〈26〉在宅看取りと宗教者
※文化時報2022年2月8日号の掲載記事です。
先日、90代の高齢女性が施設内で息を引き取った。10日余り前に退院してきて「最期は知った顔に囲まれていたい」という希望であった。
逆はよくある。ギリギリまで施設で過ごし、最期は病院へ搬送されるケース。でも、超高齢多死社会が加速する昨今、「病院は死に場所ではない」との方針を国は示している。それでも病院で息を引き取る人の割合は8割近くに上る。昭和後半から平成にかけて、「死に場所は病院」という意識が全国的に広がった結果だろう。
人は死の直前に「下顎呼吸(かがくこきゅう)」が見られる。口をパクパクさせてあえぐような様子になる。初めて見る人は、苦しそうにしているように思うが、そこで酸素吸入などをしてしまうとかえって死にゆく人が苦しいのでは、と医療関係者は考えている。食べ物が喉を通らなくなって、旅立ちの準備が始まっているのに、点滴をしてしまうのも同じだと考えられている。
自然に任せるのが、一番楽だということ。事情を知らない家族らが、「何とかしてくれ」と医者にねじ込んで、かえって死にゆく人を苦しめていることも多いようだ。
1月下旬、埼玉県で患者を看取った訪問診療医が、患者の家族に散弾銃で撃たれ死亡する事件が起こった。国の方針に従い、患者や家族の希望に沿って在宅での看取りに尽力している関係者は、大きなショックを受けていることだろう。
報道によると、加害者は患者の死亡翌日に医師らを呼び出し蘇生するよう求めたという。どういう心理から蘇生を求めたのかは分からないが、死亡確認後30時間を経過した高齢者が生き返ると本気で考えていたのだろうか?
こうしたケースは例外中の例外だろう。しかし、家族の臨終が近くなるにつれて、医師らに無理難題を押し付けている家族は少なくないと思われる。
この世に生まれた限りは必ず死は訪れる。それが真理である。その真理を説くのは宗教者の役目であろう。
看取りの際、そばにいる宗教者でありたい。冒頭の高齢女性が「最期は知った顔に囲まれていたい」と希望した中には、宗教者も含まれていた。(三浦紀夫)
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