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結婚してるって本当ですか


鷹川謙也は、アパレル会社の新人営業マンだ。名古屋が本社の東京店採用なので、人数も二百人と少ない中小アパレルだ。子供服が中心なので、婦人服の売上は、五十億円にも満たないレベルのブランドで、他の大手よりのんびりしている。そんな感じなので、9時5時で終わる誰も信じないような珍しい会社であった。謙也は、横浜地区を担当していた。元町に中国人の女性が経営している店があった。『アン』と言う10坪程のミセス向けのブティックだ。そこに、姉妹がいた。姉妹といっても、五十歳くらいの恰幅の良いやり手の経営者だった。アンを最初に前任者と訪ねた時に驚いた事がある。10年前の商品が綺麗な状態で売られていた事であった。「えぇ、これ我が社の商品ですか?信じられないです。大事に扱って頂いて光栄です」と正直に感想を述べた賢也だった。楊さんは、「とんでもない、だってデザイナーさんが真剣に考えて作った物を大事にするのは当たり前よ」と言われた。だいいち、会社にも今はないものばかりだ。使い捨ての時代に、物を大切にする精神が深く感動した謙也であった。毎週の様に元町を訪れて、親交が深まっていく。ルートセールスの良さで、切っては切れない仲になる。他にも、美容室を経営している女社長の店も謙也のお気に入りだった。チェーン店や大手専門店に寡占化され始めた頃だった。大手にはない、独自の方法で販売し続けるブティックも残っていた。


ある時、「鷹川さん、うちに娘がいるのよ。一度、みんなで夕食でも食べない」と誘われた。真面目な男と認められていたようだ。しかし、娘と一緒に食事とは、一体何だろうと思ってしまった。唐突な誘いに戸惑い、返事をはぐらかしていた。すると、「兄の店の麻婆豆腐が美味しいのよ。是非、連れてってあげたいわ。鷹川さんは、どんなのが好きなの」と強引に誘われてしまった。実は、謙也は結婚をしていた。入社が決まったので、1月に結婚式まで済ましていた。新入社員でありながら、新婚でもあった。鷹川優子は、化粧品会社のセールスレディで活躍している。共稼ぎであるが、自宅もすでにあったので、DINKS(ダブルインカムノーキッズ)な生活であった。理想的な夫婦生活を送っている二人が世帯じみていないのはそのためだった。しかも優子は、1歳年上で、いわゆる、金の草鞋を履いてでも探せと言われるくらい相性があった。人が羨む生活だった。若くいたいと願っているのも事実だった。独身だと嘘をついていた訳じゃない。黙っていただけだというのが、謙也の持論だ。DINKSなので、結婚指輪もはめていなかった。理由にならないが、夫婦ともどもそうしていた。

だから、楊姉妹が謙也を独身だと思っているのも致し方ない。あまりの積極的な誘いに断り切れなかった。「楊さんが、お休みの時に行きましょう。私は、いつでも有休を取れますので」と謙也は、意を決して返事をした。食事会は、中華街の楊の兄の店で行われた。水曜日の夕方から楊姉妹と姉の長女と四人で、中華を囲んだ。長女は、日本名で祥子と言った。先祖は、四川省の出身で、チベットの近くだというのが日本人の認識だ。なんと言っても四川料理で名前だけは知っている程度であった。四川美人と言われるほどの美人の多い地域でもあるそうだ。謙也は、予備知識がないまま、食事会に来た事を恥じた。中華街は、1859年横浜開港と同時に欧米人とともに中国人も住み始めた。まだ、20世紀に入るまで中華街の形をしていなかったが、1923年の関東大震災がによって、欧米人が帰国してしまい、というより逃げ帰った。復興する際に、中国人を中心にする街に変わったのがきっかけのようだ。だから、楊姉妹の祖父母くらいから移民してきたはずだ。後からネットで調べて知った。「よくぞ、復興を手伝ったくれたものだ」と謙也は感謝の気持ちでいっぱいだ。

祥子は、沢尻エリカ主演の映画『ヘルタースケルター』などに出演している中国女優のアンジェラ・ベイビーに似た美人だった。「今は、何をやっているのですか」「女子大生です」と翔子が答えると、「フェリスの文学部ですの」と母親である姉の楊が口を挟んだ。中華街に居るなら、横浜一のお嬢様女子大のフェリス女学院が一番似合っていると謙也は納得した。「実は、僕も文学部なんですよ。有名大学じゃないけど」と話のきっかけを作るためにしゃべった。謙也は、紹興酒の勢いを借りて、米国文学の寵児にして早熟の天才作家、トルーマン・カポティの研究をしていたと大袈裟に言った。作品としては、「冷血」や「ティファニーで朝食を」などが有名だが、研究したほどではなかった。「最近、J・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を読みました」と祥子が素直に女子大生らしく言った。あえて、米国文学を引き合いに出す賢い返答に驚かされた。自然にでる笑顔や学生らしい振る舞いに驚かされながら、食事は続いた。早く結婚していることを楊姉妹に告白していれば、こんな窮屈な会話にならずに終わったのに、と後悔していた謙也であった。それでも、結婚の話やお付き合いの話については、何も出てこなかったのが、幸いだった。モテたわけでもないが、謙也は、年上のしかもお母さん達の評価だけが良かった。同年代や年下の評価でなく、親たちの異常な評価に悩まされていた。

結局一年間、「実は私、結婚してます」と言わないまま、営業部から企画部に異例の早さで転勤になった。幸い二度と食事に誘われることはなかった。毎週のように元町に足を運んでいた謙也は、一言もそのことに触れずに過ごした。想像するに、楊姉妹は、本気で娘との交際を望んでいたと思う。それは、親からの視点であって、娘の視点ではない。恋は盲目と言われるが、母が盲目の場合もある。何度も「結婚しているって本当です」と言いたかった反面、いい夢をありがとうとも思う。きっと、娘は素直に親の縁談話を受け入れるだろうが、それが娘の幸せになるとは限らない。偶然、ダ・カーポの「結婚するって本当ですか」という曲がかかっていた。思い出が蘇っていた。物を大切に扱うこと、人との付き合いを大切にすることなど最低限のことを学んだ楊姉妹に感謝している。信念を迎えて「福招来」というお札を頂いた。謙也は無性に中華街・元町に行きたくなった。


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