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叔父へのレクイエム


髭ぼうぼうの男が、語りかけるように歌う『Ma solitude (私の孤独)』は、フランス語だけど、戸山豊に刺さった。まるで、すぐそばで歌っているような錯覚を覚えた。


ジョルジュ・はムスタキは、フランスのシンガーソングライターで、エジプト・アレクサンドリア出身のギリシャ系セファルディムユダヤ人(スペイン系)だつた。

ヨーロッパの混血の深さを感じさせられる血筋だ。それだけに、孤立や孤独も味わうのかもしれないと外山は思った。

漠然と、先日亡くなった叔父の外山武志の事を思い浮かべた。叔父へのへレクイエムのような歌だ。武志は、父親の十歳下の弟だが、結構、ヤンチャしていた。妻の圭子がまだ女子校生の頃に知り合い子供を孕ませて、結婚した。厳格な銀行勤めの圭子の父親は、悔やんでも悔やんでも悔やみけれずに、結婚させた。武志は、マッカーサーが上陸した厚木基地の守衛のような仕事をしていた。もち前の明るさとファンキーさで、米兵と仲良くなって、米兵から借りたジープで派手に帰宅していた。

流石に、娘が生まれたので、武志は、1960年代に新宿西口にあった酒屋に就職した。繁華街だから、酒の需要は、無限にある。当時では、珍しく自家用車で帰宅していたほど、儲かっていた。ダツトサンだった。豊もその車に乗った記憶があった。未だ、郊外は、舗装もされてない砂利道だった。

そんなサラリーマン生活に終止符を打つ。子供が3人4人と生まれていくうちに、腰を痛め、会社を休みがちになってしまった。家庭は火の車だ。近所の米屋で働き始めた。酒屋で培った商人気質も手伝って、客に評判がいい。

「武さんおじさんは、色男だし、客のあしらい方が美味い」と言う噂を聞いていた。豊が、大学生になり、アルバイト先を探していたら、米屋を武志から紹介された。朝8時に行って、夕方5時には終わる。米の配達が中心で、各家庭に米を配達する。

「慣れたか?」
と武志から言われ、ベルボトムにシースルーのシャツを着て、前掛けをした豊は、豊よりも痩せ細った同い年の店員と、はにかみながら、笑った。武志は、既に女の子2人男の子4人の計6人の子供がいた。どう見ても子沢山だ。

慣れる何もない。週3日、淡々と軽トラで、米を配達するだけだ。ノルマもなければ、営業する訳でもない。ルートセールスだから、客が電話で注文した通りに袋詰めして運ぶ。

ただ、袋詰めは、熱処理で封をする。米屋の親父が、秤を見ながら、一掴み米櫃に入れ戻すのを見てしまうと、悲しくなった。商売とは、そう言うものだと思ってしまう。

ただ、お昼時間になると、米屋だから、昼飯を用意している。最高の米を振る舞う。ここは、ケチらない。世の中に、こんなに美味しい米があるのかと思うほどだ。

豊は、大学卒業と同時に米屋を辞めた。武志の遊び癖が、止まらない。どうも、豊が辞めると同時に釣りに夢中になって、仕事に行かなくなった。

「もう歳だし、上の三人が働き出したからな」と呑気な事を言っている。豊の両親は、まじめに働いている。叔父の適当な生き方に腹を立てるより、むしろ共感していた。

「絶対な、お前は釣りをするんじゃないよ」と豊は母親から強く言われていたので、釣りをすることはなかった。人生は、成るようになるものだと、武志の生き方を見ていると学んだ。その愛すべき叔父も去年亡くなった。

考えれば、出来ちゃった婚に始まり、職を転々と変え、子供達に恵まれ、この世を颯爽と去って行った武志の人生。

楽しかったはずだが、本当は、ムスタキのように、孤独だったのかもしれない。釣り仲間も多い、子供も孫も多いはずなのに、孤独だったのかもと豊は思った。

皮肉なもので、周りに友だちや家族が多ければ多い程、孤独な人生で終わる。それは、豊自身が孤独なのかもしれないと思った。

豊は「少しは大人になったかな。」と日記に書いた。


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