映画『ネバーエンディング・ストーリー』から考える「名前の重要性」(伊勢崎おかめ)

子供の頃、親に映画館に連れていってもらって観た映画『ネバーエンディング・ストーリー』(以下、NESと略称する)にどハマりしていた時期があった。当時、高級品だった映画のビデオテープを買ってもらい、文字通り、テープが擦り切れるまで何度も何度も(おそらく200回以上)毎日繰り返し観ていた。

そのことを思い出し、ふとまた見たくなったので、NESのDVDを購入した。大人になって観てみると、合成感あふれる安っぽい仕上がりゆえ、「子供の頃はこんなクオリティの映画を純粋に楽しんでいたのか」と、少しさみしい気持ちになった。

NESは、物語の中に物語がある、いわゆる入れ子構造になっており、さらに、物語の中の物語の世界(ファンタージェン)の登場人物が、物語の主人公(≒視聴者)に話しかけたりするメタフィクションの体もなしている。

当時は子供だったので、そういったことや、ファンタージェンを壊そうとしている「無(nothing)」という存在が何なのか等については深く考えてはいなかった。「私もファルコンに乗って空を飛んでみたいな」とか「あの蛇の紋章アウリンがついた本が欲しいな」といった表面的なところを楽しんで観ていたのだが、大人になった私が最も注目したのは、主人公によって新しい名前を授けられなければ死んでしまうファンタージェンの瀕死の女王様が、「私に名前をつけて」と、「無」の強大な力により崩れ去ろうとしている象牙の塔から、必死に主人公に懇願するくだりだ。

名前をつけることが命を救う。「名前」というものは、それほどつけられる者(物)にとっては重要なものなのだ。映画や小説などでも、登場人物とその名前が合っていないと、ちぐはぐ感が邪魔をして、内容に入り込めないことがある。

人間もそうだ。昨今、無理な当て字で、読むことが困難な難読名、いわゆる「キラキラネーム」が流行っている。

どこからどう見ても東洋人のこどもに、西洋人につけるような名前をつけてしっくりくるはずがない。

たとえば、私は「ふとし」という名の男性で、痩せた人を見たことがない。「名は体を表す」という言葉があるように、人は、つけられた名前のように育っていく。名前は、つけれられた人の一生を縛る。そして「体は名を表す」ようになっていくのだ。「ジャイアン」は「ジャイアン」であり、決して「優真」といった名前にはなり得ない。

キラキラネームのような、一見、冗談にしか思えない名前で、子供の人生を縛ってしまうと思うと、恐ろしくて自分の子供にはそのような名前をつけられないはずだ。子供に奇抜な名前をつけようかと考えている人にこそ、このNESを見て、改めて名前の持つ重要性を考えて頂きたいところである。

ちなみに、当時、なぜか羽賀研二が歌っていた『ネバーエンディング・ストーリーのテーマ』の歌詞が、「よせよ 強がりは俺の前で」から始まる、映画の内容とは全く関係のないものであるということも最後にお伝えしておく。動画が転がっているので、ご興味のある方は、ぜひ、検索の上、視聴して笑って頂きたい。


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