道子さん家の通夜で(ボーフラ)

香典ドロボーは、もうひとりのあたし。

香織は、心の中でそう確かに呟いた。声に漏れてしまったかも知れなかった。山岸家の通夜において、香織は香典受付をやらされていた。故人の山岸徹の妻、道子の友人という関係性で、香織は数十年来の付き合いだった。道子と香織は女学校からの同級生であって、互いに深い信頼が構築されていたのである。

弔問客は、次から次へとやってくる。香織は、ひとりで香典の受付をしていた。山岸徹は小さな書店を経営していたが、数年前にその店を畳んでいた。失意の内に亡くなった。書店関係から、近所の人、親族等が焼香をあげにきた。妻道子は、祭壇の前で弔問客と話し込んでしまい、香織ひとりに香典受付を任せてしまっていた。

香織は、まだ、香典ドロボーを実行した訳ではない。それを実行するに値する、目星の香典袋があるのだ。道子は、ずっと祭壇の前で、書店関係者や親族と故人の懐かしい話に注心しているものだから、香典を置いてすぐに帰る者の事は、香織が弔問帳に記入し、報告をしなければわからない。

そう少し前…道子が後はお願いね、と受付から離れ、香織が何人かの受付をした後、ある男がやってきた。

「このたんびは、ご愁傷さまでごぜえやす」

「すみません」

男は、香典の記帳を躊躇った。香織が是非に書いて下さい、と促すと、男は、山岸徹と若い頃に肉体関係があり、名前を書いてしまえば道子にもその話を蒸し返す事になるだろう、たまたま奥さんが居なかったので、これは勿怪の幸い、このまま香典だけ置いて帰りたい、そのように言った。男は、サングラスをかけており、目が悪いようだった。会って話して尚、その性情や素性は杳として知れずといった塩梅式の風体だ。男によれば、若い頃とは風貌も変わっているので、通夜が始まる前に焼香だけ済ませて帰る分には、奥さんにもわからないだろう、と。

香織はそれを受け容れた。押し問答を演ずるには、少し疲れていた。それから香織は、次から次へと弔問客が現れる中で、どんどんと捌いてゆきながら、この香典をどうしたものかと考えていた。考えた末に、この香典を自分の懐に入れてしまえば良いのではないかと思い立ったのであった。香織は少し腹も立てていたのであった。本来であれば話ばかりするのでなく、妻の道子にも受付を手伝ってもらいたいのだが、それらの処理を全て香織に任せっきりなのだ。道子は喪主である。施主は山岸徹の妹であるが、その妹は少し知的障碍があり、控室で休んでいる。他の親族に至っては、香典の受付を全て香織に任せ、手伝おうという気もさらさらないようだ。

これは報酬なのだ。もうひとりのあたしは、報酬を得たがっている。香典ドロボーは。香典ドロボーは…。

通夜が始まった。通夜が始まってからも、弔問客がぽつぽつ来るので、香織は尚更、受付を離れる訳にはいかなかった。道子に受付を頼まれた時点で、黙祷と焼香は済ませてあった。読経の声が次第しだいに高まってくる。受付に居る香織も、それを直接見ないまでも、その熱量というものが伝わってくるのである。朗々とした伸びやかな読経と木魚は、一種の催眠音楽のようなものだ。今なら、皆、通夜に夢中だろう。この香典袋を、ただ、自分の懐に入れれば良い。香織の喪服の内ポケットには、その香典袋がしっかり収納できる。サッと入れてしまえば良い。何しろ故人と肉体関係にあって、妻道子は死んでもその名前を思い出したくない相手なのだ。そんな若い時の過ちを蒸し返すぐらいなら、自分が懐に入れてしまって、何もなかった事にすれば良いのだから…。

しかし、こうも考える。肉体関係があったという事がもし嘘だったら?男は、サングラスをかけていてだいぶ年寄のようだった。山岸徹よりも十歳は年嵩のように思う。あの世代にして、若い頃とはいえ、そのような事があっただろうか。故人は確かにサブカルチャー系の本をアーカイブしていた趣味人的な自由人ではあった。現代ほど明け透けではないにしても、当時だって有り得ない話ではない。でも、故人を振り返って、その気がある過去の言動や伏線、状況証拠はなく、肉体関係があったという、面識のないこの男の証言のみで、それを事実として良いのか。信じたくないというバイアスを差し引いても、作り事の逆さま、虚妄の虚構と言えまいか?バリバリのノンケとしか形容できなかった山岸徹という人物像に、そのような人間的な陰影を更に加える事など、できやしない。山岸はそこまで文学的な男ではなかった筈だ。だとすれば、よく知らない人が性質の悪い妄言と香典だけ置いていった、という話で、これはそのまま渡すのがやはり道理ではないだろうか。

そのまま迷っているうちに、香織は、ついぞ、香典袋を懐に入れる事ができなかった。香織の「もうひとりのあたし」は、嵐の日の波濤のように押し寄せたものの、岩にぶつかって飛沫と消えた。心の中の、大部屋俳優の他愛ない寸劇として幕を閉じた。通夜が終わり、弔問客が続々と祭壇のある部屋から出ていく。香織はふと弔問客の群れを見て、とても驚いた。あの肉体関係にあったという男が、他の弔問客に混じって出てくるではないか。すぐに帰ったのではなかったのか。驚きの感情の上に、この男はすぐに帰れば良かったのに!という怒気が、香織を包んだ。

「もし!!もし!!」

香織は、その男を呼び止めた。男は、香織を一瞥すると、軽く会釈をして、他の弔問客が下りエレベーターを待つ中、ひとり、階段を昇っていった。帰るのではないのだ。上階に何があるのか、今日、呼び出されたばかりの香織にはこの葬儀場の構造は知る由もない。香織は、受付付近に来ていた親族に香典の番をさせて(本来は親族の仕事である)、男を追いかけた。

「あなた…一体…」

男は、どんどん、階段を昇っていく。香織は追いかける。待って下さい、という声をわざと無視するかのように、階段を昇る。香織は、自分を香典ドロボーに仕立て上げる理由を作った、この男を問い詰めたい、そんな衝動に駆られた。弔問帳に名前を記さないという不義理は、香典ドロボーの罪より重い。そんな風に自分で自分を急き立てる。畜生が。コンコンチキ奴が。そして男はついに非常口と書かれたドアを開けて、屋上まで来てしまった。空は夜なので真っ暗であり、月も星もない、曇り空だ。

「わしを追いかけて、何になるけえ」

「困ります!!!こんなところに来てしまって…」

「何か困るのけ?あんたアレ貰っちまえばええだが」

「あたしは香典ドロボーじゃない!!」

大きな風が巻き起こった。巻いて巻いて吹き飛ばされそうな風。きゃあっと香織は声をあげた。そして。男は。

大きな猛禽類のような、大鷲のような姿に変わって、夢を見ているようではっきりした姿を掴ませてくれない、動物の匂いがする、決して悪い気分はしない、寧ろ見る人を陽気な気分にさせる、それは呵々大笑しながら、羽根を羽ばたかせて、

「徹ちゃんはわしの恋人どした」

と言った。そしてこの大鷲は、ニヤリと笑ったように見えた、香織も笑い返した、そうした方が良い気がした、それは、はばたいて飛び上がり、葬儀場の上空を悠々と滑空旋回し、ホウッ、と叫んでそのまま遠くの山の方へと去った。香織はひとり、屋上に残されて、まったく、と呟いた。通夜というものは何処か非現実的なものだ。香織はこの出来事を受け容れた。

香織が屋上から戻ると、受付ロビーには誰も居なかった。帰りかけた親族が、道子と妹は控室に香典を持って戻っている事を伝えてくれた。香織が控室に行くと、二人は香典を集計し始めたところだった。香織は、これらの事を胸に秘めておく事とし、一緒に香典を数えた。道子も妹も、香織の今しがたの一連の行動については、何とも思っていないようだった。道子は香織に、受付を任せきりにした事を詫びた。特に妹は、自分が何もできずに申し訳ない、という事を何度も言った。妹は今度、香織に皿を作ってあげると約束した、彼女は陶芸をやって暮らしている。…そして、集計している内、名前のない封筒を見つけた。

「香織ちゃん、この封筒、誰の香典か知ってる?」

香織は、どうしても事情があって名前を明かせない人からのものだ、と少しぼかして話した。肉体関係の話も大鷲になった話もしなかった。言葉を選ばないように、何気ない語彙で、それを説明した。道子は興味なさげに、ふうん、と言った。妹が封筒を開けると、百円札が七、八枚、護符のようなもの、それから藩札が数枚、入っていた。

「今時、百円札なんか入れてくる方がいるのね…」

道子はとても可笑しいようだった。香織も気が抜けて、やはり少し可笑しかった。香織はふと、故人が若い頃に修験道に傾倒していた話を思い出した。その話は、若い頃の道子に聞いたのだ。修験道から山岸徹を引き離したのは、道子だった。あの時の、若い時代の熱…自分もこの二人も、焼けただれる程の熱に浮かされていた。そう、天狗様が、天狗様が、と、山岸徹は天狗様にご執心だと、香織と笑い話をしていたものだ。山岸徹という人物画の下地が、今になって、ある種の光源によって焦点を結んだ。それは、懐かしく温かい光だ。香織は、ひとり安堵のため息をつき、静かに微笑んだ。

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