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純愛ブームにおける愛は我々に何を語るのか

1.はじめに

 2004年5月行定勲が監督した『世界の中心で、愛をさけぶ』(出演:大沢たかお、柴咲コウ、長澤まさみ、森山未來など)が公開された。興行収入85億円、観客動員数おおよそ620万人を記録して2004年の邦画実写映画のトップになった。原作は片山恭一による小説で小学館から2001年に発売された。発売当初は大きな話題にならなかったが、2002年に柴咲コウの推薦文が本の帯になってからは急速に売上げを伸ばし、2003年には100万部を超すベストセラーとなる。映画のヒットとともに本の売上げはさらに増え、ラジオドラマ化(2004年5月TOKYO FM)、テレビドラマ化(2004年7月~ TBSで放送)、舞台化(2005年8月~)などをへて最終的には320万部以上を売り上げている。こうした複数の媒体を横断して制作(メディアミックス)された『世界の中心で、愛をさけぶ』をめぐる現象は「セカチュー現象」と呼ばれる。
 同じ2004年10月土井裕泰が監督した『いま、会いにゆきます』(出演:竹内結子、中村獅童、竹井証など)が公開された。この作品は2004年に公開された邦画の実写映画作品として『世界の中心で、愛をさけぶ』につぐ興行収入48億円を記録した。この作品もテレビドラマ化(2005年7月~ TBS)、ドラマCD化(2008年)などのメディアミックスの手法によって作品群全体が話題をあつめ、原作小説は100万部を超えるベストセラーとなった。
 2004年、インターネットの2チャネルと呼ばれる電子掲示板サイトで話題になったストーリーが映画化される。村上正典監督の『電車男』(出演:山田孝之、中谷美紀など)である。この映画は2005年6月に公開され、おおよそ37億円の興行収入となる。映画公開直後に映画と連動する形でテレビドラマ(フジテレビで放送)として放送され、平均視聴率20%をこえるヒット作となった。上記の2作品と同様に舞台化(2005年8月~)、漫画化、ドラマCD化などのメディアミックスが行われ、「電車男ブーム」と言われる現象が生じる。
 また2004年にNHKで放送された韓国ドラマ「冬のソナタ」を中心に、韓国のテレビドラマや映画が人気を呼ぶ「韓流ブーム」が起こる。上記の3作品のブームと韓流ブームとを合わせて「純愛ブーム」と呼ばれるようになった。
 2004年前後に生じた純愛ブームは何を意味しているのか。これまでにも文学作品を中心に純愛ブームと呼ばれた現象はあった。そこで言われた「純愛」と今回の純愛ブームでの純愛に違いはあるのか。あるとすればどういう点なのか、それが本稿での議論の出発点である。
 本稿では純愛ブームにおける「愛」が意味する内容を、具体的な映画作品を通して検討していく。

2.恋

 「恋愛」という言葉が端的に示すように愛は恋とひとまとめにして語られることが多い。しかし「恋に落ちる」とは表現するが、「愛に落ちる」とは言わないし、「恋は闇」と言うが、「愛は闇」とは表現しない。愛は恋とはひとまとめにして語られるが、概念的には異なるということである。それでは両者の決定的な相違点は何か。
 周知の通り、人間には他の動物のような発情期がない。一般に多くの動物は排卵期に合わせて発情期があり、この期間に交尾を行って確実に子孫を残す。これは遺伝子に組み込まれたプログラムであり、種の保存のために選択した個々の動物による遺伝子戦略である。そのため多くの動物は名称通り発情期に発情し、交尾を行う。
 人間はこうした発情期をなくすことによって種を保存するという戦略をとった。発情期をなくしたため「発情するためのトリガー」が必要になる。そのトリガーとなったのは「セクシーさ」である。
 生殖生理学者大島清は次のように言う。

 動物に比べれば、人間の異性に対する愛情表現は常にセクシーである。そもそも人間の文化は直立歩行、手と指先の自由、言語の修得といった進化の三大徴候を獲得した私たちがつくりあげたものである。人間はその文化を築く過程で脳を巨大化させ、からだもまたセクシーに変容させたばかりか、自らのセクシー度をコントロールするようになる。
 さまざまな文化はまた、さまざまなセクシーの因子をも育てた。言葉を交わさなくても相手に伝えることのできる豊かな表情、身ぶりや手ぶり、女性に多い媚び笑いとかん高い声、豊満な乳房、脱毛した皮膚、巨大化した性器などがそれだ。それはなにもからだや身ぶりだけではない。人によっては化粧や衣装で身を飾り、そのうえ言葉でもって愛を伝える。私たち人間はいつの間にか、動物的な拘束を自らの力で超脱した。
(大島 1993:17)

人間は直立二足歩行することによって性を彷彿させる乳房、性器、そして臀部をさらけ出すことになった。これは発情期を失った人間の遺伝子が選択した種の保存戦略である。もちろん4000年以上前から一部の人間は衣服を着用するようになり、現代人の大部分は洋服を着ている。そのためセクシーさのシンボルとなりうる身体の多くの部分は見えなくなった。だからそれらに代わる文化的アイテムとしての化粧や衣装、身ぶり、表情などによってセクシー度をコントロールする。
 セクシーさがトリガーとなって人間は発情するようになった。発情期がないため排卵期が不明確で他の動物のように確実に妊娠するわけではないが、他の動物のように発情期という「時間的な限定」に縛られることなく妊娠する可能性が高くなっている。問題はこの「人間が発情している状態」である。
 ヘレン・フィッシャーは激しい恋をしている人間の脳をfMRI(functional magnetic resonance imaging、機能的磁気共鳴画像)によってスキャンした。人間の脳の細胞は活動が活発化すると活動に必要な酸素を得るためにその部位の血流量が増加する。fMRIは脳内の血流の状態を記録する装置で、血流量が増加している部位の脳細胞が活発化しているということを示す。ヘレン・フィッシャーは激しい恋をしていると自認する被験者と面接し、恋をしていることが確認できた被験者に対して実験を行った。彼女は、被験者がニュートラルな写真と恋する相手の写真を見ている時の脳内の血流量を比較し、これを分析した。
 実験の結果、脳内の尾状核(びじょうかく)の活動が活発化していることがわかった。


脳の階層構造と系統的発生

図1 脳の階層構造と系統的発生 
(http://www.geocities.jp/zizi_yama60/base/NO-kozo-kino.html)

人間の脳は進化の過程を反映した階層構造になっており(図1)、尾状核は「爬虫類の脳」と呼ばれる原始的な脳の一部と連結した大脳基底核に位置している。人間は恋をすると古い脳領域が反応するのである。

 驚きの結果だった。科学者たちは、この脳の部位がからだの動きをつかさどることはずっと前から知っていたが、この巨大エンジンが脳の「報酬システム」の一部であることに気づいたのは、ごく最近のことだった。脳の報酬システムとは、報酬を手に入れるための一般的な覚醒、よろこびの感覚、そして動機をつかさどる心のネットワークだ。つまり尾状核が、報酬を感知、認識、識別し、特定の報酬を好み、予期し、期待する手助けをしてくれるということだ。報酬を手に入れるための動機を生みだし、報酬獲得に向けた特定の活動を計画する。
(フィッシャー 2007:121)

 恋人たちは疲れを感じないような様子で徹夜して話をしたり、夜通し散歩したり、他人が理解できないような詩を書いたり、あるいは一瞬しか逢えないということがわかっているにもかかわらず、長距離運転して相手に会いに行ったりする。恋をしている人間のこうした超人的なまでの恍惚的なエネルギーが生みだされるのは、行動自体が報酬の得られる自己完結的な活動だからなのである。
 こうした結果をうけて、ヘレン・フィッシャーは次のような結論を導き出している。「恋愛感情はおもに脳内の動機システムであり、それは要するに、人間の根本的な交配衝動だと信じるにいたったのである」(フィッシャー 2007:126)。
 結論をいえば、「恋」はもともと種の保存を目的とした「発情行動」なのである。ただし脳の反応としてみれば、厳密には恋と発情とでは反応する脳の部位が異なる。図1に記載されているように、発情と密接に結びついた動物の本能としての性欲は、脳の原始的な領域である脳幹の中の視床下部に関係する。しかし大島が言うように、動物の本能を文化によってコントロールするようになった人間にとってはこの部位の差はあまり意味がない。本能を文化によってコントロールする、という点については後述する。
 このように恋はもともと人間が動物であったときの行動、つまり本能の名残としての反応である。脳の反応として生じる感情であるため、コントロールするのが難しい。だから恋に落ちる、と表現される。この点が愛とは異なる。それでは愛の特徴は何なのか。

3.愛の本質

 恋は脳の尾状核の反応としてあらわれ、性欲という衝動によって導かれる。衝動は脳の反応であるため、理性によってコントロールするのは困難である。しかしこの反応は長期間にわたって継続するわけではない。

恋人たちは一日中語り合うことも、夜明けまでダンスを楽しむこともしなくなる。狂おしいほどの情熱、恍惚感、切望、強迫観念的な思考、高まるエネルギー-そうしたものすべてが消滅する。しかし運がよければこの魔法は、安心感、心地よさ、落ち着き、そして相手との一体感といった新しい感情へと変わっていく。
(フィッシャー 2007:145)

恋する期間が長くなると、反応する脳の部位が変化する。恋で反応していた尾状核よりも外側の大脳旧皮質に隣接する大脳周縁系に近い前帯状皮質や島皮質が反応するようになる(フィッシャー 2007:124)。脳は外側に向かうほど新しく形成された領域になり、人間の意志や理性と関係する領域になっていく。つまり恋は人間がコントロールできない衝動から、人間がコントロールできる意志や理性に関係する「もの」に変化していくということである。
 ここで別の側面から愛について考えてみたい。日本では原則的に一夫一婦制が結婚形態として定着してきた。文化人類学の知見によれば一夫多妻制や一妻多夫制、多夫多妻制なども発見されている。だが世界的にみても一夫一婦制をとっている社会が圧倒的に多い。そして一夫一婦制では、離婚してお互いのパートナーを入れ替えることはあるが、基本的には結婚する際、お互いに相手を一生の伴侶と考えている。


図2 同居期間別にみた離婚の構成割合の年次推移
(厚生労働省平成21年度「離婚に関する統計」データをもとに作成
 http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/tokusyu/rikon10/index.html)

 図2はその年に離婚した夫婦が離婚までに何年間同居していたのかという構成比を時系列で表示したものである。この図によれば、統計をとりはじめた1950年から1985年にかけて5年未満の同居を経て離婚した夫婦の割合は減少している。その傾向と比例するように同居20年以上の夫婦が離婚する割合が増える。いわゆる熟年離婚であるが、減少したとはいえ、結婚して5年未満の離婚は少なくない。同じことを示す別のデータがある。

 しかしこうした原始的な一夫一婦制を永続させる必要性は見えてこない。世界中の離婚が許されている地域で(そして経済的に離婚が可能な場合)、多くの人が離婚している。彼らに、なぜ関係を絶とうとするのかをたずねてみれば、それぞれちがう理由をあげるだろう。それでも、人間が別れる際にはいくつかのパターンがある—そしてその青写真のなかには、人類発生のときから進化してきたように見えるものがある。
 わたしがこの結論に達したのは、国連が発行する人口統計年鑑に記録された、58の地域おける離婚データを集計していたときだった。そこから、人間の別離にかんする驚くような世界的パターンがいくつか浮き彫りになったのだ。もちろん、例外はいくつもある。しかし概して、世界中の離婚した夫婦は、結婚してから4年目あたりで別れる傾向にある。
(フィッシャー 2007:210)

 日本だけでなく一夫一婦制を維持している多くの国でも、離婚した夫婦は結婚してから(同居してから)5年未満で離婚しているの。この期間に何か意味があるのだろうか。
 恋をしている人間の脳においては、尾状核が強く反応していると述べた。そして恋する期間が長くなると反応する領域が脳の外側へと移動していく。この脳の反応と離婚とが関係しているように思われる。

最近、ある神経科学者の研究グループが、恋愛感情は通常12ヶ月から18ヶ月続くという結論を出した。私たちがおこなった脳の研究では、少なくとも17ヶ月はつづくことが判明している。とはいえ、恋愛期間は人によって大きく異なるはずだ。そこにはそれぞれの性格がかかわっているのだから。たいていの人が、だれかにほんの数日から数週間だけ熱を上げた経験を持っている。それに前述したように、ふたりの関係になにか障害があれば、恋の炎が何年も燃えさかることもある。逆境が恋心を刺激するからだ。
(フィッシャー 2007:55)

 尾状核の反応には個人差はあるが、おそらく断続的におおよそ18ヶ月ほど続く。『三年目の浮気』という歌があったが、脳の反応としてはよくある現象だといえよう。前述したように尾状核は「報酬システム」に関わる領域である。つまり恋をすると、脳の反応としてはそれ自体で報酬を得ることになる。脳は理想的な相手に遭遇すると尾状核を活発化して「恋に落ち」、恋に落ちている間、恋をしていることによって快楽、心地よさ、あるいは酩酊感を感じているのである。「恋に酔う」「恋に恋をする」という表現があるが、まさに脳はそうした状態に維持される。脳が酩酊している間は、お互いに相手と良好な関係を継続し、より深く交流しようとする。
 尾状核の反応がおさまると、人間は酩酊状態から覚醒して冷静になり、相手との関係を見直すことになる。いわゆる「飽きて」しまうのである。動物には「オンドリ効果」と呼ばれる現象が見られる。

 オンドリはとても精力的で、一度に60回以上もメンドリと交尾する。ただし同じメンドリとは、1日に5回までが限度である。6回目になると急に興味をなくして「役に立たなく」なる。そこで新しいメンドリを連れてくると、たちまち元気を取りもどしてのしかかる。これを「オンドリ効果」と呼ぶ。
 オス牛の場合、同じメス牛との交尾は7回が限度だが、ここでも別のメス牛を連れてくれば復活する。それを10回繰りかえしても、オス牛は立派にお務めをはたすことができる。
 ヒツジでは、同じメスと5回以上できるものの、やはり相手が変わった方が熱心になる。最初のメスに他のメスのにおいをつけたり、頭に袋をかぶせて偽装しても、オスはだまされてくれない。これは精子をなるべく広範囲に撒き、受精率を高めて種を保存しようとするオスの本能である。
(ピーズ 2002:271)

尾状核の反応が持続する期間は妊娠してから出産し、その子どもがある程度成長する期間と一致する。妊娠、出産、育児という期間の間は恋の季節が継続して、一連の活動を協力して行う。この期間が終了すると、相手を変えようとするのである。つがいを形成する多くの動物はこのように妊娠、出産、育児という一定期間の結婚生活をおえると、新しい結婚相手を探し求めるようになる。恋にかかわる尾状核は、前述のようにという人間の脳の中でもより原始的な領域にあたる。だから恋については人間も他の動物と同じように、オンドリ効果のような本能的な反応を示すのである。
 さて離婚する夫婦が増えているとはいえ、多くの夫婦は3年を過ぎても結婚生活を継続し、2人目、3人目の子どもを育てている。恋が終わった後も関係を続けようとする「働き」が促しているのが「愛」である。これは人間が動物だったときの名残ではなく、きわめて理性的で文化的な営みだと考えてよいだろう。

4.人間の本能についての立場

 ここまでの議論で私は特に人間の本能や文化という概念を定義しないまま使ってきた。本能という用語は科学用語としては現在ほとんど用いられることはない。しかし一般用語としては現在でも頻繁に用いられ、また本稿での議論ではこの概念を使ったほうがわかりやすくなることがあるため、あえて使用した。曖昧な意味のまま利用すると、誤解されることが多いため、ここで人間の本能と文化についての私の立場について明らかにしておきたい。
 本能とは「遺伝的にプログラム化され、生得的に決められた反応」と定義できる。大部分の動物は本能に従って行動する。たとえば求愛行動から交尾にいたる生殖行動は本能に従って行われている。こうした本能に基づく行動パターンを変えることはできない。
 本稿で何度か用いている「性欲」は本能の一つだと考えられている。実際、性欲は異性のセクシーさに刺激された脳の反応であり、理性によってコントロールすることができない衝動である。つまりこの衝動の発生を人間は変えることができない。そういう意味では人間に本能は存在する。
 他の動物と人間の違いは、発生した衝動つまり本能を「文化」に置換してしまったことである。文化とは「人間が創造し、あるいはコントロールする、一定の社会に共通する行動パターン」と定義できる。生得的な反応としての本能を文化に置換することによって人間は人間になったといえるのかもしれない。
 人間も他の動物と同様に異性のセクシーさに反応して性欲が発生する。人間以外の大部分の動物はこの欲求が発生すると交尾するまで、この欲求に基づく行動を止めることはできない。もし人間が本能をコントロールできなければ、欲求が発生したらそのまま性行動にうつるはずである。しかし多くの人間は欲求が発生してもその欲求に従って行動することはなく、タイミングをはかり、その行動が許可されるかどうかを検討する。多くの人間がそのようなコントロールされた行動をするということは、それが文化になっているということを示している。
 性欲は人間の三大本能と呼ばれる欲求の一つであり、いわば種の保存に関わる重要な欲求である。この原初的な欲求を人間は文化にしてしまった。たとえば娼婦は性欲をみたすための人類最古の経済活動だといわれる。現在で言う性風俗であるが、人間社会は性欲を性風俗という文化にしてコントロールしてきた。経済活動しての性欲だけではない。一般の男女が性欲を満たす場合でも「一連の手続き」が必要だとされる。
 都市部のホテルは、クリスマスイブには満室になると言われる。これは男女が待ち合わせをして食事をし、イベントに参加し、夜景をみて、会話を交わし、といったテレビドラマでみるような一連の手続きの一つにホテルというパーツがあるからである。一連の手続きをへてはじめて性欲を満たすことになる。こうした一連の行動パターンは多くの人間に共有されているため、文化として捉えることができる。
 食欲にしても同じことがいえる。食欲は生理的欲求であり、人間の意識とは無関係に生じる。動物の場合はこの欲求を満たすためにすぐに食糧を探して、摂食可能な食物を食べる。しかし人間の場合は食糧を料理したり、食器に盛りつけたり、食料を吟味したり、食事の作法にしたがって食べたりする。時には食べない、という行動や食べたものを吐き出したりする場合もある。
 このように人間は本能を文化に変えた。恋は本能に近い反応ではあるが、文化にコントロールされている。愛は恋のように生理的欲求とはかかわりなく、人間が創造した文化だ。次節では『世界の中心で、愛をさけぶ』を参照しながら愛について考えたい。

5.『世界の中心で、愛をさけぶ』

 冒頭で述べたように『世界の中心で、愛をさけぶ』は純愛ブームのきっかけになった作品であり、多くの読者や映画の観客はこの作品には純愛が描かれていると考えた。だからこの作品に描かれた愛について考察することは多くの人が考える純愛について考えることになる。
 映画『世界の中心で、愛をさけぶ』は原作小説のストーリーの枠組みを踏襲しながらも、舞台設定や細かい設定が大きくへん変更され、純愛が強調された作品になっている。
 『世界の中心で、愛をさけぶ』には、文化祭で『ロミオとジュリエット』をやることになるというシーンがある。また登場人物の一人亜紀のセリフに「私たち、ロミオとジュリエットみたいだね」という言葉がある。それはこの作品が『ロミオとジュリエット』を基本的な枠組みとして用いていることを示している。


図3 『世界の中心で、愛をさけぶ』の物語の枠組み

 図3は『世界の中心で、愛をさけぶ』の物語の枠組みを図式化したものである。これは『世界の中心で、愛をさけぶ』だけの独自の枠組みではない。『ロミオとジュリエット』をモチーフとして、女性が白血病で先に死ぬという設定の作品の多くがこの枠組みを採用している。たとえば次のような作品である。

アーサー・ヒラー監督『ある愛の詩』(原題”Love Story”)1970年公開
アダム・シャンクマン監督『ウォーク・トゥ・リメンバー』2002年公開
陣内孝則監督『スマイル 聖夜の奇跡』2007年公開

 さて『世界の中心で、愛をさけぶ』では朔太郎と亜紀のカップルだけの愛が語られているわけではない。もう1組、重要なカップルの愛が語られる。重蔵(劇中のニックネームは重じい)と朔太郎たちの高校の校長との愛である。
 第二次世界大戦中に重蔵は校長に出会い、恋に落ちる。映画では朔太郎と重蔵との二人のセリフによって重蔵の恋のことが説明される。

朔太郎 「重じい、知ってたの?校長先生のこと。」
重蔵  「あれは初恋の女だ。」
「戦争が終わって生き残った。こっちは裸一貫。
 親兄弟も死んでしまった、すってんてんの無一文だ。
 彼女をもらいにいくために、むちゃくちゃ働いた。
 人殺し以外、なんでもやったかな。
 それでもまぁ、格好はついたんだ。だけど。
 そん時はもう、親の決めた男と結婚していた。
 時代だ。そういう時代だったんだ。」

重蔵のこの言葉を聞いた朔太郎、そして朔太郎からその話を聞いた亜紀はこれが重蔵の片思いであると結論づける。原作小説では重蔵の恋は次のように説明される。

いまなら結核なんて、すぐに治ってしまうが、当時は栄養のあるものを食べて、空気のいいところでじっと寝ているしかなかった。そのころの女というものは、よほど丈夫じゃないと、結婚生活には耐えられないとされたもんだ。電化製品なんてもののない時代だからね。炊事も洗濯も、いまでは考えられないくらい大変な重労働だった。おまけにわしは当時の若者たちの例にもれず、自分の命をお国のために捧げるつもりだった。お互いに好き合っていても、とても結婚はできない。それは二人ともわかっていた。困難な時代だったのだよ。・・・中略・・・わしは軍隊にとられて、何年間も兵営生活を余儀なくされた。・・・中略・・・二度と生きて会えるとは思わなかったよ。兵隊に行っているあいだに、その人は死んでしまうだろう思っていたし、自分が生きて帰れるとも思わなかった。だから別れる間際に、せめてあの世で一緒になろうと誓い合ったんだ・・・中略・・・ところが運命というのは皮肉なもので、戦争が終わってみると、二人とも生き延びていた。未来がないと思えるときには、妙に潔くなれるものだが、命ある身と思えば、また欲が出てくる。わしはどうしても、その人と一緒になりたかった。だから金を作ろうと思った。金さえあれば、結核であろうがなんだろうが、その人を引き取って養うことができるからな・・・中略・・・東京はほとんどが焦土だったよ・・・中略・・・食糧事情は最悪で、インフレも凄まじかった。無法状態に近いなか、みんな栄養失調と紙一重のところで、殺気だった目をして生きていた。わしもなんとか金を作ろうと必死だった。恥知らずなこともたくさんした。人を殺したことはないが、それ以外ならほとんどのことはやった。わしがそうやってあくせく働いている間に、結核の特効薬が開発されてしまったんだ。・・・中略・・・いまの感覚からすると馬鹿げたことに思えるだろうが、子供はなかなか親に逆らえない時代だった。まして若い頃からずっと病気がちで、親のやっかいになってきた旧家の娘となれば、親のあてがう相手を拒んで、別の男と一緒なりたいなんてことは、とても言えなかっただろう
(片岡恭一 2001:28-30)

 上記の引用は朔太郎の祖父の告白である。映画では朔太郎の祖父ではなく朔太郎が仲良くしている写真館の主人という設定に変更されている。恋にしても原作では片思いではなく、両思いに変更された。両思いに変更されることによって、朔太郎と亜紀は恋についてさらに愛について真剣に議論することになる。
 文化祭で『ロミオとジュリエット』をやることが決定し、さらに選挙で決まり、ジュリエットを亜紀が演じることになる。放課後、朔太郎と亜紀は丘の上の公園のブランコに座りながら会話している。

亜紀 「目覚めた時のジュリエットの気持ちって、どんなんだったんだろう。
 好きな人が先にいなくなる気持ち。」
朔太郎 「重じいにきいてみたらいいよ。
 ここだけの話。写真館の重じいの初恋の人って、
 校長先生だったんだって。」
亜紀 「嘘!」
朔太郎 「本当は結ばれるはずだったんだけど、戦争という時代に邪魔されて、
 結ばれなかった。
 でも片思いなんだけどね、結局。
 その想いが今でも続いているっていうんだから。
 50年っていったら半世紀だよ。
 100年の半分も一人の人のことを思っていられるなんて
 信じられないよ。」
亜紀 「素敵じゃない!」

二人は校長の位牌を墓から盗んできて重蔵に渡すことになる。墓から校長の位牌を盗み出した時、二人は次のような会話をする。

亜紀 「こういうのはこういうので、永遠の恋が実ったってことかも。」
朔太郎 「でも、死んじゃったらおしまいだよ。」
亜紀 「聞いてみる?」
朔太郎 「何が?」
亜紀 「人は死んじゃったら愛も死んじゃうんですかって。」

 映画における朔太郎や亜紀の感覚では、恋に落ちても、告白してつきあわなければ両思いとは認識されない。ただし片思いの恋であっても、その思いが長く続くと愛だと捉えられる。この場合、愛の対象が死んでいても生きていてもおそらく関係ない。ここで重要なことは、何らかの形で愛を成就するということである。重蔵の場合は、骨になって一緒の墓に入るということ、つまりそれはあの世で一緒になるということだが、それが愛の成就ということにあたる。
 前述のように映画では重蔵は朔太郎の祖父ではない。劇中、重蔵の家族は一人も登場せず、社会人になって働き出した朔太郎が故郷に戻ったときにも重蔵は一人である。原作では相手の好調だけでなく、祖父も結婚したという設定になっているが、映画では重蔵は独身を貫いているように描かれる。
 たとえ相手と結ばれなくても、相手が結婚しても、そして相手が死んでしまっても、他の誰かを思うのではなく、相手のことだけを一途に慕い続ける思いをこの映画では「純愛」と考えているのである。そして観客もこれを「純愛」だととらえる。それでは朔太郎はどうか?

6.朔太郎の愛

 『世界の中心で、愛をさけぶ』の原作では、亜紀が死んでから4ヶ月後、まだ朔太郎が高校生の時、亜紀の両親とオーストラリアに亜紀の遺灰をまきに行くシーンから話が始まる。続いて朔太郎が亜紀と初めて会ったときから亜紀が死んでしまうまでの過去を回想する。そして冒頭の時間に戻り、最後にどれくらいの期間が経過したかはわからないが、新しい彼女と故郷を訪れ、亜紀の遺灰をまくシーンで終わる(図4)。


図4 原作『世界の中心で、愛をさけぶ』の構造

 映画ではこの構造が大きく変更されている(図5)。

図5 映画『世界の中心で、愛をさけぶ』の構造

映画では高校卒業後10年以上の時間が経過している。婚約者律子が引っ越し前夜になぜか朔太郎の故郷である高松にいることを知り、急いで高松に移動する。現在の高松の海岸を走るシーンがそのまま過去への回想へとつながっていく。一般的な物語の構造としてはこのまま過去の出来事が描写され、最後に現在に戻ってきて伏線が回収されるという形になる。しかし映画『世界の中心で、愛をさけぶ』では現在の時間も経過しており、過去の描写の途中で現在の朔太郎の様子が挿入される。そして現在の朔太郎が過去に録音されたテープを聴いて、過去の出来事が描かれる。このパターンが繰り返され、現在と過去との行き来の間隔が短くなり、現在朔太郎がテープを聴いている場所とそのテープに録音された出来事の場所が一致し、最終的に現在に収束する。
 テープというアイテムが現在と過去を結ぶという構造に変更されることによって、過去の朔太郎の思いや葛藤が現在も生き続けていることが強調されることになる。さらに原作には登場しない律子を登場させることで、朔太郎の思いや葛藤が表出することになった。物語が動くきっかけは、朔太郎に届くはずだった亜紀の最後のテープである。この最後のテープは律子がもっていた。
 10年以上たっても持ち続けていた朔太郎の思いとは何か。亜紀の最後のテープには次のような言葉が録音されていた。

あのね、私たちもう会わないほうがいいと思うの。あなたと過ごした、永遠の、何分の一かの時間が私の生涯の宝物です。あなたがいてくれて幸せだった。

いいよね。私たちは今日でお別れ。あなたが大人になって、結婚して、仕事をして、未来を生き続けることを想像しながら、今夜は眠ります。

目を閉じると、やっぱりあなたの顔が忘れられない。思い出すのは、焼きそばパンを頬張った大きな口。顔をくしゃくしゃに崩して笑う笑顔。ムキになってふくれるけど、すぐに振り返って笑ってくれたときの優しさ。夢島でのあなたの寝顔。
今もすぐ目の前にあって触れていたいよ。
バイクに乗せてくれたときの、あなたの背中のぬくもりが一番大切だった。あなたとのたくさんの思い出が、私の人生を輝かせてくれた。忘れないよ。あなたと過ごした大切な時間。
最後に一つだけお願いがあります。私の灰をウルルの風の中に蒔いて欲しいの。そしてあなたはあなたの今を生きて。あなたに会えてよかった。バイバイ。

亜紀の最後のテープを朔太郎は聴いていない。しかしその思いは届いていた。律子をさがして重蔵の写真館についた朔太郎は重蔵に告白して号泣する。

重じい、俺ひどい男なんだ。俺さ亜紀の死からずっと逃げてきた。忘れられないんだよ。重じい。どうすればいいかわからないんだよ。

先に死ぬ人間は自分が忘れられることを怖がり、しかし同時に残された人間を自分が縛ってしまうことを恐れる。残された人間は忘れられないことに苦しむ。朔太郎は忘れられないことが亜紀の意志に反することを知っていた。号泣する朔太郎に向かって、愛した人間に残された人間である重蔵は語る。

人が死ぬっていうのはえらいこった。思い出や、面影、楽しかった時間はシミのように残る。天国っていうのは生き残った人間が発明したもんだ。そこにあの人がいる。いつかまたきっと会える。そう思いてーんだ。これ、お前に渡してくれって頼まれた。
俺なんかお前、いまだにこの世に未練があって未練引きずりながら生き残ってる。
残された者にできるのは、後片付けだけだよ、朔太郎

 セクシーな相手を見て反応するのが恋だが、実際に相手がいなくても思い出すことができれば恋はできる。しかしそれは相手と「何らかの形で結ばれる可能性がある」ということが前提になっている。朔太郎の場合、永遠に亜紀と結ばれることはない。それでも亜紀のことを「思い続ける」ことが朔太郎の愛なのである。
 重蔵の場合、戦後二人とも生き残ったため、二人が結ばれる可能性は残されている。だから重蔵の愛は校長が死んだ後にホンモノであるのかどうか試されたのである。

7.純愛

 恋は本来性欲へと展開される脳の反応であり、その反応自体が生理的な快楽へと結びついている。したがって恋によって突き動かされる行動には主要な目的として性行動がある。もちろん必ずしも性行動にいたる訳ではないが、衝動としては性行動が目的になる。
 愛は脳の反応ではなく、その人間が理性的に判断し、思考した結果としての一つの「思い」である。思い込みと言い換えてもよい。『世界の中心で、愛をさけぶ』で見たように、相手との「一緒にいること」あるいは「一緒にいると感じること」が自分にとって「幸せ」なのだという「思い込み」が愛の本質である。
 実際に会話したり、現実に肉体的に接触したりすることはあまり重要ではない。むしろ実際に接触できなくても、一人の相手のことを長期間愛していると思い込み続けているかどうかが重要である。一般的な言葉で表現すれば、「一人の人間だけを一途に思い続けていること」ということになるだろう。そしてこれを多くの人は「純愛」と考えた。
 純愛をテーマにした作品の大部分が、一人が死んで一人が生き残るように描かれるのは、生き残った人間の思いが純愛なのかどうかを示すためである。愛する相手が死んでもなおその相手だけを思い続けている場合、それは純愛と捉えられる。
 『世界の中心で、愛をさけぶ』と同じ物語の枠組みをもつ作品の例としてあげた3作品について簡単に見ておきたい。『ある愛の詩』ではジェニファー(妻)が白血病で先に死にオリバー(夫)が残される。この作品ではジェニファーが亡くなった直後のオリバーしか登場しないため、純愛かどうかを確かめることはできない。
 『ウォーク・トゥ・リメンバー』は高校生のジェイミー(妻)が白血病で亡くなり、高校生のランドン(夫)が残される。この作品ではランドンはジェイミーが亡くなった後も彼女のことを思い続け、5年後に医学生になっていることが描かれている。
 邦画『スマイル』は昌也(小学6年生)が残され、彼が思いを寄せる礼奈(小学6年生)は白血病で亡くなってしまう。昌也は20年たった今も彼女のことを思い続けていた。この作品の枠組みは『ロミオとジュリエット』だが、モチーフは『小さな恋のメロディ』(ワリス・フセイン監督、1971年公開)である。
 『ロミオとジュリエット』をモチーフにして純愛をテーマに制作された映画作品のすべてが、女性が先に白血病で亡くなり、男性が残されている。男性が残されるという点では『いま、会いにゆきます』もこのパターンにあてはまるかもしれない。
 『いま、会いにゆきます』では死因は不明だが澪がなくなり、巧が残され、一人で子どもを育てている。この作品では子どもが生まれているので、純愛と捉えられない側面があるが、妻が亡くなったあと18年、彼女だけを思い続けているという点では純愛と考えてよいだろう。
 純愛を表現するのに男性が残り、女性が先に死んでしまうのはなぜだろうか? その理由は、おそらく一般の人がもっている、男性と女性に対する愛に対するイメージが影響しているのだろうと思われる。
 一つは男性が残された方が「悲哀」が強調され、その哀しさによって相手に対する愛の深さが表現できるからであろう。これを証明するデータがある。フランスの社会学者エミール・デュルケームは著書『自殺論』のなかで、19世紀のヨーロッパの統計資料をもとに離婚あるいは死別によりやもめになった男女の自殺率を比較し、男やもめのほうが女やもめのほうが自殺率が高いことを確認している。この傾向は現在の日本にもあてはまる。厚生労働省が行った調査報告書によれば、「配偶者と離別した無職者の自殺死亡率は多くの年齢階級で最も高く、35歳から54歳までの年齢階級では、離別した男性無職者の自殺死亡率は有配偶の男性有職者の約20倍となっており、地域から孤立している方へのアプローチ手段の充実が必要である」(厚生労働省 2011:3)。デュルケームが指摘したとおり、女性は男性よりも他者との関係性を保っており、男性よりも孤立感を感じにくい。男性の場合、配偶者が亡くなると関係性をもつ相手がいなくなり、より強く孤立感を感じる。
 この孤立感が、死別した相手に対する「一途さ」と、哀しさを強調することになる。前述のように、純愛をテーマにした小説や映画作品の大部分が、女性を先に死亡するように設定するのはそのためである。実際、男性が先に死亡した作品では女性は孤立感や悲哀よりも一人でも生きているという強さを描いている。
永田琴監督『Little DJ-小さな恋の物語』(デスペラート配給、2007年公開)は、病院で出会った中学生男女の愛を描いた作品である。主人公高野太郎(中学1年生)は白血病のため病院に入院しているが、病院での放送システムを使ってDJをしている。この病院に怪我のために入院してきた海乃たまき(中学2年生)との間に恋が芽生える。二人の仲は深まっていくが、太郎は白血病のため死亡してしまう。29歳になったたまきはラジオ局のプロデューサーになって、太郎の自宅をたずねる。たまきは太郎のことを思い続けているが、その思いをポジティブな力に変えているのである。
このように、男性が残るのは悲哀のために純愛が強調されるからである。もう1つ、男性が残るのは一般に男性のほうが女性よりも性欲が強いと考えられているからである。ここでは端的に説明したい。
周知の通り種として人間に近いとされるサルの多くは一夫多妻制の社会を形成している。発情期にボス猿は多くのメス猿と交尾し、自分の子孫を残そうとする。この様子からオスはメスよりも性欲が旺盛だと捉えられ、それは人間も同じなのだと考えてきた。ここでいう性欲というのは単一の対象にたいしての欲求ではなく、多くの対象に対して性欲を抱くということを意味する。換言すれば恋多き男ということになる。
そういう性欲旺盛な男性が一途に同じ女性を愛し続けているのだ、ということを強調することによって純愛を浮かび上がらせるのである。

8.まとめ

 映画作品を通して多くの人に共通する純愛について検討してきた。2004年頃、人間の反応として生じる恋とは一線を画した愛、しかも相手を現実の世界で触れることができる、できないにかかわらず一人の相手だけを思い続ける純愛がブームになった。それまでに描かれた純愛との違いは恋という欲求を愛のなかに含み混ませるのかどうか、という点にあった。恋とは一線を画した純愛がどうしてこの頃に、いやこの頃からブームになったのか?
 実は2004年頃の純愛ブームはその他の社会現象とリンクした形で生じている。たとえば1990年代に入って話題になったセックスレス夫婦だが、2000年代になってから増加し、それが夫婦だけではなく結婚していないカップルにも広がっていった。セックスレスだから恋していない、あるいは性欲がない、ということを示しているわけではない。しかし一般にカップル間におけるそうした欲求や感情がそれまでのカップルよりは薄れていることは明らかである。
 あるいは2009年流行語大賞トップテンにランクインした草食男子という言葉は、それまでは性欲旺盛だと考えてられてきた若い男性があまり性行動に関心をもたないということを表面化した。この言葉は2009年の流行語になっているが、2006年に命名されたと言われることから2006年以前にはそうした傾向が見られたということになる。
 1980年代から目立たない形で展開されていた「やおい」は、現実の世界での愛ではなく、漫画や小説などで展開される愛を好む腐女子や夢女子として2000年代になって急増し、2006年頃からマスメディアで取り上げられるようになった。
 こうしたコンテンツの変化だけではない。コミュニケーションツールの変化も純愛ブームと関係している。夢女子が自分たちの作品を発表するのはWebページである。Webという技術がなければ夢女子の世界は生まれなかった。純愛ブームの火付け役の一つである『電車男』はインターネット上の2チャンネルと呼ばれる電子掲示板で生まれた。こうした流れはSNSと呼ばれる仕組みへと展開される。2004年日本で最初のSNSであるmixiのサービスが始まった。mixiは当初既存の会員から誘われなければ会員になれないサービスであったが、そういうシステムであるにもかかわらず、2005年には会員数が100万人をこえ、2006年には300万人をこえる。Twitterの日本でのサービスは2010年、facebookの日本でのサービスは2008年に開始された。
 2004年頃に展開された純愛ブームはこうした多様な現象とリンクしている。そこに共通するのは「現実世界での物理的接触を前提としない」ということである。SNSの多くは実際に知っている人間同士のコミュニケーションが中心であるが、実際に会ったことがない友人との関係も形成されている。SNS以上にこうした傾向が強くみられるのはネットゲームの世界であろう。いわゆるチャットができるネットゲームの世界では、現実の世界での友人関係以上に深い友情が築かれている場合がある。
 2000年代にはいり、社会には物理的な身体に限定されず、純粋に「精神的な」交わりを重視する人間が登場し始めた。純愛ブームが示す「純愛」では、これまでの純愛ブームでは避けられなかった物理的な身体を超越し、精神的な愛が求められたのである。
 現実の世界には、達者な話芸、表情、態度といったコミュニケーションスキルを使って異性とつきあうことができる人間がいる。こうした人間から見れば、映画版にしてもドラマ版にしても『電車男』に登場する電車男のエルメスとやりとり光景は、もはや「あきれはてた」レベルに感じられるだろう。しかし電車男が2チャンネルで入力する文章はエルメスに対する純粋な思いであふれている。腐女子たちが描く作品は、一般的には理解できない内容であろう。しかし私はそこに彼女たちの純粋な愛を感じる。
 2004年頃に展開された純愛ブームでの純愛は、誰がなんと言おうと、純粋に精神的なレベルで展開される愛なのである。

<参考文献>
いま、会いにゆきますファンサイト(http://www.alived.com/ima/:アクセス日2013年12月15日)
大島清、1993、『ヒトはなぜヒトを愛するのか-男と女の不思議な科学』PHP文庫
片山恭一、2001、『世界の中心で、愛をさけぶ』小学館
厚生労働省自殺・うつ病等対策プロジェクトチーム、2011、『誰もが安心して生きられる、温かい社会づくりを目指して-厚生労働省における自殺・うつ病等への対策』
(http://www.mhlw.go.jp/bunya/shougaihoken/jisatsu/dl/torimatome_2_1.pdf)
自殺予防総合対策センター(http://ikiru.ncnp.go.jp/ikiru-hp/genjo/toukei/index2.html:アクセス日2013年12月15日)
世界の中心で、愛をさけぶ ドラマ・小説・映画ファンサイト(http://www.alived.com/ai/:アクセス日2013年12月15日)
総務省統計局(http://www.stat.go.jp/data/chouki/02.htmアクセス日:2014年1月7日)
名部圭一、2007、「流動化する愛-電車男はなぜ『告白』しなければならなかったのか」(小川伸彦編著『現代文化の社会学入門-テーマと出会う、問いを深める』)ミネルヴァ書房
日本映画製作者連盟(http://www.eiren.org/toukei/img/eiren_kosyu/data_2004.pdf:2013年12月10日アクセス)
H.YAMANEのホームページ(http://www.geocities.jp/zizi_yama60/:アクセス日2013年12月15日)
フィッシャー、ヘレン著、大野晶子訳、2007、『人はなぜ恋に落ちるのか?-恋と愛情と性欲の脳科学』ヴィレッジブックス
ピーズ、アラン、バーバラ、アラン著、藤井留美訳、2002、『話を聞かない男、地図が読めない女』主婦の友社
行定勲監督、2004、『世界の中心で、愛をさけぶ』東宝映画


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