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賤しかったのはわたしの目。


「職業に貴賎なし」

わたしはこの言葉を長らく自分の言葉にできなかった。

初めて聞いたのは、たしか高校生の頃だったと思う。

漫画家に、記者に、編集者・・・子供の頃から変わらず飽き性だから、職種すらコロコロ変われど、一貫して「発信する仕事」を望んできた。

あらゆるエンタメ、人の精魂込められた創作物がすきで、クリエイティブ色の強い職業に惹かれるわたしにはどうしてもすべての職業が等しいものだとは思えなかった。

働くようになってからも、それは変わらなかった。

(結局わたしは「りぼん」も月9も作れなかったけれど・・・(笑))

社会に出て、今まで聞き慣れなかった「やってる感」「見せ方」という言葉を知った。

お客さんを安心させるため、自分がやりたい仕事をとっていくため。「やってる感」や「見せ方」はサラリーマンサバイバルにおいて想像以上に効力を持っていた。

そうだよね、相手への「伝わり方」ってすごくすごく大事だもんね、と思う一方で。

決してごまかしが通用しない分野で戦う人、0→1で「つくった人」がいちばん“えらい”という気持ちは、むしろ強くなる一方だった。

暑い中、生ゴミのにおいがきつくなるゴミ捨て場で、背中を丸めながらビニール袋を懸命にしばる白髪のおじちゃんと会って「お疲れ様です」と口にするときの私の心情は、「ありがとうございます」よりも、きっと「こんな仕事はしたくない」という失礼な気持ちが勝っていた。

(話はちょいと逸れるが、この間の隅田川花火大会の翌日は本当ーにひどかった。BBQ用のコンロなんかがそのまま捨てられていて、ネットで目にする汚染された海岸よりもショッキングな状況だった。)

このおじちゃんがいてくれるから、明日の朝、ここに来てもごみがない。けれど。

「職業に貴賎なし」

そう思いたいのにわたしには思えない。それはきっと私が未熟だからなんだろう。けれど、思えないものは仕方ないと諦めていた。

それがこの頃、人のえらい・えらくないを決めるのは職業ではない、とはっきりと断言できるようになった。

理由ははっきりとわからないけれど、たぶんこの頃少しずつ、「作り手」に近い仕事が増えてきて、とてもいい意味で余計な幻想が消えたからだと思う。

誰かの「仰せの通り」に従って楽な方に逃げていないか。本当に「どっちでもいい」のか。情報の受取手を舐めていないか。

大事なのは「職業」ではなく、その人が目の前の仕事に対してどんな態度で向き合っているかだ。

そんな、ごくごく当たり前のこと。わかっているつもりでも、わたしはわかっていなかった。今まで「職業に貴賎なし」を信じられなかったのは、自分自身が本質を突き詰めることを怠り、自分のしていることに自信がなかったからだと思う。

職業なんてものは、していることをわかりやすく伝えるための、単なる肩書きに過ぎないのに。サン=テグジュペリ大先生からげんこつをくらってもいいほど、目に見えるものばかりを気にしていた。

「そこじゃなーい!」とあの頃のわたしに言ってあげたい。

「どんな職業でもクリエイティビティは発揮できる」と言うように、もしもゴミ収集のおじちゃんがおじちゃん自身の頭を使って、「いかに早くこの現場を終えて帰れるか」を考えたり、「大きさの違う段ボールをバラけずに早く運ぶ方法」を知っていたら、やっつけ仕事をこなすだけの名だけクリエイターよりも、よっぽどクリエイティブな仕事をしていると言えるだろう。

そもそも他人の職業に対してとやかく言うべきではないのだけれど。やっぱり誠実な人がすきだな、という話でした。

今度ゴミ捨て場でおじちゃんに会ったら、「お疲れ様です」と前よりも晴れやかな気持ちで言える気がします。

他者を否定せずに、肯定できる強さを持っていたいなぁ。

わたしが二週連続で「仕事」をテーマに書くだなんて・・・仕事のことで頭がいっぱいになる生活なんて絶対にいやっっ!と思いつつ、今はそういう時期なんだろうと納得しています。

みなさま、よい週末を!(今日はトイストーリー4を観るよ~~!)

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