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批評F運動

【評論】小峰ひずみ

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 批評と運動。そのような言い方があります。政治と文学、あるいは、理論と実践と言い換えてもいいでしょう。しかし、現状は、批評F運動、になっている。批評と運動、政治と文学、理論と実践の「と」に込められた緊張感がなくなり、批評は運動に追随し、文学は政治に追随し、理論は実践に追随する。批評 Follows 運動。批評が運動をほぼ無条件に肯定する。それは運動のあり方を考えることの放棄であるように、私には見えました。ゆえに、私は拙著『平成転向論 SEALDs 鷲田清一 谷川雁』で、SEALDsを礼賛する小熊英二・内田樹・高橋源一郎のような知識人を批判したのです。批評F運動の「F」こそが問題だ。今回はその矛先を他の人に向けなければならない。
 前提からお話ししたいと思います。批評家の川口好美さんから「小峰ひずみ論――「大阪(弁)の逆襲 お笑いとポピュリズム」に寄せて」(https://note.com/tenden_co/n/n7b5929312f62)という批判をいただきました。この論文は、現在発売中の、群像三月号に掲載された拙論「大阪(弁)の反逆 お笑いとポピュリズム」と、一年ほど前に文学+に掲載した書評「東京の反逆 矢野利裕『今日よりもマシな明日』への評」を批判したものです。ひとまず、川口さんには私のような新人を主題とした文章を書いていただいたことにお礼を申し上げたい。ありがとうございます。
 しかし、私は川口さんの立論をそのまま受け入れることができません。川口さんもそれを望んではいないでしょう。特に川口さんは「東京の反逆」における私の文体(すべて大阪弁で書かれています)と、「大阪(弁)の反逆」における杉田さんへの批判に、軽蔑の念を抱いているように思います。そこで私と川口さんとの相違点を確認すべく、反批判を書こうと思った次第です。ただし、それは川口さんだけを批判して済むようなものにはならないでしょう。私は矢野さんを「東京の反逆」で批判し、杉田俊介さんを「大阪(弁)の反逆」で批判しました。川口さんはその二つの批判を無効化し、退けようとしている。ゆえに、今回の反批判は、川口さんへの反論を行うが、それは矢野さんへの再批判、そして、杉田さんへの再批判を含むことになります。
 批判という言葉が乱立していて、なんとも不穏です。しかし、この状況は、そもそも「批判」とは何かと問うキッカケにもなりましょう。

 では、さっそく始めていきましょう。

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