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特筆すべきことがない日。


noteという場所で書く上で、決まり事がある。誰に決められたわけでもない、自分で設けたマイルール。

それは「嘘は書かない。正直に、ありのままの気持ちを書く」ということ。


そんなこんなで、ぶっちゃけ、控えめに言って、今日はまるっきりネタがない。

一昨日ついに引っ越しをしたんだけれども、特段感傷に浸ることもなかった。社会人になって、初めての一人暮らしを経験した清澄白河。「清くて澄んでる白い河」という、まるで北川景子みたいなかっちょいい名前に憧れて住むことを決めた街。土地のわりに6万7千円という家賃で、ユニットバス・ワンルームの決して広くない家も、駆け出し社会人の棲み処としてはちょうどよかった。

たくさんの楽しいこと、初めてのこと、悲しいことを清澄白河で経験した。けれど、親友も元カレも街から去った今、「別に」と口から漏れてしまいそうなくらいあっけない終末だった。


というわけで、引っ越しという一大イベントがあったにもかかわらず、書きたいことがない。文字として吐き出さないと明日を生きられないような、こみ上げてくるエモーションがまるでない。

「じゃあ書きなさんな」というご意見もあるだろう。読書も映画も、物語を摂取するには時間を食う。有限の時間を費やして選んだ作品が駄作だった時の、はずれくじひいちゃった感は本当にやるせない。時間を返してくれよと思ったことは数えきれない。

だからこそ人の目に触れる場所で書く以上は「この世に在ってほしいものを」と願うけれど、そんな望みを押しのけてでも優先したいこととして「週に一回は筆を走らせる(実際キーボード叩いてるけど)」ということがある。「下手なら量を。上手くなりたいなら量を」と決めた、これまた自分勝手なマイルールだ。


日曜日が終わる頃、つまり全国のサラリーマンがサザエさん現象に陥っているであろう頃、書くことないなぁないなぁと焦りながら、「書くことがないなんて、なんて幸せなことだろう」と今日という一日を振り返っていた。

世の中にぶつけたい怒りだとか、ここでしか吐き出せない悲しみだとか、あの人に伝えきれない想いだとか、そんなもどかしいフラストレーションが微塵もないのだ。

日々書き留めている「心うごかされたメモ」を眺めても、メモした時の自分はもう過去で、今日は共感できない。

どう頑張ったって、お昼に食べたティラミスは美味しかったな、でも生パスタは錦糸町のパスタバが一番だな、芦田愛菜ちゃんに似てるって言われたのは初めてだな(100%嬉しい)、キッチンが広いと料理が2倍楽しいな、豚肉とキャベツ炒めれば大体美味しいな、ネットフリックスの「人生にボサノヴァを」は最高おもしろいな、という、なんとも平凡でありきたりな感想しか出てこない一日だった。

某村上春樹大先生も、「文章を書かずに生きられる人生があるとしたら、そんなに幸せな人生はない」というようなことを言ってたとか言ってないとか。

特筆すべきことがなんにもない日。
考えを巡らす必要のない日。
それはそれで、幸せなことだ。

心をめいいっぱいほぐして、明日からはじまる一週間に備える。
ヘルシーで平和な日曜日だった。

それ以上でも以下でもない、とはきっとそういうことだろう。

「平和」と「令和」って本当に響きが似てますね。私はすごく素敵な元号だと思います(今さら)。

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