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文学+WEB版
2022年2月10日 17:14
第三回 空虚/ナショナリズム/六八年 韻踏み夫 「“一人称”の文化」というテーゼは、ありうべき日本語ラップ史の成立を支える正当化の論拠として立てられつつ(第一回)、その論理自体はリズム論/グルーヴ論的な射程に開かれうるようなものであった(第二回)。しかし、それは当時、実際にはどのように受け取られたのだろうか。つまり、宇多丸の日本語ラップ批評がそのアクチュアリティにおいていかなる政治性を持ってい