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いざ谷戸山へ


兄の義雄から、電話があった。携帯には、履歴が残る。かけてきた人の名前が表示される。今では当たり前だが、いつも義雄は、元気に野良仕事や野菜作りをやっている。義雄は東京農大の教授をやっていて、退職したばかりだ。

農業で生計を立てている訳じゃないので、野菜も家で作る分だけを庭に植えている。それでもあまるので、「さつま芋、食うか?」と電話がある。

聡は、いつもありがたく頂く。泥のついたままのさつま芋を袋に入れて、貰って来る。調子がいいやつと言えば、調子がいいやつだ。ただ、取れすぎた野菜を捨てることが難しい。今や、食品ロスは社会問題にもなっている。そんな理屈で貰う。

取りに行こうとしても、「谷戸山公園まで、散歩に出かける予定なので、直ぐには行けないので、後から取りに行く」と聡は断った。

谷戸山公園は、神奈川県の県立公園で、自然のままの里山が、広大な土地に広がっている。貴重な公園だ。毎日、大勢の人々が訪れ、老人だけでなく、子連れのベビーカー族も増えている。ベビーカーや車椅子なども走れる程度の舗装をしているので、安心安全な公園だ。だいいち、車や車両が、全く来ない。あつちこっちに、ベンチがある事が嬉しと聡は思っている。

「ここが谷戸山で、一番静かで、パノラマが雄大だと思う」と妻の茉里が絶賛する場所がある。目の前の大きな木から、ひらひらと落ち葉が舞い、ベンチの横の木からポタリとどんぐりの実が落ちて来た。
「ここに座っているだけで、秋を実感できる」と聡が満足のあまり笑いながら言う。

十数分間、絵画の中に居るような不思議な時間と空間を味わった二人は、現実に戻された。10時50分のバスに乗って帰るからだ。気がつけば、既に二十分しかない。急いで、大通りのバス停まで歩かなければならない。

バス停は、小学校を超えて、古くからやっていそうな店構えの蕎麦屋の前を通り、クリーニング店のすぐ前にある。既に、黒と白のコーディネートのスポーツバッグを持ち、黒いマスクをした若者が待っていた。どう見ても、「ユニクロ」ではなく、「しまむら」だと分かった。この界隈は、お洒落ヤンキー系が多いからだ。

バスに乗ると、おばちゃんと若い女が乗り込んで来た。コロナ初期は、誰も乗っていなかったのに、今、満席になるくらい乗って来る。次の次のバス停では、ベビーカーを持って子供二人の親子が乗車。その次も、ベビーカーの親子と、ごった返した。

聡と茉里は、いつも、スーパーとドラッグストアがある「谷入口」で降りるが、買い物もないので、ごった返すバスから体を捻りながら、「上今泉」で降りた。ピンポーンと、「いいねボタン」のように下車の合図を押す。しかも、ボタンは手すりや窓に複数ある。誰でも簡単に押せるようにあっちこっちにある。新しい発見に笑ってしまった。

バスを降りると、家まで五分ほど歩く。途中にフミリーマートがある。田舎のファミマの駐車場は、大きすぎるほど大きい。所在なげに車が数台、留まっていた。

『日常の中にどっぷり浸かっていても、新しい事が発見出来る。外に出て見聞する事が楽しみだ』と聡は偉そうに言った。
「ろくに聞き取れない、見逃す事ばかりなのに、何言ってるの」とあっさり無視された。


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