見出し画像

「ごめんね」は続いていく(3月14日~3月20日)

3月14日(月)晴れ

週末、ドライブやらBBQやらで花粉を吸い込みまくったせいか、朝起きた瞬間に目と鼻がやられている。生理休暇ならぬ花粉休暇が欲しい。

夜は、彼が働く宿にワーケーションツアーの一環で宿泊していたお客さんたちと焼き鳥屋さんへ。個性が光る3人のお客さんは、脚本を書いたりエッセイを書いたり写真を撮ったり、皆何かしら表現活動をされていた。素敵なものを創る人は素敵だ。たっぷりのユーモアと優しさは、笑顔の裏に潜む、知識と努力の蓄積によって支えられているのだろう。かっこいい大人たちだったな。

3月15日(火)晴れ

時々、ふと自分の偏りと想像力のなさに気付かされて、ガクッとする。人間の凸凹とした、クセのある部分が、私は愛おしく、”面白い”と思ってしまう。それは私自身が自分の歪さを友達に笑ってもらえると安心し、自分もまた、辛かったり悲しい出来事を笑い話に転換することで生きてきたからなのだと思う。たまたま私がそういう性質なだけだ、ということを繰り返し自分に言い聞かせたい。

「自分にはしてもいいけど、他人にしてはだめなこと」がこの世にはごまんとある。でも、そんなことってあるだろうか。他人を傷つける可能性があることは、自分にもしない方がいいのではないか。でも笑い話にしてしまう方が私はずっと楽・・。わかっているならいいのかな。うーん、悩ましい。

夜は、岡山に来てからすぐに友達になったお姉さんとその婚約者さんと彼と4人で、ずっと行きたかったイタリアンへ。好きな人が幸せそうだと、こんなにもうれしい。お互いが自立し、お互いの状況を想像し、話し合い、二人揃って幸せになるための選択と覚悟をしている。お互いの目を見て話す二人は、とても凛々しく美しかった。

これからも、末永く関わり続けられたらいいな。諸行無常が現実でも、「どうか、これからもずっと」という願いは尊いものだと思う。

3月16日(水)晴れ

彼から2日遅れでもらったホワイトデーのプレゼントは(彼にはなんでも正直に話すクセから、「昨日は何の日か知ってる?」なんて聞いてしまった)なんと、「おはぎ」だった。

みずみずしく艷やかなもち米に、ふっくらとしたつぶあんがお布団みたいにやさしく被さったおはぎ。あぁ、お豆って愛おしい。肝心のあんこから手作りで、今まで食べたどんなあんこよりもおいしかった(本当の本当に。とらや超え)。「あんこには作り手の人柄が出る」としか思えないような、やさしく豊かな味。私は約一年前、「心が豊かな人と付き合いたい」とふざけたようなことを言っていたけれど、まさに、そんな人柄の味がした。

3月17日(木)晴れ

夜、東京に住む仲良しの先輩夫婦と電話をした。お互いの近況報告とのろけ話をはさみつつ、主題はもっぱら「働き方」について。常に、今抱えている不自由さを手放す手段はいくらでもある、という余裕を持っておくことが大切。

電話の後は、彼とのLINEに既読がつかず、何の連絡もなく帰りが0時を回ったことに対して怒りが収まらなかった。私は「連絡が取れない」、それ即ち「安否の確認が取れない」という状況が極端に苦手だ。すごく面倒くさいけれど、これは変えることのむずかしい性質だと思う。

3月18日(金)突然の雨

今日は息つく暇もないほどにタスクが詰まっていた。昨日、連絡しなかった彼を責めたけれど、こんな状況だったのかも、と反省をした。

やりたいこともやるべきこともたくさんあるけれど、心はまったく失っていない。先輩も後輩も関係なく、尊敬する仲間たちとブランドを0から育てていく過程のすべてが楽しい。

3月19日(土)天気雨

三連休の初日は、のんびりするつもりだったけれど結局スケジュールを詰めてしまった(大体こうなる)。倉敷美観地区にある大原美術館は、わりと頻繁に新しい作品を仕入れ、配置換えを行っている。訪れるたびに新鮮で、その時の“現代アート”が楽しめる。変わり続けることで変わらないことを体現している美術館。倉敷という街に惚れ直した時間だった。

夜は彼の職場へ。いつだって後味を決めるのは最後の一口だ。家への帰り道、彼がとても不機嫌だった。不機嫌な人と出くわした時、普段は「周りに与える影響を考えてほしいな」とスッと一歩引いてしまうのだけれど、彼に対しては一切思わなかった。私の前で“取り繕う”必要はないし、朝から晩まで休みなく動き回り、そうなって然るべしだと思ったからだ。

今までであれば面倒くさいと感じてしまうようなことも、全部引き受けようとする覚悟がいつの間にかできている。それは「彼の好きなところ」が相当揺るぎないものだからなのかもしれない。

3月20日(日)晴れ時々雨

会社の後輩と奈義の方へ。ずっと行ってみたかった奈義町現代美術館(通称NagiMOCA)への気持ちが抑えられず、せっかくだからアート好きのかわいい後輩を誘ってみた。往復4時間のドライブを完遂できたことに達成感。となりで終始楽しい話をしてくれて、彼女を誘って本当によかった。一人だったら、きっと何度もさみしさに飲み込まれていたに違いない。

奈義町という岡山の北東部に位置する町は、想像を遥かに超えて美しい町だった。3月下旬でも那岐山の頂にはほんのりと雪がかぶさり、後輩は「フィンランドみたい…」と呟いていた。

NagiMOCAは、ぼーっとできる「大地」がすきだった。昨日の大原美術館でも感じたことだけれど、私はどんなに美しいものでも、知らない誰かの強烈な”想い”が込められたものが怖い。想いを受け取ることは、体力も精神力も使う行為だ。わかりやすいもので溢れているからこそ、「そこに想いはあるのか?」ということが問われがちだけれど、想いを強い力で”ぶつけられる”ことが苦手なのかもしれない。

「余白」「無」の価値を私は大切にしたい。スマホも触らず本も読まずにただただ電車に揺られる時間、眠るわけでもなくベッドでただただ寝そべる時間、そういうものが人間には欠かせないはず。がんばることと同じくらい、肩の力を抜いて、ゆるやかな心持ちでいることも忘れずにいたい。それはきっと思考となり言葉となり、音となって人に伝わるはずだから。

夜、帰宅した彼が昨晩感じていたことを話してくれた。このまま”なかったこと”にされたら悲しいかもと思っていたから、話してくれて本当によかった。彼を苦しめていたのは、私の行動も要因のひとつだった。恋愛でも仕事でも友情関係でも、言いにくいことを伝えてくれた人に対しては「ありがとう」と心から思う。「察してくれ」という怠慢な態度をとらず、勇気を持って伝えてくれること自体に誠実さを感じる。

もうすぐ30歳になるというのに、大切な人を傷つけては傷つき反省、はまだまだ続いていくらしい。他人と生きていくって、大人もちっとも楽じゃない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?