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『雨滴は続く』 西村賢太 1

「文學界」で連載され、最終回執筆中に著者が急逝したために未完となった、西村賢太さんの『雨滴は続く』(文藝春秋刊、488頁、定価2200円)が単行本にまとまりました。
後年の西村さんのキャラクターは広く知られていますが、本作に描かれているのは、それが確立される以前、小説家としてデビューする前後の北町貫多=西村賢太の姿。何者かになろうともがく貫多の、言わば”遅すぎた青春”篇です。
 発売を記念して、1章から4章までを順に無料公開いたします。



 このところの北町貫多は、甚だ得意であった。

 元来、と云うか、生まれついてこのかたの不運続きで、三十七歳と云う年齢を虚しく経ててきた彼にとり、それはかつて味わったことがない昂揚であり、覚えた様のない心境でもあった。

 ―ことの起こりは、二箇月近く前に届いた一通の葉書である。文豪春秋の文芸誌『文豪界』編輯部から届いた一通の葉書である。

 その仁羽と云う編輯者によるところの短文は、貫多の作品が二〇〇四年度下半期の〈同人雑誌優秀作〉に決定したことを伝えるものであり、ついては該作を『文豪界』の十二月号に転載するので追ってゲラを送付、訂正箇所を手直しした上で早急に戻して欲しい、との意の文言が続いていた。

 貫多も、この転載の〝制度〟のことは知っていた。はなは昨年の夏、同人雑誌に加入したのちに、その主宰者から知らされたのである。

 何んでも現今の、いわゆる純文学雑誌五誌のうち、〝同人雑誌評〟のコーナーを設けているのは『文豪界』一誌のみだそうで、そこでは四名の選者が〝今月のベストファイブ〟として、印象に残った作を五本挙げるらしかった。

 そして半年ごとに計三十本の作を〝候補作〟とし、うち一本を半期の優秀作に定めるそうであったが、するとそれは『文豪界』誌に全文転載と相成るのが長年の慣らわしになっているとの由。

 更に主宰者が続けたところによれば、

「今現在、同人雑誌は小説誌だけでも全国に六百誌ぐらいあって、そのうち毎月百冊近くが『文豪界』に送られてくるらしい。一冊に平均五作が載っていたとしても月に五百作だから、ベストファイブに入るのは、これは容易なことじゃねえんだよ。その上、半年なら三千作にまで膨れ上がっから、この中で優秀作に選ばれるには、よっぽどのものを書かねえと、とてもじゃないけどね……」

 と云うことだったが、このとき九十歳になる主宰者は、元は江戸川辺のペンキ職人であり、その傍ら若い頃より同人雑誌活動を継続し、昭和三十年代には『新日本文学』にも創作を発表して、今も尚、自身の雑誌に毎号短篇を書き続けている人物だった。すでに十年程前に〈同人雑誌優秀作〉にもなって転載を果たし、以降はかのコーナーのベストファイブ入りの常連組であることが何よりの誇りであるらしく、そうした自らの〝業績〟を語る際には、

「一回、優秀作に選ばれっと、あとは二度目を許してくれねえんだから、いつもこっちはよ、どんだけいい作を書いてもベストファイブ止まりなんでイヤになっちまうよ」

 と、巻き舌で付け加えるのを忘れなかった。

 ところがそんな話を再三聞かされたあとに、貫多がその主宰者率いる『煉炭』という雑誌に初めて載せてもらった駄作は、三箇月後の件の〝同人雑誌評〟コーナーであっさりベストファイブ入りになった。

 これを妙に上ずった声による主宰者からの電話で知らされた彼は、とりあえず駅前の新刊書店へ行って、該誌を手に取り評文を読んでみたが、その時は一寸したうれしさは覚えたものの、そう得意を感じるまではいかなかった。

 思わぬ高評を貰ったかたちではあるが、しかしそこでいくら褒められたところで、商業誌に転載されて、より多くの目に触れない限りは、これにはさして意味もない―と、やけに〝転載〟に重きを置くかのような考えかたをしたが、しかしながら、貫多は昔から小説―殊に私小説を読むのを何より好みながらも、自らが書き手となるのを目指そうとの、馬鹿な、或いは大それた希望はてんからしてふとこっていなかった。

 子供の頃に横溝正史の探偵小説を貪り読んでいた時分は、将来は推理作家になろうかと莫然と夢想したこともあったが、それはどこまでもその以前に、日本ハムファイターズの選手以外に自分の就く職業はなしと頑なに信じ込んでいたのと大差のない、ただの囈言にしか過ぎぬ。

 そもそも、貫多が同人雑誌に入ってみる気になったのは、別段小説を発表したかったわけではない。自身の敬する大正期の私小説家、藤澤淸造に関する雑文を載せてゆこうとの目的のものであった。

 それより遡ること八年前の二十代の終わりの年に、自業自得の暴力沙汰で起訴された彼は、周囲からすっかり四面楚歌の状況になっていた。僅かに相手にしてくれていた者もすべて去り、見事なまでに何もなくなった苦し紛れで、以前に一度読み、それなりに魅かれるところのあった藤澤淸造の私小説を再読したところ、今度はその一言一句が異様に心に沁みてしまった。

 生き恥にまみれつつ、決して上手いとは云えぬ創作を意地ずくで続け、果ては性病由来の脳梅毒で行き倒れ不様に死に恥までもを晒した該私小説家の作を、古書展や古書目録を猟り掲載誌で一つ一つ探して読むことは、往時貫多の唯一の慰めであると同時に最高の娯楽でもあった。

 ダメ人間がダメ人間に魅かれる典型みたいな塩梅式で、彼はこの私小説家の〝歿後弟子〟となることを自らに課し・・・・・、根が思い込みの深い質でもあるだけに、やけにその点については思い詰めた。そして勝手に思い詰めた挙句、〝師〟の無念を晴らすことだけが、向後の自身のただ一つの目標にもなっていた。他にはもう、己れの人生も含めて何に対しても熱意を持てなくなっていたのだ。

 で、差しあたり貫多が〝歿後弟子〟として取りかかれることと云えば、かの私小説家の完全網羅に近い全集の自費出版と、できる限りの詳細な伝記の作成である。

 共に先立つものは金であり、肉筆資料一つ入手するのも地方へ二、三日調べ事に行くのもすべて金が不可欠だから、これは完全に人生を棒にふる覚悟を固めなければ、到底成し遂げることはできぬなりゆきである。

 その辺りの腹はすっかり括ることができたが、それと同時に、自らも藤澤淸造に関する文章を書き散らす必要を痛感した。該私小説家の参考文献が編まれた際に、そこに自身の淸造に関する文章が数多記録されていなくては、〝歿後弟子〟としては一寸格好がつかぬことになると思ったのだ。

 それ故、貫多は本来の眼目たる伝記とは別個に、その種の文章を書きまくらなければならない焦りに駆られた。が、悲しいかな馬鹿の中卒で何んのコネも持たぬ彼には、これを散発的にも発表できる場所の当てはまるでない。インターネット上の利用は、そも彼はその操作の仕方を全く知らぬ。なれば残されたフィールドは時代遅れな同人雑誌の世界より他はなかった。

 と、それだけの理由で、年間六万円もの会費を要する、かの『煉炭』に参加したのである。

 先にも云った通り、主宰者は九十歳の大高齢者であったが、矍鑠として、よく神保町にも足を運んでいた。

 貫多は、古書街の裏路地の一画に事務所を構えている、目録販売専門の古書肆「落日堂」で手伝いのようなことをしていたが、主宰者はここの長年に亘る常連客の一人であり、出版も手がけているこの古書肆からは、何年か前に作品集も刊行していた。

 従って貫多とも顔馴染みであることから、その入会もきわめて自然な流れで認めてもらえたのだが、それから程なくして、彼が初めて提出してみた原稿は自分でも思いもかけず、小説風の体裁をとってしまったものであった。

 先年に、藤澤淸造の老朽した木の墓標―すでに取り払われ、能登七尾の菩提寺の本堂の、その縁の下に収納されていたところの墓標そのものを懇願を重ねて譲り受け、新宿一丁目の自室に運んだキ印じみた顛末を記した内容であり、いずれは淸造の伝記中の没後項目にでも組み込むべく机の抽斗にしまっておいたものだったが、読み返してみると、キ印的とは云え、何んだか小説風でもあり、またその旨の感想を洩らしてくれる者もいたので、ならばと、も少し読み物的に書き改めて、おそるおそる『煉炭』誌に提出してみたのである。はな淸造の作品論を、と身構えたはいいが、提出期日が近付くにつれ、何やら書きあぐねてしまった状況でもあった。

「墓前生活」なる、しかつめらしい題名を付した六十枚のこの作は、たかだか十数人程度にしか読まれぬ同人雑誌上ではあるが、とあれ貫多にとっては小説まがいの文章が活字になった初めてのものとなった。

 イヤ、それ以前に田中英光の研究小冊子を作っていた十年以前の頃には、二年で八冊と云うハイペースで出しているうちに書くことがなくなってしまい、仕方なしに英光風の短篇もどきを二つばかり書いて、臆面もなく載せておいたことはあるにはあるのだが、しかしこれは習作ともいえぬレベルの全くの愚文であり、元よりノートの隅の落書きじみたものだから、数のうちには入れられぬ。

 で、そんなにして、何かそのときどきの目先の流れに流される格好ながらも、まずは所期の目標の一つに取っかかりを付けた貫多は、あとは初手の目論見に沿って『煉炭』誌の半年に一度の刊行毎に淸造の外伝なり作品論なりを書き続ければいいだけのことだったのだが、そこで根が案外の調子こきにできてる彼は、一寸した慾みたようなものが出てしまった。

 恰度その頃に主宰者から、またぞろ頻りと先の〝半期優秀作〟と〝『文豪界』転載〟の話を聞かされた為もある。またそれを述べる先様の口ぶりに、何か引っかかるものを感じた故の反発めいた感情も確とあった。

 そうだ。それはあながち根が猜疑と邪推の塊にでき、曲解と歪んだ忖度の名手にもできてる貫多の思い過ごしだけではない。かの主宰者は、それを述べる際に、「選考の人たちも、書き手が若きゃあ、なんでもいいっていうのは困ったもんだ」とか、「北町君なんかもまだ若けえんだから、この調子で書いていけば、そのうち転載されるかもしれないぞ」とか、いかにも苦々しそうに、ほき出すように言っていたことからも、その主宰者にとってトーシローはなかなかに採り上げられぬ神聖なる〝同人雑誌評〟の場で、いきなりズブのトーシローの貫多が好評を得たことは俄然面白くなかったのだ。

 それが故、あの田中英光の出世作が載った『文豪界』誌に、あわよくば自分も一度創作を載せてみたい子供っぽい名誉慾に、この主宰者に対する反感が加わった貫多の『煉炭』誌第二作は、畢竟露骨なまでに〝半期優秀作〟狙いで仕立てざるを得なかった。

 読み手(同人雑誌評の四名の選者のことだが)の存在をヘンに意識し、ともすれば独りよがりで鼻白まれるだけの藤澤淸造と云う特定作家に関するエレメントは一切廃すと云う、貫多なりの姑息な計算を存分に働かしたものである。

 二十五歳時の最初の暴力事件によって叩き込まれた、都合十二日間の留置場体験を綴った内容で、「春は青いバスに乗って」なる横光利一の名篇をもじった題を付したところのこの作は、はな貫多としてはえらく自信満々の一作でもあった。

 尤も根が文章を書くのがどこまでも不向きにできてる貫多は、この八十五枚を仕上げるのに大いに手間取ってしまい、一応設けられていた提出期日を一日過ぎただけで、かの主宰者から電話口で声を荒げられ、

「ほかの同人のみんなに迷惑がかかるのは困るっ! 『煉炭』は君を中心に活動しているんじゃないんだぞっ!」

 なぞ云う陳腐なイヤ味を投げつけられながらも、間違いなくこれが年末には〝半期優秀作〟に選ばれるであろう根拠のない自信をふとこっていた彼は、尚も平身低頭で頼み込み、さらに数日を経てやっとのことで書き上げ、誠意を見せる為に原稿を千葉の検見川の主宰者宅にわざわざ持ってゆき、著者校は彼だけ印刷日の当日に、新小岩の町工場内の一隅にて行なったものだった。

 そして、かような印刷所での著者校と云う〝小説家ごっこ〟的な一幕も挟んだせいか、貫多はいよいよ該作が転載作へのロイヤルロードを突き進んでいる確信を覚えていたのである。

 だが、彼にとっては意外なことに、また傍目から見れば至極当然なことに、それはどこまでも馬鹿馬鹿しい錯覚にしか過ぎず、翌月だか翌々月だかの〝同人雑誌評〟で、『煉炭』誌の他の収載作は採り上げられていても、彼のその自信作はまるで黙殺されると云う、この当たり前と云えば全く当たり前の事態に、根が異常に自己評価の高い質ながら、一方の根はクールなリアリストにもできてる彼は、いっぺんに現実世界へと引き戻されてしまった。

 なのでもう、身の程もわきまえぬ小説の真似事じみたものを書くのは一切やめ、やはり初手の目的のみに邁進することとした。どうで彼の束の間の〝創作意慾〟は一時の気の迷いと云うか、瓢箪から幾つ駒が出てくるかを試してみただけの、一場の遊興みたいなものだったのである。

 ところで貫多のこの二作目の、ちょっとも擦りもしない見事な三振ぶりは、他の同人たちには随分とお気に召したようであり、そうなると前作を含めての悪評が彼の耳にも洩れ伝わってきた。

 かの同人たちと云うのは十四、五人程度の集まりであったが、皆一様に六十歳を過ぎた高齢者ばかりで、元教職者や元銀行員なぞインテリ層のリタイア組も多く、中にはすでに数十冊の自著を持つ人物も混じっていた。

 但、貫多がその多くと面識がないと云うのは、偏に月に一回行なわれている同人会に殆ど足を運ばなかったことによる。

 何しろそこでの話と云えば、直近の芥川賞受賞作の批判である。現今の小説や文芸誌を全く読まず、その賞の最近の受賞者も受賞作もまるで知らぬ貫多には、その手の話柄は退屈でたまらなかったが、よし口を挟む余地があったとしても、結句は妬みと嫉みの世界だから、馬鹿馬鹿しくなってすぐにソッポを向くことになろう。仮令その同人たちが言う通り、槍玉にあげられた新人作家の作がどんなにつまらなかったとしても、少なくともその同人の作よりかは、はるかに読ませるものであるに違いない。

 殆ど文盲に近い貫多の目にも、いったいに同人雑誌を主戦場にしている人たちは、文章は滅法に上手いと思う。何んとも国語の教科書通りの行文で、読み易いことも確かである。

 そして『煉炭』誌もそうだが、同人雑誌全般としてもその作は圧倒的に私小説が多いらしいものの、しかし肝心の内容がさっぱり面白くないのだ。無論、これは貫多は自らのことを完全に棚上げにしての感想なのだが、内容がちっとも、ひとつも面白くないのである。

 それだから会合の話題が、何んだか創作の方法論みたいなものに移っても、それらは実に安っぽい、どこかで聞き齧った言葉からの受け売りを並べ立てているものとしか聞こえず、かつ、そんな猫に小判的な議論がどうにも片腹痛くて、貫多はこんな会合ならば、とてもではないが電車で一時間以上もかけて検見川くんだりまでくる必要は感じられなかった。

 で、そんな彼の内心の不遜は自ずと表情にも浮かんでいたとみえ、もともと見た目が小説なぞ読みそうもないタイプの、土方ヅラした貫多の存在は同人の間でも浮き上がり、それまでの二作中で記した「私」の冴えない経歴と、些か異常者風の作中主人公の言動から妙な色眼鏡もかけて見られたらしく、陰でイヤ味やら全否定やらを散々に囁かれていたようだ。

 だが、「あんなのはとてもじゃないけど、私小説としては読めない」だの、「一作まぐれで褒められただけで、もう小説家気取り」だのとこき下ろされたところで、貫多としてはその者たちの作よりかは、自分のヘボな駄文の方が何を云いたいかが明確な分だけ、いくらかはマシであろうとの野暮な自負をふとこっていた。

 主宰者についても、落日堂やその他の場で会って話をしていた頃は、小説好きの好々爺然としていたが、同人会では座の中心者として、些か反りかえった格好になっているのが慊かった。

 尤も貫多は、先述の如くこの同人雑誌に入ったのは何もこの主宰者の作に共鳴を覚えての、と云う要素は一片もない。この人の作も正統派と云うか、いかにも王道スタイルの私小説であり、そのうちの幾つかは彼も読んでいて作中世界に没入しながらページを繰った作もあるにはあった。けれど別段この人に、私小説の作法については何一つ尋ねてみようと云う気は起こらない。

 ただ、その生年である大正三年―これは貫多が藤澤淸造は別格として、葛西善蔵、川崎長太郎、田中英光と共に自身の内で〝私小説四天王〟として挙げる北條民雄と同じ年の生まれであることには大いなる敬意を抱いていた。件の主宰者は亀戸の北十間川のほとりの生まれ育ちだったが、恰度北條民雄も昭和四年に上京したのちには亀戸にも転居をしている。

 無論、主宰者と北條民雄との間に何んら直接の関係はないが、とは云え、全く同時期に同じ地域で生活していた同年の人と云う事実は、根が単純素朴にできてる貫多には、これはとてつもなく貴重な符合であるように思えた。また藤澤淸造も昭和の初年期ならば存命であり、小銭を得れば亀戸の私娼窟を彷徨していたことは本人の筆のみならず、同時代の作家の回想記にも描かれているところだ。

 だからこの主宰者は、貫多の敬する私小説家たちと同じ時期に同じ場所の空気を吸っていたと云うその一点だけで、やけにこう、仰ぎみる存在であったことには違いないのだが、しかしそれも、よくよく考えてみれば藤澤淸造や北條民雄の小説味読の上ではまるで役にも立たぬ、無意味なこじつけに過ぎぬ話ではある。

 なので彼はこの時点で、もう『煉炭』から抜けるつもりでいたのだが、しかし、ただこのままアッサリ脱退するのも、これはちと業腹である。

 根が生まれついての負け犬にできてる貫多と云えど、一方では負け犬には負け犬なりの意地の通しかたと云うのもある。

 どうで脱けるのであれば、最後に彼なりの歪んだ置き土産として、それぞれに腕にはおぼえがあるらしい、その潔癖な同人連中が心底イヤがりそうな、うんと薄っ汚ない作をものしてやりたいという思いが、どうにも抑えられなくなってしまった。

 最早、例の〝転載〟なぞは考える必要もないから、そこは遠慮なく藤澤淸造のことも作中に絡められる。先の同人の陰口を引くなら、「小説家気取り」で読み手に親切さを心がけることも、もう一切合財不要なのだ。

 それで半月ばかりかけて百二十枚のものを書き上げ、「けがれなき酒のへど」と云うつまらぬ題も付したが、尤もページ割負担で四十枚分までならば会費内でまかなえるところ、その三倍の超過ページ分たる五万円近くも別途に支払ってまで仕上げた辺り、これは貫多としても書いているうちには単に負け犬の意地のみだけではない、或る種の楽しみめいたものを感じていたことは確かであった。

 そして奇妙なことに、慾を捨てた途端、覿面に、と云っては何んだが、該作は〝同人雑誌評〟でも採り上げられて、難なくベストファイブにも入った。但、そのときは別の書き手の作が長文でえらく評価されていて、貫多は次点のような格好で僅かな行数の言及に止どまっていたし、他の五箇月分の号には恐らくそれ以上に印象を残した作もあるだろうから、やはり〝転載〟のことは完全に脳中から消し去っていた。それも、至極当然のことである。

 ところが案に反し、突如『文豪界』編輯部より、先に述べたところの葉書が届けられたから魂消てしまったのである。

 早速に貫多は、編輯部から指示された通りに自らの顔写真を用意し、届けられたゲラに手を入れた。

 それを戻して三週間ばかりが経った頃に『文豪界』誌の見本が郵送されてきたが、貫多の作は創作欄のどんじりに、一段が三十字の二十八行と云う、これ以上詰めては組めぬであろう究極のレイアウトのもとに載っていた。大正期から昭和初期にかけては藤澤淸造とも関係が深かった文豪春秋の、そしてあの田中英光や川崎長太郎も書いていた『文豪界』にまさかの自作が載っている事態は、そうして改めて見ると、一寸異様な感慨があった。

 翌日からは、その掲載誌をやたらに買い集めた。それも一度につき、一店で一冊ずつを購める奇妙な手間のかけかたをしたが、これはかつて自分が夏場に涼を取ったり、さんざ立ち読みさせて貰った各エリアの大型書店で、自作の載った文芸誌を各自ウットリ眺めたかった為である。

 結句十五冊程も買い集めて、自室や飲み屋でも飽くことなくひねくり、眠るときには枕頭にさえ置くと云う、三十七歳の中年男としては甚だ不様な自己陶酔ぶりも発揮した。半ば投げやりに書いた作でも、こうして『文豪界』で活字になってみると、何か格別に出来の良い文芸作品であるかのような錯誤があり、またその幻想は彼の心中に得も云われぬ快よい感触をもたらしていた。

 だが、それでいながらまだ貫多は、何もその一事で冒頭に述べたような得意の心境になっているわけではなかった。イヤ、少なからずその種の気分に陥ったことは否めないが、しかしそれは、そう持続することなくすぐに立ち消えになっていたのである。

 何んと云ってもこんなのは、所詮はこれで終わる性質のものなのである。ベストファイブだの〈同人雑誌優秀作〉だのと云っても結句は団栗の背比べで、のど自慢レベルの素人コンクールに過ぎない。

『文豪界』の該コーナーは昭和二十年代から続いているそうだが、現在の選者体制になったと云う昭和五十六年以降でも、〈同人雑誌優秀作〉の書き手は上半期と下半期で年に二人が選出されている。即ちこの二十三年の間に四十六名が転載を果たしている計算だが、そのうちで以降も商業文芸誌で筆を執る機会を得ている者は五指にも充たぬ有様とのこと。現に『煉炭』誌からも、過去には件の主宰者と、他にもう一人も選出されているが、依然として現在も同人雑誌作家のままである。

 だから当然に貫多もまた、これら死屍累々・・・・(とは、あくまでもそのときの貫多の主観によるが)の一人として、何事もなく終わるのであろうし、それはそれで彼としても何んら不服も未練もないことだった。

 束の間の昂ぶりと共に、彼は『文豪界』から十万円の〝奨励金〟を貰った。百二十枚の作なので、一枚当たり約八百三十三円のかたちとなる。同誌の記事中で瞥見したところの〈文豪界新人賞〉の賞金に比べれば随分と安いが、無論これにも不服はない。どころか、この臨時収入のおかげで『煉炭』誌の方の超過ページ分を払え、十五冊の『文豪界』誌代金も充分に埋めることができたのだから、ありがたい話である。

 が、しかし―更に思いもよらなかったことには、貫多の作の載った『文豪界』十二月号が、そろそろ次の号に切り換わろうかと云う頃合になって、突然購談社の『群青』誌から連絡がやって来た。

 良かったら一度来社を、とのその誘いを彼は二つ返事で承諾して携帯電話のフタを閉じたのちに、しばし茫となった。

 そうは云っても、やはり貫多は私小説と云うものが何よりも好きなのである。先にも云ったように、これまで現今の書き手の作や文芸誌はただの一字も読んではいなかったと云い条、私小説に対する敬意は人並み以上に持っていた。

 その私小説を発表し得る、プロの舞台の一つから連絡が来たこと―即ちこれが貫多をして、ここ最近を甚しく得意の心境に至らせしめているところの直接の因であったと云うのである。

 そしてその貫多は、かつて味わったことがない昂揚の中で、これまでの三十七年の人生で何一つ認められた様のなかった自分が、初めて他者から目を向けられた気分にもなっていたのである。

 かつ、この状況は今現在迎えている慢性的な女旱りの、何度目かの渇えのピークを暫時忘れさせる作用すら及ぼしてもいたのだ。

                                <つづく>



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