命の力(第1回文化時報作文コンクール最優秀作品賞)
お坊さんとはどのような存在でしょうか。真宗大谷派の系列校に通う私にとって、お坊さんとは親鸞聖人です。
これは私なりの解釈ですが、親鸞聖人は、人間らしく在りながら、明日に囚われる事をしなかった方です。人間らしくとは、人々の交流で得られる等価交換の愛情に執着するという事であり、親鸞聖人は清貧な心の持ち主だったと思います。
親鸞聖人の生涯は波乱に満ちていました。幼くして両親と死に別れ、思春期の煩悩に苦しみ、また、出家以降に暮らしていた比叡山の在り方に疑問を抱き、下山した後は、法然上人に出遇われ、心酔します。そして、法然上人と離別し、京都から追放されてからは、法然上人が説かれた念仏の教えをただ広めるのではなく、土地の風俗を受容し、寄り添う形を極めていきました。
そんな親鸞聖人から私が学んだ事は、二つあります。一つ目は不撓(ふとう)不屈の精神です。親鸞聖人は前述した通り、波乱の生涯を送りました。ですが、その目まぐるしい人生でも、決して自分を見失わず、眼前の物事や自身の煩悩と真剣に向き合い続けてきました。これは並大抵の事ではありません。
私は小学校から虐待を受け、さらに中学校で不登校を経験しました。今では、そんな自分を受け入れ、心療内科で治療を受けていますが、それまでは自分の殻にこもり、時に誰かに理不尽な振る舞いをするなど、現実逃避を繰り返していました。私はただ恐ろしかったのです。自分にとっての不幸や不利になることを受容する事が。そして、それを受容する事で、さらに自分が惨めになると思っていたのかもしれません。なので、親鸞聖人の人柄を初めて知った時、なんて強い方だろうと思いました。そして、自分の幸せと不幸を分別せず受容し、理解する事で、自分を肯定し続ける強さに、私は感動しました。現実逃避する事で、現実の自分を否定していたのだと気付かされたからです。
二つ目は無常の有り難さです。無常とは人の世の儚(はかな)さです。親鸞聖人は9歳の時に以下の句を詠んでいます。
『明日ありと思う心の仇桜(あだざくら)』
この句で私は、明日に囚われている事を痛感しました。明日があるから、物や人との関係に執着します。あれが欲しいこれが欲しいと際限なく求めては、自分を苦しめてしまいます。そして、一度手に入れた物や関係を手放す事は、とても恐ろしく恋しい気持ちがします。親鸞聖人は父母と幼い頃に死別していますが、私は二人を愛していたと思います。父母が居る明日を信じていたからこそ、その死別は身を引き裂かれるようなつらさであり、そして、父母が居る明日を恋しがったでしょう。親鸞聖人が詠んだ句からはそんなつらさと恋しさで錯乱する胸中が垣間見えるように思えます。
さて、私はそんな親鸞聖人の句を見て、無常の有り難さを感じました。この有り難さとは、めったに遇う事ができない、という意味です。そして、無常とは命の受容です。私たちは必ず誰かの死を契機に無常を悟り、自分もいずれ同じように死ぬのだと突き付けられる日が来ます。故に私たちは死を恐れて忌み嫌います。ですが、お釈迦様の死を表すニルバーナは、『本物の安らぎ』という意味であり、親鸞聖人もまたお念仏を唱えながら、安らかにご逝去なさったそうです。
親鸞聖人は幼い頃に無常を突き付けられ、悲観して歌を詠みながらも、決して人への慈愛を忘れませんでした。親鸞聖人だけではありません。私たちの先の時代を生きた人々は皆がそうだったでしょう。だからこそ、私たちは今こうして生きて、無常を知る事が出来ます。有り難い事です。私にとってお坊さんは、そんな有り難さに気付かせてくれる存在です。
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