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アラフォー女子が大学で、司書課程を受講してみた。~通信制大学から学習を始めた記録①~

 わたしは法政大学通信教育部を今年3月に卒業した。同時に図書館司書資格も取得した。
 ここでは、なぜわたしがアラフォーになってから司書課程で勉強しようと思ったのかを書いてみようと思う。

 わたしは物書きと呼ぶのもおこがましい、一冊の書籍と数冊の電子書籍の出版経験があるだけの人間である。
 なぜまともな職に就けなかったのか。それは、わたしが複雑な病気を持っており、他人のなかで仕事をするのが困難であること、それが主に両親との関係に起因していることがあるのだけれど、まあこの年齢になってしまえば、自分が悪いのひとことに尽きる。両親は意図してわたしを傷つけようとしたわけではないことは理解しているのだから。
 ともかくも、わたしは非常に世間知らずで、視野が狭い、文章を書いていなければ一日中引きこもってゲームをしているだけの存在だった。

 これではだめだ、と思ったのは、執筆の仕事が完全になくなってからだった。
 それまでわたしは、少女小説のようなものを手慰みに書き、出版社に採用してもらっていた。まだケータイ小説というものが残存していたころのことであり、わたしのような無知な書き手でも需要があったのだ。
 もともとあまり書けるものの引き出しも多くなく、無理やり話をひねり出していたので、自分が書いているものが先細りであること、明らかに大手メディアで取り上げられるようなレベルでないことは承知していた。それでもそこから這い上がれるような実力もなかったし、どう自分を育成していけばいいかもピンときていなかった。
 だからケータイ小説そのものが衰退し、サイトそのものがつぶれ、自分の書いたものが散逸してしまってもあまり悲しくはなかった。むしろ当然だと思った。
 わたしは自分を鍛えなければいけないと思った。このままでは物書きは続けられないと。

 最初にアクセスしたのは、gaccoというサイトだった。
 当時ネットを使った大学教育(MOOC)がメジャーになりつつあり、わたしもそれを利用しようと思ったのだ。
 高校卒業資格は持っていたし、学習に際しての不安はなかった。問題なくいくつかの講座を修了もできた。
 でも、一方通行の講義は、わたしを欲求不満にさせた。

 次にアクセスしたのが、リアルの大学。法政大学の通信教育部だった。
 入学に際して、不安に思うことはさまざまあった。
 せっかく入学しても、途中で投げ出してしまうのではないか?
 大学の勉強についていけるのだろうか?
 本当にわたしは、十数年ものブランクを抱えていながらまた教育の場に戻れるのか?
 そこで何かを学ぶことは、自分の成長につながるのだろうか……。

 結果的にそのすべては、杞憂だったのだけれど。

 とりあえず入学の準備として、わたしがしたことは、多方面の本を意識的に読み漁ることだった。
 文学部に入る予定ではあったが、小説ばかり読んでいては自分の視野を広げることにならないと思い、古書店であたらしめの新書を買ってきて、たくさん読んだ。
 分野としては、経済学、哲学、歴史学、社会学、政治学、心理学、医学、生物学など、とにかく文理問わず読み倒していった。
 そのなかで、自分の知識を少しずつ深め、同じ系統の本を読むうちに繰り返し出てくるような話題は覚えていった。
 わたしは病気の影響で記憶力が減退している。でもそれを言い訳にするまいと思った。
 本なら何度でも読み返せる。今は今しかない。
 
 下準備が整った段階で、わたしは大学に入学した。まだアラサーと呼べるころだった。
 そして読書体験を含め、自分がした選択が間違っていなかったことを知った。
 知識はわたしをおおいに助けてくれたのだ。

 次回は司書課程の履修を決意し、学んでみてからのことを書こうと思う。



 








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