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アンディ・ウィアー『火星の人』に見る人間讃歌

※『火星の人』および映画『オデッセイ』のネタバレを含みます。


つい先日、アリストテレスを読む!と意気込んでおきながら、アンディ・ウィアーの『火星の人』を読んでしまった。

もちろん『ニコマコス倫理学』は並行的に読み進めているのだが。
果たして一体何故なのか、「これを読まなきゃ」と思えば思うほどよそ見をして他の本に手を伸ばしてしまう。
しかもこの状況下での読書がよく進むこと進むこと。脇道読書が一番集中できるのは実に不思議だ。

『火星の人』と言えば、2015年にリドリー・スコット監督の映画『オデッセイ』は観たという人は多いのではないか。
僕も映画館に観に行った。

主人公マーク・ワトニーを演じたマット・デイモンが『インターステラー』で遠い宇宙の惑星に独りぼっちになったばっかりだったので、当時の視聴者はみんな「お前また惑星で独りぼっちになったの!?」と思ったものだ。

そう、『火星の人』は主人公がたった1人で火星に置き去りにされてしまうという話である。

火星にはある程度の食糧はある。水や空気を供給する機械もある。しかし無限というわけじゃない。無為に日々を過ごせば、何日後に餓死するか計算が立ってしまう。
そこでマーク・ワトニーは考える。水を作る方法は?地球と交信する手段は?食糧を増やすことは可能か?

このストーリーのシンプルさがこの物語の強みだ。
「火星で独りぼっち。果たしてどう生き延びる?」ただこれだけ。
シンプルなほど物語の推進力は強い。
地球から助けは来るのか?それはいつ、どのような手段なのか?それまで生き延びるためにはどうすればいい?
「生きる」ことを目的とし、主人公は次々に解決すべき問題に取り組んでいく。時には(というかほとんどの場合で)リスクを冒さなければならない。

問題の洗い出し、優先順位の精査、プランの立案、テスト、実行、さらにそこで起きるトラブルへの対処。こういう整然としたプロセスが好きな人にはたまらないんじゃないかと思う。
個人的には、仕事への取り組み方の良い見本だと思ったりした。こりゃどうしようもないな、と諦めてしまう問題も、一つひとつ小さな問題に分けていくことで解決の糸口を見つけることができる。重要なのは思考を止めないこと。アイデアを出し続けること。その中には失敗することも含まれる。

こう書くと淡々とした情緒のないSF小説と思ってしまいそうだが、まったくもってそうではない。これが面白いポイントだ。

主人公マーク・ワトニーは、ザ・陽気なアメリカ人なのである。

なにしろ火星で一人きりだ。重苦しく、逼迫した、暗いストーリーテリングになる……かと思いきや、この主人公はずっと軽口やジョークばっかり言っている。そのために驚くほど明るい読み心地だ。
とにかく読みやすい。主人公が記述した日記形式なので文章が口語調というのももちろん大きい。
もし『近代日本文学版火星の人』があったとしたら、孤独に苛まれ発狂するか、自我と葛藤し続けるかするだろう。

これほどの極限とも言える逆境に身を置いてこのポジティブさは超人的とさえ見える。
主人公は決して諦めずに考え続ける。不貞腐れたり、投げやりになったりすることをしない。
最初は陽気な奴だな〜と思っていただけだったのが、読み進めていくうち、その姿勢に感動さえ抱くようになる。

そして彼を救うために奮闘する地球の人々の描写についても触れておく。
たった1人の人間を助けるために、おびただしい数の人々が昼夜問わず汗水を流し、莫大な資金を掛け、国境さえも超えて力を合わせる。
何故、地球の人々は彼を見捨てないのだろう?
それに見合う見返りがあるのか。いや、そんなものはない。
困っている人を助けるために努力を惜しまない。それが我々に元から備わっている人間性だと著者は言っているのだ。

現実世界で同じことが起きるかどうか?

改まって考えてみればとても大きな問いかけだ。僕たちが属しているこの世界は、遥か遠くのたった一人を救うために犠牲を厭わないだろうか。
これは所詮フィクションだ。答えはわからない。
でも人間はこの物語と同じように手を取り合うのかもしれないと考えると、とても明るい気持ちになる。本当にそうかもしれないし。そうだと良いなと思う。

読み終えてこれ程前向きな気持ちになった読書は初めてかもしれない。
マークの姿勢を見てしまうと、ちょっとした日々のトラブルで機嫌を悪くするのがバカバカしい気になってしまう。冗談でも言ってさっさと問題を解決しようという気になる。
そしてまた、この物語に描かれる地球の人々を見て、世界は割と捨てたもんじゃないかもしれないと思う。

生きる希望を捨てない姿。
人が人を助けようとする姿。
まったく、遠い火星を舞台にしたSF小説で、なんて単純な構造なんだろう。そりゃ胸に響くよ。

それはそれとして、映画化する前に「火星の人」ってタイトルでこれを読もうと思った人、すごくない?無味無臭すぎて手を出せないよな、「火星の人」だぞ。今はマット・デイモンがこちらを見つめてくれているから良いけどさ。

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