かわいいわたし(小夜子)

結論から言えばわたしはかわいいのだ。

独我論、という認識をご存知だろうか。

<真に実在するのは自我とその所産だけであり、他我やその他すべてのものはただ自己の意識内容にすぎないとする哲学的立場>(コトバンク引用)とされている哲学的認識論のひとつである。

噛み砕いて言えば、自分自身だけがこの世界に存在する全てであり、自分以外の全ての存在は「自分自身が他人だと認識しているだけの虚構」ということである。

既に多くの否定認識が提唱され、衰退し尽くし鼻で笑われる認識論ではあるが、わたしはこの独我論を精神的に信仰して二十余年を生きてきたし、今後もたぶん生きていく。

だって、独我論って、平和だ。

畢竟自己以外は虚構である。

丸めたティッシュみてえな男が「ブス!」とわたしを罵ろうが、ガラケーみてえなジジイやババアが「本当仕事できないんだな!」と叫ぼうが、土左衛門でございみてえな女が「触んないで!」と泣こうが、わたしはわたしを「かわいいし強いし賢い!」と認識しているのだからわたしが正しいのだ。独我論に則れば、わたし以外の全ては虚構であるし、虚構が何を喚こうがわたしの知ったことではない。わたしの意識だけがこの世界の全てであり、その世界の全てであるわたしはわたしを「かわいいし強いし賢い」と自認している。

これはもう、世界の常識である。だって(わたしの)世界はわたしで構築されているわけだし。

百歩譲って独我論が反駁できたとして、自己と他者との相互理解は100%の濃度では絶対的に行えないのだ。同じものを見ているつもりでも全く違うものを見ているかもしれないし。わたしがヒキガエル(と認識しているもの)を見て「アレはヒキガエルですね」と口に出し、「ええアレはヒキガエルですね」と他者から同意を得たとして、他者がヒキガエルでなく(わたしが認識している)トノサマバッタを見ている可能性だってあるのだ。全然関係ないけどトノサマバッタって餌食べるときすごいキモイよね。

結局のところ、完璧な相互理解がニンゲン間で行えない以上独我論は反駁できず、反駁できない以上、わたしによるわたしの為の「わたしはかわいい!」という自認を否定しきれる材料が存在しないわけで、つまりわたしはかわいいのだ。こんなにかわいくて強くて賢いわたしが虚構の為に心身をすり減らす必要がどこにあるというのだろう。そろそろ大金持ちの虚構がわたしに一目惚れしてもいい頃合いだと思っているのだが、虚構というのはいつだってわたしの思う通りに動いてはくれない。虚構のくせに生意気だ。

ちなみに冷やかしで行った美容整形外科で「堀北真希にしてください!」と言ったところ、わたしが堀北真希になる為には合計で1540万円掛かることが判明した。わたしは十分かわいいが、堀北真希(虚構)との間には1540万円分の福沢諭吉が存在している。


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