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大人のためのネコ童話『海を視ていた猫』

いまを去ること半世紀以上も昔のこと、商社のバンコック支店長だった父がタイの南部にあるサタヒップ米海軍基地のバンガローを借りたので、両親の友人たちも誘ってわたしたちは意気揚々と明け方、旅立った。

ジェット機のような羽根のついた青い車体のキャデラックを両親が交代で運転して、観光もかねてまめに休憩をとりながらサタヒップに到着したのは午後の3時過ぎだった。

米海軍基地の門の片隅に、野ざらしにされたまま朽ち果てた旧日本軍の戦車が太平洋戦争の勝利の記念品のように捨て置かれていた。

鉄板が錆びてボロボロになった車両は古びたブリキ細工の玩具のように視えた。

バンガローに荷物を置くや、わたしは海水パンツに着替えて独り遠浅の海にくりだした。

泳げる深さになるまで沖へむかって歩いていった。

驚くほど透明な海水の足元には白い砂をバックに名の知らぬ熱帯魚が泳いでいた。

歩いても歩いても遠浅は続き、浜辺から優に200メール離れたと想われる地点に達しても海面はヘソのうえくらいまでしかなかった。

いったいこの遠浅はどこまで続くのだろう、興味をおぼえたわたしはひたすら歩きつづけた。

浜辺から500メートルほど離れても水深は胸のあたりまでしかなかった。

ひと泳ぎしようと水中メガネをつけて潜ったとたん、白い海底に細長い貝殻のようなものを視つけた。

貝殻をひろいあげてみると、それは動物の骨だった。

注意してあたりの海底を見まわすと、あちこちに動物の骨が点在していた。

手にした骨をしばらく眺めているうちに、ようやくわたしはそれが人骨であることに気がついた。

そして同時にそう離れていない海面に三角の背びれが動いていることにも気づいたのであった。

一瞬にして鳥肌が立ち、全身が強張った。

振りかえると浜辺ははるか彼方に蜃気楼のように漂っている。

奥歯がガチガチと鳴った。

わたしは鮫の背びれを凝視しながらゆっくりと後ずさりを始めた。

鮫に気づかれないようにゆっくり、ゆっくり後もどりしていった。

気が遠くなるような時が流れた。

鮫の背びれがほとんど点のようにしか視えなくなっても全身の震えはとまらなかった。

ようやく波打ちぎわにたどり着いたとたん、わたしは踵を返して砂浜にむかって走った。

白い砂浜に足をとられて転んだ。

頭上の青空には太陽がフィラメントのように輝いていた。

潮騒しか聴こえない。

何事もなかったかのように微風が吹いていた。

わたしはおもむろに半身を起こして、腰をおろしたまま息切れが収まるのを待った。

あの人骨は鮫に喰われた現地人のものだろうか。

それとも旧日本兵のものだろうか。

そういえば、あの骨はいつ落としてしまったのだろう。

まったく記憶がなかった。

呼吸が収まったころ、どこからともなく微かな猫の鳴き声が聴こえてきた。

最初、鳴き声は聴こえるのに姿が視えないので戸惑った。

キョロキョロとあたりを見渡して、ようやく海にむかってちょこんと白浜に座っている白猫を視つけたのであった。

白猫は白い砂よりも白かった。

わたしが近づいて声をかけても、白猫はふりむきもせずに鳴きつづけていた。

隣に腰をおろして、わたしも白猫といっしょに波が打ち寄せては返す青い海を視ていた。

どのくらいの時間が経過しただろうか。

10分だったかもしれないし、1時間だったかもしれない。

気がつくと、わたしは貓がなにをしゃべっているのか聴きとれるようになっていた。

「早く帰っておいで……」

白猫は同じ言葉を何度もくりかえしていた。

天上でフィラメントのように白く燃えていた太陽が、いつしか水平線上で赤く燃えていた。

わたしを呼ぶ声がしたのでふりかえると、父がたそがれどきの薄闇のなか笑いながら近づいてきた。

「どうした。まだ泳ぎ足りないのか」

父の眼が(しょうがない奴だ)と笑っていた。

わたしは鮫に出くわしたことを父に話すかどうか迷った。

砂を払い落としながら立ちあがったときには、貓の姿は影も形もなかった。

「あれ、ここに白猫がいなかった?」

父は日焼けした顔に白い歯を浮かべて、

「おまえが膝をかかえてぽつんと寂しそうに座っていたらか、何かあったのかと心配したぞ」

砂浜のどこにも貓の姿はなかった。

父の笑顔を見返しながら、なぜかわたしは素直に貓の幽霊を視たんだと自分に言い聞かせていた。

Illustration:© 北原佳

【ChatGPTによる解説】

青い海と白い幻影


ネコ童話『海を視ていた猫』は、少年時代の主人公がタイのサタヒップ米海軍基地で体験した不思議な出来事を描いた物語です。この物語は、旅の始まりから主人公が海で経験した恐怖と、その後に出会った白猫との静かなひとときまで、緊張と安らぎの対比を巧みに描いています。

物語は半世紀以上前、主人公の父が商社のバンコック支店長をしていた頃に始まります。父が借りたサタヒップ米海軍基地のバンガローへと、家族や友人たちと一緒に旅立つ様子が描かれています。両親が交代で運転するキャデラックでの道中は、観光を兼ねた楽しげなものでした。午後3時過ぎに基地に到着すると、朽ち果てた旧日本軍の戦車が戦争の記念品のように放置されているのが目に入ります。その風景は、過去の戦争の痕跡と現在の平和の対比を象徴しています。

バンガローに着くや否や、主人公は海水パンツに着替えて独り遠浅の海に繰り出します。驚くほど透明な海水と白い砂、名も知らぬ熱帯魚が泳ぐ美しい景色に魅了されながら、彼は遠浅の海をひたすら歩き続けました。しかし、500メートルも離れた地点で見つけた動物の骨が人骨であることに気づいた瞬間、彼の心は恐怖でいっぱいになります。さらに、近くに鮫の背びれを発見した彼は、全身の震えと共にゆっくりと浜辺に戻ることしかできませんでした。

砂浜に戻った主人公は、安堵の気持ちと共に白猫の鳴き声を耳にします。姿が見えないまま鳴き声だけが聞こえる状況に戸惑う彼は、最終的に海に向かって座る白猫を発見します。白い砂浜よりも白いその猫は、彼が声をかけても振り向かず、同じ言葉を繰り返しながら海を見つめ続けていました。「早く帰っておいで……」という猫の言葉を理解するようになった彼は、その場で静かに時間を過ごします。

夕焼けが空を赤く染める頃、父が迎えに来て、主人公は鮫に出会った恐怖を話すべきか迷います。しかし、猫の姿は消えており、父の笑顔を見ながら彼は自分が猫の幽霊を見たのだと納得します。このエピソードを通じて、物語は過去の記憶と現在の感情、そして現実と幻影の交錯を巧みに描き出しています。

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