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2022年1月の記事

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過去記事は有料です。 2022年1月の記事を格納しています。 ①【文芸時評・2月】『文學界』から干されたオレがなぜかまた文芸時評をやっている件について(第八回) 荒木優太 ②【文…
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耳ヲ貸スベキ!――日本語ラップ批評の論点――

第三回 空虚/ナショナリズム/六八年 韻踏み夫  「“一人称”の文化」というテーゼは、ありうべき日本語ラップ史の成立を支える正当化の論拠として立てられつつ(第一回)、その論理自体はリズム論/グルーヴ論的な射程に開かれうるようなものであった(第二回)。しかし、それは当時、実際にはどのように受け取られたのだろうか。つまり、宇多丸の日本語ラップ批評がそのアクチュアリティにおいていかなる政治性を持っていたのかということである。  端的に言って、「“一人称”の文化」などということは、

フィクションを「ケア」することは可能か(1)

フィクションの感触を求めて(第二回) 勝田悠紀 0.はじめに  「ケア」という言葉を頻繁に目にするようになった。さまざまな文脈でこの概念が取り上げられ、語られている。  そのきっかけのひとつとなったのが、昨年夏に刊行され、すでにこの媒体でも取り上げられている、小川公代の『ケアの倫理とエンパワメント』(注1)である。タイトルにある「ケアの倫理」は、義務論や帰結主義といった既存の学説にかわる倫理観で、1982年にキャロル・ギリガン『もうひとつの声』によって提唱された。『ケアの

文学は誰に向けて書かれているのか?

文芸批評時評・1月 中沢忠之 『文学+WEB版』を始めて半年がたった。月平均8000ビューのカウントがあり、まずまず読まれているのではないか。ひとえに寄稿者のおかげである。思えばコロナ禍でなければ始めてみようとは思わなかったかもしれない。毎週末浪費していた飲み代がかからなくなり、なんとなくやれそうな雰囲気を感じ、結果的に稿料などの開店資金を支えてくれたのだった。今年はどうだろうか。とりあえず1年やってみて考えたい。いずれにせよ寄稿者がいなければ成立しないのだが、とくに時評は傷

『文學界』から干されたオレがなぜかまた文芸時評をやっている件について(第八回)

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