
先に述べたように農耕を中心とした生活では太陰暦の1年のズレは生活に支障をきたすことになるが、季節に左右されない地域、生活の中心が朔望月に左右される場所では、問題にならない。自分たちが信仰している宗教であるイスラム教は太陰暦(イスラム暦)に基づいた教えである。イスラム教の教えに基づいて生活している限り、イスラム暦によって行動することが当然視される。
2.3.太陰太陽暦
地球の自転を中心とした季節の移り変わり、つまり太陽暦を利用している生活と、朔望月を中心とした海の潮の満ち引きに影響された生活、すなわち太陽暦の周期によって生計を成り立たせている生活、二つの生活が合わさった地域に住んでいる人々はどのような暦にしたがって生活しているのだろうか。そうした地域に住む多くの人々は太陽暦と多陰暦とを合成した太陰太陽暦と呼ばれる暦をつくって生活している。
太陰太陽暦は太陰暦をもとにして太陽暦の1年の周期に合わせた暦だ。先に紹介したように太陰暦の1ヶ月は29日か30日で太陽暦にもっとも近い12ヶ月を1年としても354日となり、太陽暦の1年365日に11日に足りない。この不足した日数をどのように調整するのかが問題となる。3年経過するとズレは約1ヶ月にあたるため約3年に1度1か月間の閏月を入れることによってズレが解消された。
世界で太陰太陽暦が用いられたもっとも古い文明はメソポタミア文明だといわれる。遺跡の研究から紀元前2000年頃には太陰太陽暦が用いられていたことがわかる。そしてユーラシア大陸の他の多くの地域でも太陰太陽暦が用いられた。
中国や日本でも太陰太陽暦が用いられていた。日本では1872年(明治5年)、それまで用いてきた太陰太陽暦を廃止し、太陽暦(グレゴリオ暦)を用いることになった。改暦前に用いられていた暦を旧暦、改暦後に用いられている暦を新暦という。
2.4.日本の旧暦
2003年2月26日、奈良文化財研究所によって日本最古の暦が出土したと発表された。
奈良県明日香村の石神遺跡(飛鳥時代)で、毎日の吉凶を書き添えた具注暦(ぐちゅうれき)と呼ばれる国内最古の暦の木簡が見つかったと26日、奈良文化財研究所が発表した。表と裏に689年の3月と4月が書き写されていた。これまで最古だった静岡県浜松市の城山遺跡出土の暦の木簡(729年)より40年古い。暦が日常生活に浸透していた様子を示す第一級の資料という。 木簡は厚さ約14ミリ、直径約10センチの円状で、中央に14ミリ大の穴があった。各行に干支(かんし)(甲乙丙《こうおつへい》などの十干《じっかん》と十二支の漢字2字の組み合わせ)、十二直(日の吉凶を漢字1字で表す記号)、暦注《れきちゅう》(吉凶を表す決まり言葉)を記載。暦注には帰忌《きこ》(この日の帰宅は凶)、天倉(蔵開きに吉)、往亡《おうもう》(旅行などは凶)などと記されてあった。 木簡の文字を手がかりに表と裏の朔日《さくじつ》(1日)の干支を割り出し、445年から1872年までの全部の月の朔日の干支を調べた「日本暦日原典」(雄山閣)と照合し、年月がわかった。 本来は横長の板とみられ、後に円状に削って容器のふたのような物に転用されたらしい。3月の暦を裏返すと4月になる。佐藤信・東大教授(日本古代史)は「板の両隅に穴を開けてつりさげたか、壁に立てかけたのだろう。大変合理的な形で、今日の卓上カレンダーの原形ともいえる」と分析する。
(2003年2月27日 朝日新聞 朝刊1面)
『日本書紀』には持統天皇の勅命(690)によって「始めて元嘉暦と儀鳳暦《ほおうれき》とを行う」と書かれている。上述の木簡に書かれていた日付から考えて、これ以前にも暦が用いられていた可能性がある。日本独自の暦があったかどうかは確認できない。日本と中国との関係を考えれば、日本では、持統天皇以前から中国からの影響を受けた、あるいは中国で用いられていた暦が利用されていたのではないかと推測できる。
この後も長い間日本では中国から移入された暦が用いられる。日本で用いられた太陰太陽暦は次のものがある。
暦は不定期に改訂されている。これは太陰太陽暦における様々なズレを調整するためだ。前述したように朔望月は「約」29.5日、1年は「約」365日である。1ヶ月の日数、1年の日数は特定の数に定めると、必ず1ヶ月、1年の単位でズレが生じる。このズレを閏月や閏年などによって調整するのだが、そのタイミングが問題になる。また暦は作成された地域の星の動き、太陽の動き、あるいは月の運行によって変わる。したがって暦は調整しなければ運用上、支障が生じることになる。
さてこの調整を誰が行うのか。奈良県で発見された最古の暦には吉凶の日が書かれていた。日本は中国の暦が採用していた二十四節気という考え方を採用している。これは太陽暦の1年を24等分し、それぞれを分割する日に季節を表す名称を与えたものだ。冬至、春分、夏至、秋分などは現在でも用いられる。こうした節目となる日あるいは吉凶を表す日には何らかの行事が行われることが多い。こうした行事は人々の生活を規定することになる。そしてこうした特別な日に行われる行事の多くは宗教的な意味があり、統治者にとって自身の権威を示す重要な出来事である。したがって暦の作成や改訂は統治者である朝廷が行わなければならなかった。もし朝廷が暦の作成や改訂を行わなければ、朝廷自身の権威を失うことになってしまうからだ。
表を見ると宣明暦は862年から823年もの期間、改暦が行われていない。894年菅原道真の建議によって遣唐使は中止され、室町時代に行われた勘合貿易まで日本と中国との国交は中断された。この期間、中国から新しい暦の知識は導入されなかった。天文学の研究は続けられていたが、独自の暦を作成できるだけの技術はなかったため、この間、日本では新しい暦の作成や改暦が行われなかったのだ。823年もの長期間にわたって暦の改訂が行われなかったため、民間に同じ暦が定着し、朝廷だけではなく民間でも暦が作成されるようになった。ではこの期間、日本はどのような時代であったのか。
平安遷都以降10世紀頃までは天皇を中心とした中央集権国家が維持されていたが、貴族や豪族が台頭し、荘園の支配を通して、おのおの権力を強め始める。起源は明確ではないが同じ頃、武芸を習得し戦闘を生業とする武士が登場する。武士たちは武家と呼ばれる共同体を中心に集団を形成し、各地に勃発する争いを平定し、徐々にその勢力を広げていった。そして公家勢力をうわまわる実力を得て、12世紀末鎌倉幕府を開き、武士社会を定着させた。
武力による制定はさらなる武力を呼ぶことになる。鎌倉幕府、室町幕府と武家による支配が確立されるが、各地でおのおのに勢力を高める守護大名が台頭して抗争や反乱が勃発する。応仁の乱(1467-77)によって室町幕府はまったく機能しなくなり、戦国時代へと突入した。
このように歴史をみると、新しい暦の作成や改暦が行われたかった期間は、朝廷の権威が失墜し、いわゆる知識人たちがその能力を発揮することができず、社会が混乱していた時代だととらえることができる。暦はそれを作成する知識や技能が必要なだけでなく、社会が安定していることが必要なのである。
江戸時代になって政治権力が江戸幕府に集中し、社会が安定すると、日本で暦を作成できるだけの知識や技能が高められて、新暦の制定や改暦が行われるようになる。
2.5.暦の働き
太陽の運行にしても、月の満ち欠けにしても、あるいは星の動きにしても、そうした天体の変化という自然現象自体に1年や1日といった単位があるわけではない。自然現象に周期性を発見して数値化し、1年や1日といった単位を作り、暦を作成したのは人間だ。人間は天体に見られる周期性と自分たちの生活とを照合し、両者に符合する点があることに気づく。そして自分たちの生活の指標となる暦を作成した。
暦によって川が氾濫する時期、雨が多く降る時期、作物を植えたり収穫したりするタイミングなどをあらかじめ知って、それに対して準備を行うことができる。事前に時期を知ることで生活に余裕が生まれ、生産性があがる。暦は生活に密着し、円滑な生活をおくるために必要なアイテムなのである。
暦は生活に周期的な指標を与えるだけではない。暦には様々な儀式が組み込まれるようになる。古代社会には近代自然科学のような知識がない。自然災害、疫病、そして死などの現象の原因が何であるのか、明確に説明すること困難である。大部分の現象は、超自然的な力の存在によって説明される。そして自分たちの生活の安定および発展を願って、超自然的な存在に対して儀式を行うようになる。こうした儀式の一部が暦の中に組み込まれたのである。
「共同体」の名の付くものはすべて、同じ時間と場所−「いま・ここ性」−を共有していることをその特徴としている。時間と場所の共有、すなわち共通の「暦(カレンダー)」と「儀式(イベント)」を通じて、人々は経験と記憶を共有し、集団における規範意識や帰属意識を高め、コミュニティという形態を実現する。
(濱野 2010:58-9)
濱野が述べるように暦は同じ地域に住み、同じ時間を過ごす人々が共有するものであり、暦に組み込まれた儀式を一緒に行うことによって共同体としての紐帯(つながり)を強める。儀式はその地域で生活する人々に生きる活力を与え、円滑な生活を促進する働きをもつのだが、それは同時に人々の行動を拘束する力でもある。
儀式は「やった方がよい行事」でも「やるべき行事」でもなく、「やらなければならない行事」である。もしやらなければ、共同体に災いがもたらされると考えられた。儀式はそれを執行する者にとって権威を示し、人々を統制する絶好の機会である。現在、日本の祝日は「国民の祝日に関する法律」にしたがって国会で制定される。国会は国民の代表としての権威を認められた機関だからだ。
このように当初暦は人々の生活にあわせて作られたが、暦が人々の生活に定着すると、今度は人々の生活を規定するようになる。社会が不安定になり、権威者が権威を保てなくなると、暦も不安定になってしまう。社会が安定し、権威者が安定して権力を行使している間、人々は暦を通してその生活が統制されるのである。
3.時刻
前章では1年の長さを表現する暦について考察した。本章では1日の長さについて考えてみたい。現在の我々は1日の長さが全世界共通であると考えている。確かに地球の自転に基づいて、地球が1回転する長さを1日だと定義すればその長さは地球上どこにおいても原則的に同じ長さになる。
しかし同じ長さでも長さの区切り方は地域によって異なる。物理的な物の長さについて考えてみよう。
たとえば日本では寸、尺、間といった長さの単位が用いられた。日本では古代社会より韓国を経て中国から伝わった長さや重さの単位、尺貫法が用いられてきた。寸や尺はこの中国由来の単位である。
寸はもともと親指の幅を示す。尺は親指と人差し指を広げた形をあらわす文字で、手を広げたときの親指の先から中指の先までの長さを表している。古代社会で用いられた単位は、人間の身体をもとにした単位が多い。寸や尺のように東アジアで用いられた単位だけでなく、ヨーロッパ地域で用いられるインチやフィートも身体をもとにした単位だ。インチは寸と同じ親指の幅に由来する単位だとされ、フィートは足の大きさをもとにした単位である。寸と尺はもともと無関係に用いられていたが、中国で周の時代に寸は尺の10分の1と定められ、尺を基本とする尺度法が用いられるようになった。間は人間の身体をもとにした単位ではなく、建築物で用いられる単位である。間(ケン)はもともと建築物の柱と柱の間をさす長さであり、現在でも窓枠の幅や押し入れの幅などは間(ケン)という単位で決められる。
身体あるいは建築物をもとにした単位は人や地域によってあるいは時代によって変化する。そこで尺を一定の基準によって共通化しようという試みが行われてきた。日本では次のような尺が用いられた。曲尺(かねじゃく、大工が用いる指金のこと。L字型の金属製の物差し)、鯨尺、呉服尺、享保尺(竹尺)、又四郎尺(鉄尺)、折衷尺(伊能忠敬が享保尺の又四郎尺を平均して作った尺で、現在の曲尺の基になった)などである。
長さの単位は人間の生活様式によって決定される。したがって同じ長さであっても、時代や地域によって長さを区切る単位は異なる。その単位の内実も、それぞれの地域、それぞれの時代によって変化する。同じように時間の長さを表現する単位にも差異が見られる。
3.1.日本の時刻(江戸時代まで)
『日本書紀』に次のような記述がある。
この月(斉明紀6年5月)、役人たちは勅をうけたまわって、百の高座・百の納袈裟を作って、仁王般若波羅密経の法会を設けた。また皇太子(中大兄皇子)が初めて漏刻(水時計)をつくり、人民に時を知らせるようにされた。
(宇治谷 1988:211)
1981年12月18日、奈良県明日香村で『日本書紀』に記載された中大兄皇子による水時計の跡が発見された。この発見によって飛鳥時代には時計によって時刻を把握していたことが証明される。6月10日が「時の記念日」と定められたのは天智天皇(中大兄皇子)に由来する。
上記の漏刻の技術は中国から伝来したと考えられ、日本では、暦と同様に時刻についても中国からの技術と知識を利用したようである。水時計は日時計と異なり、雨が降っていても夜でも利用できる。しかし気温や湿度などによって時刻をはかる水の量が変化するため、専門家(漏刻博士と呼ばれる)が水の量を調整しなければならなかった。
中国では1日を12等分しそれぞれの時刻に十二支を配する「時辰」(じしん)という時刻が用いられていたので、日本でもこの時辰が用いられていたと考えられる。この時刻を現在の24時間制の時刻で表示すると次の表のようになる。
このように各時刻の間隔が同じように区分する方法を「定時法」と呼ぶ。後で詳しく紹介するが、一定の間隔で時間を区切る定時法に対し、時刻の間隔が一定ではない区分法を「不定時法」と呼んでいる。飛鳥時代から室町時代後期に至るまで人々がどちらの区分法による時刻によって生活していたのかは資料が残っていないためわからない。しかし人々が時刻を知らせる鐘にあわせて生活していたのは確かなようだ。
『日本書紀』には漏刻を作って人々に時を知らせるようになった、と記されている。この人々に知らせるための方法が鐘である。何の規則もなく鐘を鳴らしても、「何の刻か」わからない。そこでそれぞれの時刻に表のような数の鐘を鳴らし、時刻を知らせたのである。そして人々は時を知らせる鐘の音を聞いて暮らしていた。江戸時代には時刻の呼称として十二支にちなむ「子の刻」や「卯の刻」などという表現の他、鐘の鳴る数、たとえば「子の刻」なら「九つ」、「卯の刻」なら「六つ」と表現した。鐘の音が生活に根づいている証拠であろう。
3.2.日本の時刻(明治時代まで)
江戸時代には定時法による時刻と不定時法による時刻の両方が兼用されていた。定時法による時刻の運用は正確な時間の把握が必要であり、時計を厳密に運用する技能や知識が必要であった。先にあげた水時計にしても太陽の運行によって時刻を把握する日時計にしても、厳密な利用には専門家が必要である。こうした専門家が全国各地に所在するのは困難で、定時法はそうした専門家がいる特定の場所に限定されて利用されていたと推測できる(陰陽寮など)。特に人々の行動を支配する天文や暦法を扱う宮中や幕府は、厳密な時刻が必要とされ、定時法が用いられた。大部分の人々は定時法ではなく、不定時法による時刻にしたがって生活していた。
日本に本格的に電気が導入されるまで、夜の照明は松の木などを燃やしたかがり火やたいまつ、火皿に油を入れて木綿などの布を灯芯にして火をつけた行燈、ろうそくとそれを用いた提灯などであった。かがり火やたいまつは危険なため、室内では用いられない。行燈に用いられた菜種油は、「油一升、米三升」と呼ばれるように、米の2倍から4倍の値段になる高価なものだった。値段の安い鯨や鰯の油は煙が多く臭いもひどかったようで、好んでは使われなかった。現代人よりははるかに夜目が利いたようで、夜道を普通に歩いていたようだが、一般の人は夜間に活動をしない。
江戸時代、多くの人は太陽が出ている昼間に活動をした。そこで時刻は人が活動する時間が基準となって定められることになる。不定時法による人々の時刻の基準は、朝の六ツから夕方の六ツである。六ツは日の出前と日の入り後の時間帯で、手の筋がうっすらと見える、あるいは明るい星がぱらぱらと見える程度と決められていたようだ。朝の六ツから夕方の六ツまでを6等分する。6等分された1つの間隔を「一刻」(いっとき)と呼ぶ。一刻の半分を正刻(しょうこく)あるいは「はんとき」と呼ぶのだが、卯の正刻から酉の正刻までが昼、酉の正刻から卯の正刻までが夜である。
この昼と夜の時間は、季節によって変化する。地域によっては六ツの時間にズレがある。しかしながらそのような変化やズレを気にすることなく、一刻の長さが伸縮する時刻(つまり不定時法の時刻)に従って人々は生活していた。
朝の六ツに江戸城や見附の門、商店が開き、夕方の六ツに閉まる。商店の雇用人は朝の五ツから夕方の七ツころまで勤務していたという。これを定時法で考えれば8時から16時までの8時間勤務、ということになる。しかし当時の人々は不定時法による時刻が用いられていた。したがって実際には夏至の時期と冬至の時期で大きな違いがある。
2010年東京の夏至と冬至の時刻をあげよう。なお以下の計算で日の出時間と日の入り時間を六ツとしているが、この時代、暦の二十四節気にあわせて時刻の設定を変えていた。したがって以下の計算は当時の時刻の考え方の一例だと考えていただきたい。
2010年の夏至の日の出時間は4時25分、日の入りは18時59分である。この時刻が江戸時代の六ツにあたる。この日の昼の時間は4時25分から18時59分の間の14時間34分(874分)。これを6等分して一刻はおおよそ2時間26分(146分)になる。朝の五ツから夕方の七ツまで勤務した場合、朝の五ツが4時25分プラス2時間26分で6時51分、夕方の七ツが18時59分マイナス2時間26分で16時33分になり、労働時間は9時間42分になる。一方、冬至の日の出時間は6時47分、日の入りは16時32分だった。夏至の日と同じように考えると、冬至の一刻はおおよそ1時間38分(98分)であり、朝の五ツの8時25分から夕方の七ツ14時54分まで勤務することになる。したがって労働時間は6時間29分である。夏至と冬至の労働時間の差は3時間13分になる。現代人から見れば、時間の単位が2時間26分から1時間38分も変化し、季節によって労働時間に差がある、ということには違和感を覚える。仕事にしても家庭での生活にしても、うまく計画できない。しかし江戸時代の人々にとっては季節によって時間の単位が変化し、労働時間に差があるということに対して違和感を覚えることはおそらくなかった。
前述したように生活の中に電気がもたらされるまで、人々の活動時間は太陽の運行に依存していた。お天道様がのぼっている間に働き、お天道様が沈んで働けない時間帯は休む、という生活は当時の人々にとって当然のことだった。照明のない夜間に無理に労働する必要はない。むしろ夜間は人間が活動する(支配する)時間帯ではないと考えられた。こうして人々は自然の運行と自分たちの生活を合わせ、自分たちの生活にあわせて時刻を調整していたのである。
この時代、人々はどのようにして時刻を知ったのだろうか。奈良時代以降、人々は時刻を知らせる時の鐘によって時刻を知った。時の鐘には城の鐘(あるいは太鼓)、寺の鐘、町の鐘があった。それでは時の鐘を鳴らす人はどのようにして時間を知ったのだろう。
現代人は原子時計によって時間を知る。しかし明治時代まで日本では複数の自然の力を使った時計によって時間を知った。一つは日時計である。これは町中にも簡単なものがあった。正確な時刻を知るためには、太陽の影をつくり、時間を示す指針の角度を調整しなければならない。しかしいったん設置してしまえば人間がメンテナンスする必要はなく、おおよその時刻を容易に知ることができる。ただし晴れた日に屋外でしか利用できない。
もう一つは水時計である。水時計は屋内でも利用でき、天候に左右されない。季節によって水量を調整すれば不定時法の時刻にも利用できる。ただし気温や湿度によって時間は狂い、人が定期的にメンテナンスしなければならない。そのため江戸時代にはほとんど利用されていなかったと思われる。
もう一つは時香盤(香時計)である。線香やろうそくによって短い時間を測定することができる。この原理を利用したのが時香盤だ。寺では仏前に抹香と呼ばれる粉末状の香料を焚き続けている。抹香を、長さを測って図のようにまいて、特定の場所に時刻板をたてて焚く。抹香の燃えた場所と時刻板によって時刻を知ることができる。
どの時計も秒単位、分単位で正確に時刻が把握されることはなかった。そばにある寺の鐘の音と、遠くの寺の鐘の音がずれるということはしばしば生じていた。根本的に江戸と博多では六ツの時間が1時間近く異なっている。そのような時間のズレが問題になることはなかった。
後述するが、戦国時代にはヨーロッパから機械時計がもたらされており、メキシコの総督から徳川家康にランタン時計と呼ばれる旅行用のゼンマイ時計が献上されている。こうしたヨーロッパからの時計をもとに、日本の不定時法にあわせた和時計が作られ、一部の時の鐘はこの和時計を利用して鳴らされていたようである。
さて私は京都市北部に位置する岩倉という場所で小学生時代をすごした。私が通った小学校では年に2回遠足に行く。1回の遠足は学校から直接歩いて行ける範囲の場所に向かう。もう1回はバスや京福電車(現在の叡山電車)に乗って少し遠い場所に行った。その少し遠目の遠足の途中で通過する場所について「鬼が出る」という話があった。この話は都市伝説ではなく古くから京都に伝わる伝説で、全国的に知られている。貴船(きぶね)神社である。
貴船神社は1600年前に建立されたとされ、水を司る神をまつる格式の高い神社である。しかし一方で次のような話が伝えられている。『御伽草子』の話として知られているが、貴船神社の公式ホームページに分かりやすくまとめた文章が掲載されているので、少し長いが引用したい。
この物語は、室町末期に書き写されたお伽草子・『貴船の物語』を現代語訳したもの。そのあらすじは、「内裏の扇合せにふと見た女房の絵姿に恋をした中将が、鞍馬の奥の岩穴から鬼国に至り、天女にも勝るかと思われる美しい鬼の姫宮と出会う。姫の父・鬼の大王が責めるので、姫は中将を守り、命を捨てる。そののち姫は、中将の伯母の娘と生まれ変る。鬼は節分の夜に二人を襲うが、鞍馬の毘沙門の示現(霊言)で炒り豆を打って退け、さらに五節句を営んで鬼軍を追う。二人は幸せに暮らすが、やがて姫は貴船の大明神となり、中将はまろうど神となって、共に衆生を守ることになった」というもの。
この物語からみると、貴船神社は鞍馬寺より後に鎮座したことになるのだが(貴船神社は千六百年昔の反正天皇の御代に創建されたと伝えられている古社。鞍馬寺も平安期以前に開山された古寺だが、延暦十五年に貴船明神のお告げによって藤原伊勢人が堂宇を建立したと伝えられている)、それは、仏教が日本に渡来し、神仏習合して盛んになり、室町時代になると神と仏の関係を「仏が衆生を救うために、仮に日本の神々となって現われる」という、いわゆる「本地垂迹《ほんぢすいじゃく》」説が盛んに説かれた時代で、そういう時代背景の中で生れた物語だということを、まず知っていただきたい。たくさんの写本があって、内容はほぼ同じといわれている。
ここでは節分行事と五節句は、貴船神社と鞍馬寺が始まりだと興味深い説が展開されている。貴船・鞍馬は御所より丑寅(北東)の方角に当たる。丑寅は鬼門に当たり、常に悪魔がその方角より出入りすると考えられ、貴船神社も鞍馬寺も共に悪魔の侵入を防ぐ皇都の守護として皇室の尊敬を受けていた。貴船山に貴船の神が降って来られたのが丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻であったと伝えられ、また鞍馬寺が鑑禎上人によって開かれたのが寅の月の寅の日の寅の刻だといわれているのも、そのことと深いかかわりがあり、当時の貴船神社と鞍馬寺の関係もうかがい知ることができる。
このような物語があったことを知る人も、今では地元にも少ない。かつては大衆に親しまれたであろうこの物語を、このまま埋もらせておくのは勿体ない。恋物語としてのストーリーもおもしろく、また、この物語から、古くから貴船神社が「恋を祈る神社」として信仰されていたこともうかがえる。この物語が再び日の光を浴びることを期待して、現代文に書き替えた。現代文にすると味気ないと思われる箇所がずいぶんあったが、批判を恐れずに、あえて語訳を試みた。
ここに現代語訳した元になるものは、『室町時代物語大成』に納められている「貴船の物語」と「貴船の本地」(いずれも慶應義塾図書館所蔵)双方から。意味不明の箇所、つじつまの合わない箇所は、双方読み比べて、筋が通るように合体した。
貴船神社宮司 高井和大(かずひろ)記
(『貴布禰総本宮 貴船神社』ホームページより)
引用した文章の中の「丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻」というくだりが、私が小学校で聞いた「鬼が出る」という話の由来になっている。前述のように貴船神社は格式の高い、由緒正しい神社なのだが、その一方で鬼に祈願する「丑の刻参り」(うしのこくまいり、あるいは、うしのときまいり)の神社として有名である。
丑の刻参りとは、怨みたい相手をわら人形に見立て、毎晩五寸釘で神木に打ち込んで相手を怨み殺すという呪術で、この呪術は鎌倉時代にはすでに知られており、江戸時代にその方法が確定したといわれている。自分自身が鬼になってしまうような様子が、京都の子どもたちには鬼として伝わったのだと考えられる。ここで問題なのは「丑の刻」という時刻設定である。なぜ丑の刻なのか。
先の引用にあるように、丑と寅の方角(おおよそ北東)は「鬼」が入っている方角として知られ、「鬼門」と呼ばれた。同じように丑の刻あるいは寅の刻は鬼が活動する時間である。不定時法の時刻では丑の刻から寅の刻にかけての時間帯は太陽の光が届かない漆黒の闇に包まれている。この時間帯は人間の時間ではない。この鬼の時間に鬼に祈願すればきっと願いは成就する、と考えられたのだろう。丑の刻参りという行動は、丑の刻という時刻が定められたことによって行われるようになった。鬼に対して祈願するという行動が先に行われていて、その時間を丑の刻と定められたのではない。
不定時法による時刻設定は、お天道様が出ている間しか活動しない、という人間の行動をもとにして定められた。しかし暦や宗教的思想と結びつくことによって、時刻という規則が人間の行動を規定するようになる。先ほど「お天道様がのぼって働くことができる時間帯に働き、お天道様が沈んで働けない時間帯は休む、という生活は当時の人々にとって当然のことだった」と述べた。しかし丑の刻参りや日本の暦で定められた諸行事のことを考えれば、お天道様がでている間は働くことが当然と考えることは間違いかもしれない。つまり朝の六ツから夕方の六ツまでを昼間と定める、というように時刻が設定されたために、「昼間はたらくのは当然」、というように思い込まされたと考えてもよいのではないだろうか。
しかし時刻のルールに、人々の行動が完全に拘束されていたわけではない。季節によって一刻の間隔は大きく異なっていた。時刻を知らせる時の鐘が鳴らされる時間には差があり、差があることを知っても、人々はあまり気にしなかった。前章で紹介したように奈良時代から江戸時代にかけて日本の暦は改暦されていない太陰太陽暦が用いられていた。太陽暦をもとにして考えれば、暦の指し示す季節と実際の季節との間にはズレがあったはずだ。しかしそんな暦と実際の季節の差異に関わりなく、人々は季節を感じ、自分たちが感じる感覚によって生活していた。
先にあげた丑の刻参りだが、陰陽道の観点からこの呪術について考えると、鬼の力がもっとも大きくなるのは、星の位置、月の位置などの位置関係と関係した「厳密な」時刻設定が必要である。不定時法による時刻では丑の刻は季節によって変化し、さらに庶民は正確な時刻を把握することができなかった。陰陽道の観点からはでたらめな時刻であるにもかかわらず、人々は真剣に呪術を行った。
江戸時代とその前の時代の日本の人々は大雑把な時刻のなかで、まさに「自然に」生活していたのである。
3.3.日本の時刻(明治時代以降)
前章で触れたように1872年(明治5年)11月9日、今まで利用していた太陰太陽暦に基づく暦を廃し、太陽暦(グレゴリオ暦)を採用するという改暦に関する太政官布告がだされた。長い布告だが日本の暦や時刻を考える重要な資料なので全文引用する。なお日本の暦や時刻の制定は現在もこの布告に基づいている。
改暦ノ布告
太政官布告 第三百三十七号(明治五年十一月九日)
今般改暦ノ儀別紙 詔書ノ通被 仰出候条此旨相達候事
詔書写
朕惟フニ我邦通行ノ暦タル太陰ノ朔望ヲ以テ月ヲ立テ太陽ノ躔度ニ合ス故ニ二三年間必ス閏月ヲ置カサルヲ得ス置閏ノ前後時ニ季侯ノ早晩アリ終ニ推歩ノ差ヲ生スルニ至ル殊ニ中下段ニ掲ル所ノ如キハ率子妄誕無稽ニ属シ人知ノ開達ヲ妨ルモノ少シトセス盖シ太陽暦ハ太陽ノ躔度ニ従テ月ヲ立ツ日子多少ノ異アリト雖モ季候早晩ノ変ナク四歳毎ニ一日ノ閏ヲ置キ七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス之ヲ太陰暦ニ比スレハ最モ精密ニシテ其便不便モ固リ論ヲ俟タサルナリ依テ自今旧暦ヲ廃シ太陽暦ヲ用ヒ天下永世之ヲ遵行セシメン百官有司其レ斯旨ヲ体セヨ
明治五年壬申十一月九日
一
今般太陰暦ヲ廃シ太陽暦御頒行相成候ニ付来ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事
但新暦鍍板出来次第頒布候事
一
一ケ年三百六十五日十ニケ月ニ分チ四年毎ニ一日ノ閏ヲ置候事
一
時刻ノ儀是迄昼夜長短ニ随ヒ十二時ニ相分チ候処今後改テ時辰儀時刻昼夜平分二十四時ニ定メ子刻ヨリ午刻迄ニ十二時ニ分チ午前幾時ト称シ午刻ヨリ子刻迄ヲ十二時ニ分チ午後幾時ト称候事
一
時鐘ノ儀来ルー月一日ヨリ右時刻ニ可改事
但是迄時辰儀時刻ヲ何字ト唱来候処以後何時ト可称事
一
諸祭典等旧暦月日ヲ新暦月日ニ相当シ施行可致事
太陽暦 一年三百六十五日 閏年三百六十六日四年毎ニ置之
大小毎年替ル ナシ
時刻表
前文には太陽暦は旧暦のように季節のズレもなく、7000年に1日にしかズレが生じない正確な暦であるということがアピールされている。しかし厳密にはこれは正確ではない。また閏年の設置方法についても間違いがあるのだが、ともかく太陰太陽暦を廃して太陽暦に改暦し、同時に時刻についても不定時法から定時法に変える、ということが決められた。
太政官布告337号に記載された時刻の規定は、要するに昼と夜の長さに関わりなく1日を24時間に等分し、0時(子の正刻)から12時(午の正刻)を午前、12時から0時までを午後と呼ぶ、ということである。
この改暦は旧暦の1872年12月3日に開始され、この日が1873年(明治6年)1月1日となった。こうして日本でも欧米で一般的に用いられていた太陽暦が使用されることになり、人間の生活よりも太陽の運行をもとにした定時法による時刻が用いられることになる。この明治以降、現代に至る時刻と日本での人々の行動については次章で論じたい。
4.時計に基づく生活
明治政府になって大きく暦が変更された。すでに説明したように暦の管理は統治者が権威を示し、人々を統制する重要な手段である。同時にこれまでの人々の生活に合わせた時刻ではなく、欧米で利用されていた時間を均等に分割した時刻に変えられた。これも政府による統制の手段だと考えられる。この章では最初に時間を均等に分割した時刻を利用するために欠かせないアイテム、時計について考えてみたい。その後、時計に基づいて生活するということにどのような変化が生じているのかを分析したいと思う。
4.1.時計とは?
人類誕生以前から地球は公転と自転を繰り返し、人類はその速度が不変だと感じてきた。この地球の自転が1日という概念の出発点であり、「いまが1日の中のどこに位置するかを示し、また時間を測定する機械」である時計発明のきっかけである。
世界最初の時計は日時計である。世界各地で円形状に並べられた巨石が発見されている。これら巨石群の用途はおそらく暦であり、日時計であった。我々は時間を表す数値として10進法ではなく、60進法を用いている。これは約4000年前古代メソポタミア文明やエジプト文明に起源がある。経緯は不明であるが、中央アメリカの文明でも60進法が用いられていたことがわかっている。
こうして人類は文明発生とほぼ同時に日時計という時計を発明した。日時計は晴れた昼間にしか利用できない。そこで1日中時刻を知るために、様々な時計が発明されることになる。前述の水時計は古い種類の時計の一つである。さらに水時計を同じ原理による砂時計が開発された。この他、夜間には星を観察することによって星の位置関係から時刻を計算することができるようになった。
こうした時計の他に火を用いた時計もある。前述のろうそくや線香、あるいは油の減り具合から時間を計るランプ時計、香時計などである。
こうして様々な時計が発明されたが、どれも気軽に持ち歩けるような携帯できる時計ではなかった。また天候や気温、湿度などの自然の影響を受けやすい仕組みで作られていた。「正確に時を刻む」時計を作るためには、一定の速度で時間を測定する仕組みが必要だ。この仕組みを「脱進機」と呼ぶ。脱進機を最初に使った時計は8世紀中国で発明された。その後、アラビアでも同様に脱進機を利用した時計が発明されたが、脱進機が組み込まれた、現在の時計につらなる時計は14世紀ヨーロッパで発明された。
14世紀ヨーロッパではキリスト教の修道士たちが、教会に設置する時計を製造するために時計開発を行った。キリスト教会では、あらゆる自然現象は神の意志の表れであり、自然の法則を明らかにすることは神のメッセージを理解することだと考えられた。したがって太陽の運行に関連する時間の測定は、キリスト教会にとって重要な課題だった。また教会では1日に数回、礼拝が実施されて、その時間が厳密に決められていた。こうして正確な時刻を表示する時計の開発と、正確な時刻に時報の鐘が鳴ることが求められた。
こうして歯車や脱進機を利用した機械時計が開発される。後に振り子やゼンマイを利用した機械時計が発明され、新しい動力を用いた時計の精度があがっていく。振り子やゼンマイは歯車の回転を一定の速度に調整する機構で「調速機」と呼ばれる。現在は振り子よりも正確な水晶や原子の振動を利用したクォーツ時計や原子時計が一般的になっている。地球の自転に依存した調速機を利用する時計よりも、原子の振動を利用した時計のほうが精度は高い。
1961年以降、世界各国が協定を結んで決められた「協定世界時」が公式の時刻として用いられるようになっている。1972年以降はセシウム原子時計による時刻と地球の自転を観測した時間とを調整した協定世界時が標準時として用いられ、電波時計はこの標準時によって時間を調整する。協定世界時が世界各国で採用され、電波時計が一般化すれば、「時間を自分で調整することなく」、世界中の人々が「同じ時間の速度」を基準に生活する、ということになる。
4.2.時計の導入
ヨーロッパでは17世紀には個人が携帯できる懐中時計が発明されていた。もちろん自宅には時計がある。つまり欧米の人々は正確な時を刻む時計を利用して生活することに慣れていた。明治時代の開国とともにそうした欧米の人々が日本に訪れた。これらの人々は日本人の生活をみて何を感じたのか。
多くの欧米人が共通して感じたのは、日本人の行動の遅さであった。いらだちを抑えられないほど、日本人はゆっくりと行動すると述べられている。たとえば日本を訪れる外国人のために書かれた旅行書には次のように書かれている。
短気になってはいけない。外国人は陰でじろじろ見つめられたり、笑われたりするだろう。この国では物事がすぐには運んでゆかないのである。一時間そこいらは問題にならない。辞書で「すぐに」という意味の「タダイマ」は、今からクリスマスまでの間の時間を意味することもある。激しく怒っても事態は一向に改善されないのである。たとえ、読者が出立して、この場所へこの時間で到着することを綿密に計算した後に、人力車夫昼食をとるために車をとめたいことに(万一)気がついてもである。最も良いのは、最初からすべてをあきらめてしまうことである。辛抱強く待っている間に、日本人の生活を研究する機会がえられるのである。
(西本 2006:60)
この日本人の行動の遅さに対して西本は次のようにコメントしている。
日本人の動きについての「証言」は、目の当たりにしたようすを述べる当人が、それまでに暮らしていた社会のペースと大きな関係があるだろう。ほかの社会をどう見るか。それはどうしても自身の価値観のフィルターをとおしてしか観察できない。本人はほとんど意識することのないレンズ、しかもおそらく色つきのレンズを考慮しなくてはならない。
(西本 2006:64)
確かに他文化、他の社会を観察する場合、自分が所属する社会と比較することが多い。欧米社会に所属する多くの人は時計によって自分の生活を管理している。誰かと会う約束をする場合、「3時にレストランの前で」というように時間の約束をする。こうして時計によって表示される時間によって自分たちの行動を拘束する。このような欧米人から日本人をみれば、その大雑把さが目につくに違いない。欧米人のように正確な時計を利用するということは、誰もが同じ時刻を知っているということであり、「客観的な時間」を使うということである。
客観的な時間の特徴は「測定可能な時間」「皆が共有できる公共の時間」であるということだ。たとえばA地点からB地点まで1時間で行ける距離や今日は2時間作業を行った、などのように時計という尺度によって人間の行動を測定することができる。この場合時間は、一定の速度で、過去から未来へと一方向に進行しており、ある瞬間を特定できるという特性をもつ。江戸時代の庶民が用いていた時間は伸び縮みする。しかも欧米のように分や秒という単位は用いられていない。したがって日本では人間の行動を時間という尺度によって厳密に測定するとは考えなかった。測定可能な時間を用いていなければ、”Time is money”のように時間に金銭的な価値に変換することはできない。
欧米では個人単位で時計を所有し、誰もが同じ時刻と同じ速度の時間を共有している。一方、日本では特定の機関が時計を利用して、その機関ごとが把握した時刻を鐘によって知らせていた。同じ時の鐘の時報を聞くという点では、江戸時代の時刻は公共の時間ではあるが、場所によって時報がずれることもあれば、誰もが同じ時間を共有していたわけでもなかった。
このように考えると、日本では欧米の客観的な時間に対して、主観的な時間をもっていたといえる。だから欧米の人々のように時間通りに行動する、時間の約束を守る、時間を惜しむように早く行動する、などということがなかったのだ。一方、時計という客観的な時間を使っている欧米の人々は、「時間に追われる」という感覚を持っていたようで、日本人の行動の遅さを嘲笑するというよりも自戒的にとらえていた。
明治時代に変わっても江戸時代のように日本人はゆったりとした時間の流れのなかで生活していた。しかし明治政府は違った。黒船来航という海外からの圧力によって開国し、長期間にわたる幕府支配を廃し、新体制を整えようと躍起になっていた明治政府にとって、いち早く欧米先進国に追いつくことが火急の課題であった。明治政府はこの課題を解決するため様々な事業に着手し、制度改革に取り組んだ。急速な変化の影響が徐々にしかし着実に人々の生活に現れる。その変化に敏感に反応したのが作家たちである。
明治の作家の中で時間に追われる人間の行動ということに特に敏感に反応したのは夏目漱石である。夏目漱石は『行人』のなかで次のように表現する。
人間全体が幾世紀かの後に到着すべき運命を、僕は僕一人で僕一代のうちに経過しなければならないから恐ろしい。一代のうちならまだしもだが、十年間でも、一年間でも、縮めて云えば一カ月間乃至一週間でも、依然として同じ運命を経過しなければならないから恐ろしい。君は嘘かと思うかも知れないが、僕の生活のどこをどんな断片に切って見ても、たといその断片の長さが一時間だろうと三十分だろうと、それがきっと同じ運命を経過しつつあるから恐ろしい。要するに僕は人間全体の不安を、自分一人に集めて、そのまた不安を、一刻一分の短時間に煮つめた恐ろしさを経験している
(夏目 1988)
もはやこの文章の中には一刻(いっとき)という時間の単位は用いられず、とても短い時間の単位を比喩する言葉として一刻(いっこく)が用いられている。幾世紀→一代→十年間→一年間→一ヶ月間→一週間→一時間→三十分→一刻一分と時間の間隔が短くなる表現が用いられ、「僕」の切迫感の大きさが表現される。
欧米で用いられていた24時間制の定時法による時刻と同時に機械時計の導入によって日本人の生活ペースは明らかに加速していく。特に都市生活者への影響力は大きかった。都市生活者は時計によって管理されるように、「時間の厳密化」、「時間の高速化」、「時間の均質化」という変化を体験する。
仕事の開始時間、終了時間、電車の発車時刻、到着時刻は「自分で決められること」ではなく、公共の時間(時計の時間)によって厳密に決められる。厳密な時間にしたがって生活しなければ、円滑な日常生活を送ることができなくなっている。
歩行→走る→自転車→馬→車→機関車→電車→飛行機のように移動手段が自然のスピードをこえて高速化している。情報伝達についても会話や身振りなどによる直接的なコミュニケーションから物理的な距離をこえて同じ情報を複数の人に同時にいつでも発信できるようになった。
生活なの中で感じる特別な時間がなくなっている。昼間に活動して夜は休む、という生活パターンではなく、買い物にしても娯楽にしても、労働にしても24時間いつでも同じように活動できるようになった。時給という考え方は時間が均質であるということが前提になっている。もしも時間が均質でなければ、時給という考え方は生じない。
上記のような時間の特徴は全世界どこの都市でも見られる。つまり時計によって管理された社会は、時間に関する限りそれぞれの社会に特徴的な事柄や事象はなくなったということだ。しかしながらこうした時間の特徴が普及するには時間がかかる。日本においても地域や年齢層によって厳密化、高速化、均質化に相違が見られる。たとえば「○○時間」という表現がある。○○の部分に地域の名前が入る。都市部では「3時に会議」といえばきっかり3時に会議が始められるように準備しなければならない。しかし一部の地域ではこの開始時間が多少ずれても誰も気にしない場合がある。これは時間の厳密化が十分には普及せず、その地域独自の時刻が残っているということだ。こういう差異も都市の影響力の拡大や人口移動が生じれば徐々に失われていくだろう。
5.おわりに
もともと社会には社会ごとに固有の時間の流れがあった。それぞれの場所には独自の風土があり、そこで食糧を確保して子孫を残していくためには、風土に適合したペースを見つけて、そのペースの中で生きていかなければならない。うまくペースがつかめれば生活が楽になる。そして同じ場所で生活する人々はそのペースを共有して、協力して暮らすようになる。
社会に固有の時間の流れを記録し、名前をつけたものが暦であり、時刻である。暦や時刻はもともと社会に固有の時間の流れを記録しただけのものだ。しかし記録されて暦や時刻として明示化されると、それは制度になる。制度とは同じ社会に所属する人々が守るべきルールであり、人々の行動を拘束する力である。社会の規模が拡大し、周囲の社会との交流が行われ、社会が拡大するようになると、制度の内容は修正されていく。同じように特定の社会のために作成された暦や時刻は、拡大した社会に適合するように修正が加えられる。こうした修正のなかには、社会の安定や繁栄を目的とした諸行事がある。おそらくこうした諸行事の多くは人々が生活の中で行われていた行動や人々の思想がもとになっている。だから暦が作成された当時、人々はその意味を理解して、納得して行事を行っていた。しかしこの行事も新しい制度の一つであり、人々が納得するしないにかかわらず、「やらなければならない行事」として続けられるようになる。
こうした制度の特徴を利用したのがその社会を統治する権力者である。権力者たちは自分たちの権威を人々に示すために制度を利用し、暦を修正する。こうして庶民は自分たちが意識しないまま、暦によって管理されるのだ。もちろん暦は生活に密着したものであり、管理される要素だけなく、自然の周期性を示す特徴もある。しかしながら現在のように時間が均質化され、季節に関わりなく食物が供給されるようになると、暦はたんなる数字だけの集まりになり、季節感は失われてしまう。そうなると暦は「管理」という要素だけを残すことになる。
時刻についても同じである。1日の中の時刻についてもそれぞれの社会に固有の時間の流れがある。日本で長く続けられた不定時法による時刻は人々の生活にあわせて作られたものだ。そして明示化された時刻は制度となり、人々の行動を拘束する。人々は1年の中でそして1日の中で伸縮する一刻という単位で生活するようになり、ゆったりとした行動が定着した。欧米の人々の目にはこのゆったりとした行動が大雑把な行動として映った。これは伸縮する一刻という単位に合わせた行動であり、日本人にとっては自然な動きだった。
しかし明治時代になり時刻の単位が大きく変更された。この変更はいわば能の舞台にいきなりブロードウェイ・ミュージカルが乗り込んでくるようなものである。しかしこの異常に速いテンポで刻まれる時刻も制度であり、人々の行動を拘束していった。現在の我々は能のテンポを遅いと感じる。新しい制度によって行動が変えられた結果である。
このように、自分たちの社会の時間を反映させて作られた暦や時刻によって、自分たちの生活が拘束されるようになった。インターネットという情報革命によって、固有の時間の流れをもった「社会の時間」は地球規模で統合されようとしている。いったん統合されてしまえば、それが新しい制度となって我々の行動は拘束されることになる。地球を一つの大きな社会にするというこの時間の力を我々はどのように受け止めていけばいいのだろう。
<参考文献>
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一川誠、2008、『大人の時間はなぜ短いのか』集英社。
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中江克己、2001、『お江戸の意外な生活事情−衣食住から商売・教育・遊びまで』PHP研究所。
夏目漱石、1988、『行人』(夏目漱石全集7)筑摩書房(青空文庫所収)。
『日本の時刻史』(http://www.geocities.jp/afi_651/japantime.html:アクセス日:2010/12/25)。
西本郁子、2006、『時間意識の近代−「時は金なり」の社会史』法政大学出版局。
宇治谷 孟、1988、『日本書紀(下)全現代語訳』講談社 。
『和−TimeRhythm ~和時計の暮らし』(http://ammo.jp/monthly/0211/ :アクセス日:2010/11/15)。
『テーマシンキング叢書』(時間)に掲載したエッセイです。誤字脱字がありますが、それは徐々に修正していきます。
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