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焼き鳥屋誕生


源太と創太は、敦の前妻とに出来た子供達だ。二人とも40歳を超えている。創太は、市内で人気のある焼き鳥屋を営んでいる。一方の玄太は、地元企業を中心に広告関連の仕事をしている。創太は、専門学校を卒業と同時に、浄水器の会社に就職した。右も左も分からない業界で、しかも個別訪問で販売するというから大変だ。一年もしない内に、トップセールスマンになっていた。「警察関係の人達に浄水器を勧めると結構買ってくれるんだ」と敦の家に佐々木希似の美人を連れて来た創太だった。「年収1千万円近くになったよ」という割にオンボロの中古車に乗ってやって来た。あながち嘘でもないらしいが、後輩に奢ったり、彼女に貢いだりしながら、浪費している感じがあった。

「人材派遣の仕事を任されてしまったよ」と派遣の仕事をし始めた創太。新参者が入れる余地がないようは業界に戸惑い、努力をした物の集まってくる人達は、想像を絶するクズばかりだった。「面接に行く交通費がないので、金を貸してくれとか、平気で行ってくるおじさんがいたりして大変だよ」と愚痴を言っていた。儲かりそうなことは、なんでもやるタイプの経営者だから、巻き添えを食う。「あまりに酷いので、退職したよ」とあっさり辞めてしまった。

どこで仕入れて来たのか分からないが、焼き鳥チェーンの「大吉」に就職が決まった。大吉は、脱サラ・転業・独立を目指す人への開業システムがある。大吉の店舗で働きながら貯金が出来る。例えば、勤め先の店舗のオーナーが家賃負担で、月5万円支給の貯金10万円とする。それでも、賄いで食べていけるので、それほど生活費がかからないようなシステムだ。20代前半だった若い創太だったから出来たと思う。彼女とも別れ、心機一転、焼き鳥屋の極意を学んだ創太は、店長の信頼が厚く、2年間の修行をしながら、独立を夢見ていた。

その頃、「喰の道場(しょくのどうじょう)」という、海老名市内の商店会の有志により2004年9月に設立された、社会実験型集合店舗があった。敦も足繁く通った。アルバイトの高校生や大学生をからかうのが楽しかったのが通った要因の一つだったが。

旬海鮮割烹「真方」、味の駅「ぽっぽ屋」、寿司の「山川」家庭料理の「ひまわり」韓国料理の「青唐辛子」などの8店舗があった。ずぶの素人が出店することもあり、様々な人たちが、3年契約で卒業していった場所だ。ほとんどの卒業生が、道場の近辺に開業している。その中で、特に仲の良かった「ひまわり」の女将に息子の創太の話を打ち分けた。「ニ百万円あれば、入れるよ。家賃もそんなに高くないから」と言われたのを覚えている。「友達ばかり来ると困るけどな」と言いながらも創太に入居を薦めた。運命の扉が開く時とは、このことだと思った。創太が、大吉を辞めて貯金を叩いて、出店が決まった。契約の日に事務所に一緒について行った。中山皐月さんという元気のいい女性がいて対応してくれた。後に、今は亡き三浦観二館長に会って、最終的に了承をもらった。

心配をよそに、順調に焼き鳥屋「創玄」はスタートを切った。アルバイトを使いながらも、思惑通りに進んだ焼き鳥屋だが、三年間という縛りはすぐにやって来る。完全独立を目指す道場の三浦館長としては、卒業生全員が、自分の店を持つことが何よりも喜びだった。どうにか、道場のすぐ近くの物件を確保した。スナックの後だが、ほとんど居抜き状態で借りられた。全てが、うまく回っていた。しかも、看板やメニューなどは広告会社を営む玄太に任せれば、うまくやってくれた。順調なのは、家庭でも起こった。二人の娘の連れ子だが、美人のなつめを妻にした。一挙にパパになった創太は、幸せそうだ。「娘を店に出せば、もっと客が来るのに。看板娘として」とお客から言われるが、出す予定も気持ちもない。「今だって、お客さんが入れない日もあるんだよ」と言い返す。家族を巻き込まないのもポリシーの一つだ。

もう10年近く経つ、創太も玄太も元気だ。二人は、兄弟では珍しく仲がいい。どちらかと言うと弟の方がイニシアチブを握っているのが、いいのかもしれないと敦は思う。人生は、長い。だからこそ、いざこざの無い生活を続けて欲しいと思っている。
玄太の恋愛運が無いのが心配ではあるが、これも運がある。一生独身の男は、五万といる。それも人生だと思う。ただ、奇想天外な発想の持ち主、玄太がYouTubeでデビューしないかと期待している敦だった。「だって、ずば抜けて、顔が面白いんだもん」と思っている。

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