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東京の反逆――矢野利裕『今日よりもマシな明日 文学芸能論』への評

【書評】小峰ひずみ

せやな、もう五十年近く前のことになるけどな、あんたらも聞いたことある思うけど、このあたりは東京て呼ばれとったんや、いまでも東京人や名乗ってる人おるけどな、こいつらだけが東京弁、むかしのニホンゴやな、使こうとるわ、ま、和暦も西暦も使われてて、まだ天皇もおった頃やな、東の京都ちゅーくらいの意味やと聞いとるけどな、そうやな、時期はだいたい旧暦一九六八年あたりからか、大学解体ちゅー左翼運動があってな、東京にもたしか東京大学ちゅーのがあったんやけど、他の州と一緒やな、当時の学生が暴れてな、「解体か原爆か」ゆーて、大学をなくさへんかったら、街全体ぜんぶ原爆でやってまうぞー!ちゅー過激派の連中がおってな、ほんでその連中が原爆片手に、学者みんな引きずり出してバッサー殺していったんや、え、おう、その大学な、いまの仙台自治区らへんにあったそうやが、もうそこらじゅう血の海やで、教科書には載ってへんからあんたみたいに若いもんは知らんやろ、当時は文化大革命と呼ばれとって町中に「日帝打倒! 大学解体!」ちゅーポスターがワーッと張り出されとったんやで、ほんで、それに目を付けて大陸から人民解放軍来たやろ、これは知っとるな、そのときは原爆学生のほとんどは髪の毛バサ切ってザッと党員になりよってからに、なー、あいつらもほんまロクなもんちゃうで、まあ、そこらへんが潮目やったんやろうな、解放軍との戦争と戦後不況やろ、田舎から貧しいもん集めて都会の金持ちは肥え太る、近代主義っちゅーんか、資本主義っちゅーんか、ま、大都会のサダメやろうな、不況になったら、田舎もんは助け舟もあらへん、そうしてやせ衰えていく同郷の人間みて情が移ったんやわきっと、芸人さんたちがみんな同郷のもん囲って声上げよったんや、ほな、あいつらはパフォーマーや、アジテーションもようできよる、もともと東京の人間なんて少ないやろ、あれよあれよと選挙に勝って権力握って、いつのまにか、東京ちゅー街はなくなって、大阪州・仙台州・広島州・福岡州・北海道に五分割されてしもうた、まあ、ビートたけしが事故にあわずに生きとったら、東京の下町もんもなんとか持ちこたえて、東京州なんかになってやもしれんなー、うん、そこで思い出したんやが、最近、矢野っちゅー中学校の先生が書いた『今日よりもマシな明日』ちゅーニホンゴで書かれた本を読んでな、そこで町田康ちゅーニホン文学者を論じた箇所があってん、まあこの本は芸人アゲアゲの官製文書として吉本興業のお墨付きでな、図書館に大量に入れられとって中之島にも十冊くらい入ってたやろ、ま、それはええねんけど、そこで「ビート」の話が出てきたんや、わい、これ、おもろい思てん、「ビートになっていた」ちゅー表現が出てきて、つまり舞台ちゅー非日常のなかに立てばおのずと言葉が口から湧き出よる、自分が考えてしゃべっとるんちゃう、なんや自分が空っぽで他のものが己を埋めて勝手に口から言葉が出しよる、そのことを「ビートになっていた」と言い表しとる、まるでイタコやな、矢野は「琵琶法師」ゆーけど、まあ一緒やろ、そこで思い出すんが、ビートたけしや、ビートの部分が一緒やろ、でも、それだけちゃう、ビートたけしなんかもべらぼうなしゃべりでバイク事故で死ぬまで、みんな口そろえてコノ人ハナニカニ憑カレテイルヨウダてゆーてたんや、東海道戦争の総大将やった島田紳助も、テレビでしゃべっとることは収録が終ったらぜんぶ忘れる、ほんで家帰ってから自分の番組みて「ええことしゃべってるわー」て思うゆーてたから、まあ、それも「ビート」になってるちゅーことなんやろうな、言った傍から忘れるんやから責任もなにもありゃせぇへん、ほんでも、なんや共産党かのつながりが問題になってマツリゴトやめるゆーときの記者会見は「責任取ります」ゆーて、大阪弁やのーてニホンゴでしゃべっとったわ、ほんでなんぼなんでも番組の収録のときみたいに「覚えてなかったわー」ゆーことはできへんやろ、だから、それを機会にマツリゴトスパッとやめよってん、そのときはありゃこいつにも「責任」とか「近代的自我」ちゅーもんがちゃんとあったんやなおもたわ、そこでおもろいのは、いつもは大阪弁で自我もなくイタコのように憑かれたようにしゃべっとんのに、記者会見なったらニホンゴでほら「近代的自我」として「責任」とりよったことや、そこらへんが町田作品の登場人物とはちょっとちゃうとこやな、どういうことかというと、町田作品では登場人物の「目的」とか「動機」とかゆーもんが融解していくちゅーこっちゃ、たとえば就職面接なんかで相手の内面を探ろうとするとき「あんたの動機はなんですのん?」「あんたの目的教えてくれへん?」と聞くやろ、内面を立体的に知るための遠近法の消失点みたいなもんやからな、でも、町田の登場人物はその「目的」や「動機」を語ろうとすればするほど自分のイタコっぷり琵琶法師っぷりに引き摺られて、結局は「目的」「動機」を見失ってまうわけや、たとえば、働くちゅー動機をめぐってえろうなめらかに語ってもうて、気持ちようなって、なんでかしらん、「茶碗ウォッシャー」になってしもうた話、

「働く、たって、例えば、家の中を掃除する、とか、茶碗を洗う、犬小屋にペンキを塗る、植木に水をやる、なんてなことは、わたしは毎日やっているのだけれども、これ駄目なのであって、なんとなれば、そんなことをやったところで賃金を払う者がないからである。そらぁ、それ自体は立派な労働である。本来であれば賃金が派生してもおかしくない話ではあるが、現実には派生しない。なぜか。簡単な話であって、それらの労働によって、生じる価値を享受するのは、わたし自身及び妻であって、蛸ではないのだから、自分の足は食えぬのである。はは。ちゃんちゃらおかし。つまり、そうではなくて、例えば、赤の他人の家の茶碗、これを洗えばいいのである」

当たり前やけど、「働く」ちゅーても茶碗を洗うだけの「茶碗ウォッシャー」に市場価値なんてあらへん、矢野は町田作品の登場人物たちの特徴を次のような一文に要約しとる、

「町田作品に登場する人物たちは、なにも最初から、日常社会に背を向けているわけではない。そこで描かれているのはむしろ、社会的に生きようとすればするほど社会から遊離する主体であり、目標について語れば語るほど目標を手放していく主体である」、

ここでは紳助とちがって「社会的に生きようとする」側面と「社会から遊離する」側面を分けとらん、町田の登場人物たちは責任をとろうとすればするほど、自分の言葉に引き摺られて記者会見をコントみたいな場所にしてまう、「町田作品の語り手は、近代的な語りと琵琶法師的な語りが二重化されているのだ」、そやかてあんた、この人ら笑ろうたらあかんで、なんせ現実社会を生きるわいらはどっちかゆーと権力者の紳助ゆーよりも町田作品の人物たちに近いからや、なんせ紳助はテレビと現実をぶった切ることができるほどの力があったわけやけど、わいらは現実をテレビに合わせて作りよるからな、現実世界で芸人みたいに生きていかなあかん、町田はそんな状況を体現した作家や、矢野はゆー、

「現代の作家は、自分ならざる者の、自分ならざる言葉のなかにこそ生きている。ここには、周囲の関係性に合わせてキャラを憑依させてしまう僕らの悩ましい生き方が見出される。興味深いのは、僕らのキャラ闘争において参考にされる振る舞いが、テレビのなかのお笑い芸人たちのそれである、ということだ。言葉を駆動させる運動体としての、すなわち《芸人》としての語り手のありかたは現代性をもつ」、

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