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散策的な、あまりに散策的な 1

文学とくしゃみ


「呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする」と人間を評したのは、『吾輩は猫である』の名もなき猫だった。陰にこもった情感が滲むように発する「音」に、人は良くも悪くも惹かれる。

そしてこの「音」には、くしゃみのように思わず出てしまう性質のものがあって、私はそれを文学的だと思う。

私は二六歳のときに初めて喫煙した。もともと煙草には全く興味がなく、むしろ嫌いであった。けれども、中上健次の『十九歳の地図』を読み終えた途端、なぜか異常に吸いたくなった。

毎日、明け方近くまで論文を書いていた冬だった。本を閉じた私は、もやもやとした得体の知れない情動に突き動かされて煙草とライターを買いに走った。早朝のまだ薄暗い小路で静かに煌々と灯る自販機が、夜を吸う生き物のごとく不気味に佇んでいるように見えた。

『十九歳の地図』のなかで煙草が魅惑的に描かれているわけではない。鬱々として不埒な主人公に感化された実感もない。ただ、読んだ小説が誘因となって初めて喫煙したという事実だけが、合理的な理由と結びつかないまま、個人的体験として抜きがたく残っている。

別段、これを特異な体験として披歴したいわけではない。自分でも思いがけない言動の導火線は誰もが潜在的に持っていると思う。そして所構わずくしゃみをしてしまうように、意識下にない反応や現象を不意に経験することがある。

おしなべて人は見たいものしか見ていない。よって見ようとするほどに真の発見は遠ざかる。自意識(自分らしさ)に囚われ、手持ちぶさたや退屈さに耐えられない。

けれども、たとえば目的のない散歩においてこそ、景色は景色として立ち現れる。こんなところに花が咲いていたのか、といった具合に。同じように、忘我においてはじめて立ち現れる自己もある。思想家のルソーはその著書『孤独な散歩者の夢想』のなかで、夢想という無為においてこそ自己との対話が可能になると提起した。

文学がときに、習慣性や日常性を脱臼させる邪なものならば、自意識(自分らしさ)という分厚い皮膜が裂ける「音」は文学的な好機のシグナルではないかと思う。

その「音」は、くしゃみのようにきっと発するだろう。けれど、いつ発するのかは誰にもわからない。

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