チュンタク和尚(義ん母)
大晦日。碧眼の修行僧が鐘を搗き終わると、その眦はチュンタク和尚に向けられた。
既に鐘は百八回叩かれた後のことで、これより先は煩悩の彼岸ということになる。
最も高位とされる紫の袈裟に身を包んだチュンタク和尚は「ちょんけい。ちょんけい」と、般若心経の中で最もありがたく、最も漢字の難しい部分を、普通に間違えながら唱え、静かに双眸を閉じて息を整えた。
岡山市に伽藍を構える総円寺の修行僧たち、とはいっても私以外はすべて欧州よりワーホリのつもりで来た者ばかりであるが、彼らは期待感で俄かに昂然としだす。
私は鐘の直ぐ脇、和尚の斜め前に跪くと「そうら」と肩に担いだ鼓を叩く。
ぽうんと、マナティがすれ違ったような音があたりに響けば、チュンタク和尚は開眼。綱を握りしめ、えいやと百九回目の鐘を鳴らした。くわあん。
何も起こらない。いや、実際には起きていた。
和尚がこちらを向き、口を大きく開けて見せた。
「流石でございます。わずか一突きで全ての歯を消失されるとは」
私の世辞など聞いていないのか、食後のように口を、もちゅらもちゅらさせると、ペ。
そして、ころん。和尚の口腔内より何かが吐き出された。金歯であった。
「ロナルド。それを持って帰りなさい」
歯の消えた和尚から、ふんがふんが指名されたのは、この総円寺の修行僧でも最も歳若きイギリスの青年であった。彼は恐る恐る和尚の足元に転がる金歯の欠片を手に取ると「有難うございます」みたいなことを述べ、跪いた。
私もぼやぼやしてはいられない。続けざまにもう一度、鼓を叩く。
そのタイミングで、和尚も鐘を叩く。
今度は目に見えた。和尚の自慢の鷲鼻がつるり綺麗に無くなった。
鼓を叩く。鐘を叩く。繰り返すうちに、どんどん和尚が消えて行った。
耳、目、皮膚、五臓六腑。
あっというまに、和尚は袈裟だけ遺して消えてしまった。
十七の碧眼が私に集まる。十七。奇数。ロナルドは感染症で左目を喪っていた。
「では、お願します。鼓を、私に」のようなことをロナルドは言う。
鼓をロナルドに渡すと、私は今しがた消えたばかりの和尚の袈裟を着こむ。
未だ温いかと思えば、そんなことはなかった。体温も消えていたのだ。
後は簡単だ。同じことを繰り返すだけである。
耳が消え、眉が消え、内臓が消え、そして最後に輪郭と口だけが残った。
折角なら、聞いておきたいことがある。
「ロナルド、どうして金歯をもらったんだい」
ロナルドは私を見る。無論、既に私には目は無いので、その視線を感じることしか出来ない。
「ああ、ギターのピックがなくなってね」
急に流暢に話すな。あと金歯をそんな風に使うな。
それと意味もなく左目を喪うな。そもそもワーホリで仏門を叩くな。
うっかりそんなことを考えてしまったため、煩悩の彼岸に消えたはず私の躰はみるみる元に戻ってしまった、そんな時に作った曲です。聴いてください。
「マナティがすれ違ったような音」。
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