自転車(ボーフラ)

何度も職務質問に捕まった原因である自転車を捨て、新しい自転車を買う。良い自転車ですねなんて言われるが、古い自転車はまだ乗れたし、これに乗ってリハビリ病院(入院中の洗濯物を回収しなくてはならない)も山の上にある大学(ただし、遅刻してインシデントになった)にも行った。僕は致命的にクルマの運転が下手なので、こちらのステータスを伸ばす事を放棄して、もっぱら自転車だけに乗っている。

古い自転車に乗った僕と、普通の自転車に乗ったおばさんが、同時に警官の前を通り過ぎようとした時、僕だけが停止させられ、「ここは商店街だから自転車を漕いではいけない云々、それは本当に君の自転車か、そのサンダルは何だ」と問い詰められたり、やはり同様な状況で警官が家までついてきたりした。この古い自転車は姉が通学用に使っていたものであり、黒地に白字で姉の名前、住所が書いてある。盗難自転車だと思ったのだろう。

この古い自転車を、かつて業務委託でD社やN社からのフィールドエンジニアの訪問の足にしていた。転職した後に解雇されてしまったので、仕方なく実家に戻り、派遣や業務委託の仕事をしていた僕であった。キャリアという点で劣等感は感じていたし、こんな筈じゃなかったなあとずっと思っていたし、今だってそう思っている。仲の良かった旧友は、東京でゲームプログラマーになっている、彼は夢を叶えた。

D社から正社員として直接雇用される事を打診され、その条件としてクルマの運転は必須ですと言われ、ペーパーの僕は教習所で練習する事にした。何度か教習所で練習した挙句、「これは無理だな…」と思った。まず僕は絶対的にクルマへの興味の欠如がある、若い男ならクルマの雑誌を見て胸がときめくのだろうが、全くそういう事はないし、クルマの構造にも歴史にも、積極的な興味はない、ドライブへの憧れはあるが、根本的なところでついていけない部分がある。僕は、「運転ができないので無理です」とその話を断り、再び業務委託と派遣の日々を送っていた。

仕事を増やすために、アルバイトも並行してやろうと思い、塾講師の口を見つけて、一応採用でまず研修してもらいます、という事になった。話を聞くと、どうも体育部のスケジュールとかち合う。それを言うと、そういうのは困るみたいな話になり、何となく担当者も気に入らないので、やっぱり辞めます、と断ってしまった。その塾には、同級生と、同級生の兄がおり、うん、別に悪い職場じゃなかった。

その頃、Twitterがだんだん人口に膾炙してきた頃で、僕はTwitterを始めて、地元のサークルみたいな人にリプライを貰っており、何かオフ会みたいなのに誘われたので行ってみた。それだって別に悪い集団じゃなかったのだが、心理的な壁みたいなものを感じてしまい、参加者の「主婦」が、男に乳繰らせていたのを見て、ああ、半端な感じがするな、と思って、そのまま足は遠のいてしまった。高校の時の旧友のL君は、女と自習室で、乳繰り合っていたなあ。彼は、セガサターンの「THE野球拳スペシャル」を僕にくれた良い人だ。同様に乳繰り合うにしても、やはり人間性の違いが出る。

父は、心臓の手術をする事になっていた。だが僕は、前述のように、自分の事だけでジタバタとしていた。父は何度か手術も入院もしていたし、まあ結局何とかなっていたので、このままの日々が続くと思っていた。手術は成功し、父はそのままの姿で家に戻ってきた。それは七月、汗をじっとりとかくような日だ、父は不整脈があるので、病院で電気を流す云々の処置をする事になり、家族の同意のサインが必要なので、僕も病院に同行した。

処置の間は時間がかかるので、僕はサインした後、先に家に戻った。その後、だいぶ時間がかかって、父も戻り、居間で昼寝を始めた。父はよく居間でテレビを観ながら、居間の座椅子で昼寝をしていた。サスペンス劇場みたいなものや、映画を繰り返し観る。バラエティ番組は嫌いだった。ドリフでテレビは堕落したみたいな事を言っていた。何も変わる事のない日常だった。夕飯の時間になり、父は自分でインシュリンを打っていたようなのだが、それが上手に打てないようなのである。箸を持とうとしても、それを落としてしまう。

僕は、インターネットで父の様子を検索すると、完全に「脳梗塞」に一致した。インターネットが開通していて良かった。父は救急車を嫌っていたので、僕らだって救急車というのはしんどい、そんな事をしたら何かが本当に終わってしまう気がした、まあ話もできるし、何とか歩ける、僕はタクシーを呼んだ。父に肩を貸して、居間から玄関への段差を乗り越え、タクシーの後部座席に座らせ、僕と母がタクシーに同乗する。

それから、七年経った。その日から2,684日後、父は、一か月前から入院した療養型病院にて朝食を食べ、風呂に入れてもらい、正午頃、ベッドで亡くなっているのを、看護師に発見された。「信長の野望・大志」を、昼食後にやっていた僕の携帯電話に、亡くなった旨の連絡が来たのである。

今の新しい自転車で、僕は朝の時間帯、そう午前五時から七時の時間帯だ、ポスティングの業務委託を始めた。自営業だけではどうしても時間が余ってしまい、時間が余ると人は余計な事を考える。適度な負荷とストレスは、必要なのだ。

古い自転車は捨ててしまったが、時々、あの時の運命の歯車を、無理矢理にでも変える事はできなかったのかと思う。古い自転車のギアは、最後まで、しっかり噛み合っていたというのにだ。

ちなみに、「信長の野望・大志」は、葬儀の準備の合間に、部屋にこもって、とりあえずクリアさせた。父が骨になる前に、僕は天下統一(山城国を含めて一定数以上、制圧すればクリア条件になる)した。父は、セガサターンの「信長の野望・天翔記」が好きで、サターンが壊れるまで天翔記をやり込んだ。店に来たお客さんにも、天翔記が面白いという話をしていたから、本当に好きだったのだと思う。

この稿を書く前に、学生時代の話を書きかけたのだが、あまりに酷い出来だったので、ごみ箱に捨てた。父と、その死というテーマが僕の中で大きいようで、全く関係のない虚構を作り上げてみたいという気分もあるが、今やりかかっている漫画も、介護漫画のフィクションで60ページぐらい描こうと思っている、何時の日か製本して配れる人には配りたい。
ボーフラ・プロジェクト

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