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ラオス旅行記 ルアンパバンの夜明け

 早朝4時、妙な時間に目が覚めてゲストハウスのベランダに出ると、遠くから鐘の音が聞こえてきました。彼方の山はやっと輪郭がわかる程度で、空には星がチラチラと瞬いています。音に誘われてベランダの椅子に腰掛け耳を澄ませました。鐘の音は四方を山に囲まれた町の方々から聞こえます。一つの音が二つ三つと重なり、長い残響となって耳に残る。そして音がやっと消える頃に、違う方角から新しい音が生まれる。 高い建物がないため随分遠くからの鐘の音も届きます。町の北側をとうとうと流れる川幅 1キロほどのメコン川の対岸からも聞こえます。周囲の山々や川面に反響しているのでしょう。しばらく聞き入っていると太鼓やドラの音も加わりました。
 眠りから覚めない町に自動車のエンジンなど人工音は一切ありません。宇宙に放り出されたような無音の静寂が、鐘、太鼓、ドラの音を際立たせます。音の震動が目に見えぬドームの空間となって街を包み、おとぎの世界に迷い込んだような不思議な感覚です。するとそんな夢心地をかき消すように、突然「コケコッコー」と遠くでニワトリが鳴きました。するとそれを合図に今度は数分おきに「コケコッコー」の鳴きくらべが始まりました。裏庭や道端、河原などで放し飼いにされた群の一番鶏が、競い合うように四方で鳴きます。個性的な抑揚のある鳴き比べは、まるでのど自慢大会のようです。
 鐘の音とニワトリの鳴き声で夜明けを迎える。もしかしたら数百年前も同じような朝を迎えていたのではないか。そんな思いとともに時間だけがゆっくりと流れて行きました。

 鐘や太鼓、ドラの音の出所は、町に80以上もある仏教寺院です。どうやら30分間隔で打ち鳴らされているようで、4時半、5時、5時半とキリのいい時刻になると音数が一気に増えます。そして時間を追うごとに打音は大きく、同時にテンポも早くなります。まるで目覚まし時計のスヌーズ機能のように、始まりは穏やかな音色で、夜明けが近づくにつれ強くなり、やがて派手なドラの金属音が加わり、重奏がクライマックスを迎えます。
 音が鳴り止むと、近隣寺院の僧侶たちによる早朝托鉢が始まります。それに合わせてゲストハウスを出て通りに行くと、薄暗い朝もやの中、ひたひたと裸足で歩くエンジ色の袈裟姿の僧侶たちが、オレンジの街灯の下に浮かび上がります。もやで霞む中、僧侶の隊列が静かに通り過ぎてゆく光景は、ここでは数百年前から続く日常風景です。お寺ごとに列をなす僧侶は、頭を丸めた若者が多いのですが、中には老僧もいます。まだ目が覚めきっていない幼いチビっ子坊主もいます。身体をふらつかせながらも列を乱さぬように歩く様子につい目を奪われてしまう。先刻の時間差で鳴る鐘や太鼓は、おそらく彼らの目覚まし時計だったのでしょう。
 僧侶に喜捨する人は、路上に敷いたゴザに正座し、静かに目の前に集団が来るのを待ちます。ほどなくして薄暗い中、僧侶の隊列がやって来ると、目の前を通り過ぎる一人一人に竹籠からゴルフボール大に丸めたカオニャオ(蒸したもち米)を取り出し、お坊さんたちが持つ鉢に入れていきます。年少のお坊さんには特別にバナナやお菓子を差し出す人もいます。

 東南アジアで広く信仰されている上座部仏教の教えに、お寺への寄進を意味するタンブンというものがあります。早朝托鉢はタンブンが習慣化されたものです。信仰者は善行の一つとされる喜捨を重ね、より良き来世を迎えるという考え方です。肉体は滅んでも魂は永久に消えず、再びこの世に生まれ変わるという輪廻転生の教えに基づいています。
 出家者は修行に専念するため、金銭授受や食料生産活動を禁止する厳しい戒律があります。そのため必要な最低限の食料を早朝托鉢から得るのです。毎朝、厳粛に行われるタンブンの風習は、仏教の都で数百年も前から引き継がれる伝統儀式なのです。
 
 1995年、ルアンパバンの町が世界遺産に指定されると、世界中から多くの旅行者が訪れるようになりました。そして早朝托鉢が観光見学の目玉となりました。 夜明け前のメインストリートにはカメラを提げた多くの観光客が集まります。喜捨体験を希望する観光客に、熱心にお布施セットを売る商魂たくましい地元のおばちゃんもいます。
 多くの観光客によって喜捨されたカオニャオは、やがて少年僧の持つ鉢に入りきらなくなり、路上に無造作に敷かれた布の上に盛られました。僧侶たちの一日分とは思えぬ大量の食料です。後ほど回収するのですが、その食料を今度は裏道で待つ貧しい近所の子どもたちに僧侶が喜捨するという、なんとも奇妙な光景も見られました。 ただし、これはメインストリートの宿泊施設が集中するエリアに限られ、観光客が訪れない場所では、昔と変わらぬ粛々とした托鉢風景が残っています。朝もやの中、僧侶と信仰者の間で交わされる数百年続く風習は、ここに暮らす人々の生活の一部として脈々と引き継がれているのです。

 観光客がお金を落とせば、街が豊かになり、経済発展の恩恵として利便性が向上します。利便性が向上すると生活習慣が変わります。今まで要した手間や時間が不要になり、そのぶん他のことに費やせる時間ができます。そうして行動の選択肢が増えると価値観が変わります。その結果、物質世界と精神世界のせめぎ合いは、いとも簡単に物質世界へと変貌するでしょう。なぜならそれがグローバル化や自由経済の宿命だからです。
 変わらないものなどありません。得るものがあれば、必ず失うものがあります。世界中の多くの町がそうであるようにインフラが整い、町が発展すれば、昔ながらの風習は廃れる運命をたどります。近い将来、夜明け前に響く鐘や太鼓から残響が失われるかも知れません。コンビニが開店すれば、朝もやに浮かぶ托鉢僧の隊列を幻想的とは思わなくなるでしょう。放し飼いの一番鶏の鳴き比べを聞けなくなる日もそう遠くはない気がします。数百年続く歴史が、わずか数年でがらりと変わる。そんな時代にわたしたちは生きています。そして一度無くすと復活させるのは容易なことではありません。

 早朝托鉢が終わる頃にはすっかり夜が明けて、路上市場が賑わい始めます。見たこともない不思議な形の南国フルーツ。メコン川で獲れた長い髭の巨大ナマズ。ブロック状に切り分けられた生肉。みずみずしい野菜や香草、生きたままのコオロギや蜂の子、 カエルやトカゲなど、小道を挟んだ地べたに新鮮な食材が並びます。パッケージされていない鮮度抜群の食材から土地に根ざした庶民の生活が垣間見られます。日頃スーパーマーケットでパック詰め食材を見慣れたものにとっては、忘れられてた人間の営みの本質に触れた思いにさせられます。

 今後も経済発展という利便性の追求のもと世界は変貌し続けるでしょう。そして発展途上国ほど変化の度合いは大きい。
 単なる一旅行者の思いであり、無理難題は承知のうえですが、ラオス北部の山間で仏教の都として栄えたルアンパバンが、今と変わらぬ静かで美しい町であり続けることを願って止みません。

※本文は2013年のラオス旅行記を加筆修正したものです。

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