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大人のルール、子どもの本能

ここ数年、「子どもの文化」に興味がある。というか、もはやもう一度子どもになりたい。もう少し正確に言うと、子どものように、大人の世界を生きていきたい。

・・・いきなりアホ丸出しな入り方をしてしまったけれど、「子どもになりたい」ってのは、ここ数年抱いている本音なのです。なんていうか、あらゆる”大人的なこと”に疲れてしまった自分がいる。いや、「疲れた」とか書くとネガティブだな。”子ども的なこと”や”子どもの日々の営み(文化)”の方が、人間として本質的なんじゃないか?って思い始めている、って感じ。

あの「バルサ」に”子ども的なこと”に関連する大好きなエピソードがある。バルサことFCバルセロナは、徹底的にボールを保持して相手を翻弄するプレ―スタイルで有名なサッカークラブだ。調子の良いときはほとんど相手をボールに触れさせないまま、あれよあれよという間にゴールを奪うのだが、ひと口にサッカーと言ってもいろいろなスタイルがある中で、”なぜ”こんなスタイルを志向しているのか? それには非常にシンプルな理由があるそうで。

「初めてサッカーボールに触れた子どもは、ボールを誰にも渡さずに、ゴールにシュートしたい。その気持ちを最優先してチームを作っているから」

だそうです。どうですかこれ。そりゃそうだろって感じですかね。僕はこれを聞いた時、めちゃくちゃ感動してしまいました。バルサの複雑で世界一美しいポゼッションサッカーの原点は、素直な子どもの本能だったんだ!って。確かに、「しっかり守ってカウンターでスピーディに点取ってやるゾ!」なんて考える子どもいないもんね。サッカーの本質をとらえていると思った。もちろん、だからこそ誰もが一度は目指す道だし、高い技術が要求されて難しいのだけど、そこから逃げないという。

こういう「素直で・噓偽りない・シンプルな気持ち」だけを、無限の時間を使ってじっくり突き詰められたら、何でも最高なんだけど。大人の世界にはそれまでの経緯とか、人間関係とか、時間の制限とか、自分の能力との相性とか、いろいろありすぎる。

今日、2歳の娘を連れて、ちょっとした買い出しに出たんです。最寄りの小さいスーパーまでだから、本来であれば片道5分で着く道のり。だったんだけど、まあ時間がかかる。子どもは意味不明に時間を使う。

工事現場のショベルカーが見たいから止まる。これはまだ理解できる。でも、傘を開いたり閉じたりカシカシするために止まる(雨降ってないのに)。直立して斜め上をぼんやり眺めるために止まる。壁に突然寄っかかって立ったまま眠るために止まる。「おしまい」と自分で言ったのに、家の直前でさっきのショベルカーまで戻ろうとする。そういうのは理解も予測もできない。なぜそんなことをやりたいのか?って聞いても「やりたいから」以上のことはないんだろう。結果、5分の道のりが30分になる。

大人のおれとしてはむちゃくちゃ疲れる。早く帰って○○したいのに!とイライラする。でもふと考える。これって、どっちが人間的なんだろう? 5分で目的を達成して帰ることと、本能の赴くままにフラフラしながら30分かけて帰ることと、どっちが良いのだろう? 「夕飯と明日の朝食の材料を買う」っていう目的なら、どっちも達成している。いや、そもそもその目的だって、大人のおれが娘には何も相談せずに勝手に決めたことであって、娘としてはむしろ「大人のルールに付き合ってやった」くらいの感覚かもしれない。

人間の成長というものが、この「30分フラフラ」が「5分でピシッと」に洗練されていくプロセスだとしたら、それって全然つまんないよな。って最近思っている。

こうやってnoteに言語化する都合上、相反する価値観の二択っぽく書いてしまっているが、そんな二元論でもないし、「そういう時期もあっていい」っていう話かもしれないな。ただ言えるのは、この10数年自分が身を浸してきたやり方・文化にはちょっと飽き飽きしてきていて、そのオルタナティブとして、子どもの世界に惹かれているってこと。あ、だから狩猟採集民の子どもの本を買っていたのか・・・いま自覚したぞ。

終わりだよ。

次回予告:コロナのせいでテキストをまとめる時間がとれず予告がほぼ無意味化していますが、人類学を学ぶこと、社会人大学院とかについて書いておきたいな。

※バルサのエピソード、ソースを探してみたのだが見つからない。もしかしたらおれの妄想なのかもしれない!
でも、やたらと感動した記憶があるので、たぶん本当のはず。Podcastかなんかで聴いたのかな。







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