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【晩年のモネ編①】2023年のモネ展をもっと楽しみたいならコレ読んで!!!

こんばんは。
先日、生ハムの端が薄っすらとカビてて、ビビりました。ぶんぶんです。
ご安心ください。腐っているところをキレ~~イ!!にカットして、残りは美味しく頂きました。←

本日は晩年のモネさんについて、独り言つ。

晩年のモネさんって、よく紹介されるのは目に病気を抱えたので、目の手術をしたとか、作風が大胆な絵の具のタッチになって、そういう作風がカンディンスキーなどの20世紀絵画を代表する巨匠たちに影響を与えた…とか。
そういう話をよく聞くんですが…今回はそことは違う視点からモネさんの絵を語るっぞ!!

関係性萌えの私が個人的に胸アツなのは、

印象派の中で一番長生きしたのが、モネさんだったってことです。


本日はその視点からひとり~ごつ。

さて。では印象派メンバーである下記のメンバー ↓

左上モネ、右上ルノワール、左下シスレー、右下バジール


左上マネ、右上ドガ、左下ピサロ、右下モリゾ

プラスで、セザンヌさん。
こちらの印象派メンバーが、どの順で亡くなったのか。
没年年表は下記になりますので、まずはそちらをご覧くださいませ。

印象派のメンバー 亡くなった順

  1. バジールさん 1870年

  2. マネさん 1883年

  3. モリゾさん 1895年

  4. シスレーさん 1899年

  5. ピサロ父さん 1903年

  6. セザンヌさん 1906年

  7. ドガさん 1917年

  8. ルノワールさん 1919年

  9. モネさん 1926年


つまりですね、印象派メンバーの中で一番長生きしたのがモネさんでしたと言いたいわけです。
もっと掘り下げて言えば、モネさんの視点からみれば、彼は誰よりも戦友の死を見送った立場にあったということなんですね。

ということは、どういうことかというと。


モネさんは誰よりも画壇という戦場で戦って、戦って、戦って、
批評家や世間の人たちから「あいつの絵、まじで常識外れ。無いわ~~」と後ろ指されながら、酷評されながらも、己が信じてきた「美」を追い求めて走り続けてきたんですが、晩年、ふと後ろを振り返れば、誰もいないということになる。そしてそれに気が付いたとき、モネさんは孤独に苛まれたという話なんです…。

で、そんな彼が晩年になって、画風が大きく変わるわけです。

そこに私は大きく注目したいんじゃっ!!

なんで大きく画風が急に変わったんじゃ!?
というわけです。

そこで


ぜひ今回の展覧会で、1900年代頃のモネさんの絵と、晩年の1920年代頃の絵を見比べてみてほしいんですにゃ。モネさんの若いころから晩年までの絵が、一堂に会していますからにゃ。(語尾いらね~)
見比べ放題ですわ。

するとね。
1900年代と1920年代、20年ぐらいしか違わないのに、絵の描き方が全然ちがうな~って気がつくと思うんです。
「モネの絵」という予備知識なしで、これらの絵を見比べたとき

え?

これ、本当にぜんぶ同一人物が描いたん??

って思っちゃいません…?

特に1900年頃と1920年頃、画風が違いすぎ問題。
1900年代は睡蓮、しっかりめにモチーフを描いてて、近くでみても「うむ、睡蓮じゃ」ってわかるのに。
1920年を過ぎたあたりから急に画風が変わって、絵の具をキャンバスにびしゃーっ!!て、ぶつけたような、荒々しいタッチになったから、近くで絵をみると睡蓮の面影が無くなってて、「はて?」ってなるし。
遠くから離れてみないと、描かれたモチーフが何なのかわからないんですけど?え??どゆこと???みたいな。

なにが彼の作風をこんなに変えたんだろうと。

ぶんぶんは無い頭を捻って考えたわけです。はい。
そして、もちろん

カタログに書いてあることを読め~っ

ぜんぶ解説してくれてっから~~

という方もいらっしゃることでしょう。それはそれで得るものが多く、面白いんですけどね…。

ただ今回は、そういう意味ではなくて。
私は単純に、
ただ、ただ、当時のモネさんの気持ちになって考えてみたい。という話なんですな。

とゆうことで、ぶんぶんは考えた!!

そしてその結果は下記だ!!!

モネさんは誰よりも印象派メンバーの中で一番長生きして、誰よりも戦友の死を見送った立場にあった。
なので、この「死」という言葉では言い表せない悲しみが、晩年のモネさんの絵から感じる…。

ぶんぶん考察より

という結論でした。(なんで「引用」したんだよ←)
つーか、考察でもなんでもねーよ。感想文だよ馬鹿。てへ☆(ウザァ…)

しかしながら、、、。
ぶんぶんは、個人的に晩年のモネさんの絵は、こういう視点で見ちゃうんだな。言葉では言い表せない悲しみが、晩年のモネさんの絵から感じるのよ。

またね~…。
泣けるのが、モネさん。
戦友の死だけじゃなくて、家族の死も見送っているんですよ。
一番貧乏だったときに一緒に苦楽を共にした妻カミーユと、息子ジャンの死をモネさんは見送っています。そのあと2番目の妻のアリスの死も見送りました。

で、それを加えると、さらに下記のような形となる。

モネさんの親しい人が 亡くなった順

  1. バジールさん 1870年

  2. カミーユさん(1番目の妻)1879年

  3. マネさん 1883年

  4. モリゾさん 1895年

  5. シスレーさん 1899年

  6. ピサロ父さん 1903年

  7. セザンヌさん 1906年

  8. アリス・オシュデさん 1911年

  9. ジャン・モネさん(モネの息子)1914年

  10. ドガさん 1917年

  11. ルノワールさん 1919年

  12. ポール・デュラン=リュエルさん(印象派の絵をアメリカに売りに行った命の恩人)1922年

  13. モネさん 1926年

仲が良かろうと、悪かろうと、モネさん全員、もれなくきれーーーーっに見送ってますわ!!

エグ!!!


(そしてモネさん似の2番目の息子だけが、長生きをするっていう(笑))

そしてモネさんの人生の中でベストワンで酷評されていた時期に、ずっとそばで支えてくれて、「あなたは絵を描き続けるべきだ」と励まし続けてくれた一番の理解者バジールさん妻のカミーユが、一番先に亡くなっているという、この悲しみ・・・。

この時期のモネさんの絵をみると、だいたい彩度が暗いし、絵筆のタッチが弱々しいので、しんどかったんだろうなぁと、彼の気持ちをいつも勝手に汲み取っちゃっています、ぶんぶんです。

モネさんはたぶん、いつも声に出して泣かないで、悲しいときには自分の気持ちを絵筆にのせて絵の中で泣いていたんだなと。絵を描くことで、悲しみを乗り越えていたんだなぁ…と、しみじみ思います。

そう思うようになったきっかけは、妻のカミーユが亡くなったときに、彼女の死顔を絵に遺したっていう絵を見たからでしょうか…。モネさん界隈ではけっこう有名な話なんですが。
こちらの作品です。↓

クロード・モネ「死の床のカミーユ」1879年 オルセー美術館、パリ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Claude_Monet,_1879,_Camille_sur_son_lit_de_mort,_oil_on_canvas,_90_x_68_cm,_Mus%C3%A9e_d%27Orsay,_Paris.jpg



モネさんは妻のカミーユが目の前で亡くなっていくときに、体温がどんどん冷たくなっていく彼女の肌の色の移り変わりをみて、おもむろにキャンバスを取り出し、一心不乱にその「色彩」の移り変わりを描きこんだっていうエピソードが残っています。

私も本物を見たことがありまして、はじめは「へ~、モネさんの画家の業を感じるなぁ…」って思っていたんですが、段々とこの絵を見ていくうちに「いやこれ、そういう話じゃないぞ」と。

モネさん、もしかして絵の中で泣いている?と感じまして。
いや、ほんと証明のしようがないんですが。

一筆、一筆を描いていくごとに、モネさんは一粒、一粒、涙を流しているように私は感じました。
そのときから、私の中でモネさんは絵の中で泣く画家なんだなって思うようになりまして。はい。それで冒頭の話の結論に至るわけです。

モネさんは誰よりも印象派メンバーの中で一番長生きして、誰よりも戦友の死を見送った立場にあった。
なので、この「死」という言葉では言い表せない悲しみが、晩年のモネさんの絵から感じる…。

というわけです。ちゃんちゃん。

特に1919年のルノワールさんが亡くなったあたりからのモネさんの絵は、特に命を削って描いているという気迫を感じます。

そりゃそうなんです。ルノワールさんは、いうても最後までモネさんのそばにずっといた存在でしたからね。

たとえば。ルノワールさんは…

①バジールやカミーユが亡くなったときは、静かに悲しみを分かち合ってくれた。

②シスレーが亡くなったときは、一緒に看取って、遺言を聞いたりした。

③モリゾが亡くなったときは、ひとり残されたモリゾの娘をルノワールさんと助けたりしたし。

④マネが亡くなったときは、一緒に怒ってくれた。


などなど。

てゆうか!!

このマネさんが死んだ時ってのがひどくて!!!

言っていいのかわかんないですけど、これただのブログなんで、言います(笑)

当時の批評家や画商は、マネさんが亡くなる前まで彼のことをめちゃくちゃデスって、馬鹿にしていたんですけど、マネさんが亡くなって、絵の価値がグンと上がった瞬間に手のひらを返したかのように、マネさんの絵をこぞって買い求めたんです。マネさんはスキャンダルが多い画家だったんで、良くも悪くも知名度があったから、そういう画家の絵は死後「高く売れるから」という理由で。マネさんの絵が良いとか、絶対思ってないよね?ていうか酷評してたよね、アンタ??みたいな人も「儲かるから」という理由で買い漁るみたいな。
ひどいときは、マネさんのアトリエを漁る連中もいたそうです。エスキースも、バンバン持っていかれるし。

まじでよ、虫が良すぎないか???

って話なんですよ。一緒に戦ってきたモネさん達からしたらね。

その反動かどうかはわからないんですが、モネさんは自分が死ぬ前、自分の手元にあったエスキース(下描き)は全部燃やしたそうです。
マネさんのそういう最後を見ていたから、嫌だったのかもしれませんね。
自分の死後に自分は下描きって思っている絵が、「これは価値のある絵ですよ、お目が高い」とかなんとか言われて売られるのが。
あと生前も、なかなか絵を売らなかったらしいですしね。

だから国立西洋美術館に、あのサイズのモネの睡蓮があるのは

まじで凄いことなんですよ!!!

ありがとう松方さん…。

また話、ずれちゃった。
そんなこんなで、話を戻しますと。
当時のモネさんは、このマネさんの事案にめちゃくちゃ激オコだったわけなんですが(そういう手紙が遺っている)。

このときにもルノワールさんは傍にいました。

そう、いつだってルノワールさんはモネさんのそばにいたんです…!!


バジールさんが名付け親で、カミーユとのはじめての息子だったジャンを戦争で亡くした時も、ルノワールさんは一緒に悲しみを背負ってくれました。

楽しい時も、悲しいときも、ずっと今ままで隣にいてくれた最後の戦友が1919年に亡くなってしまった。

モネさんにとっての1919年は、悲しすぎるのよ…。


そして1919年でルノワールさんが亡くなった時点で、ふと振り返れば、周りには誰もいないっていうね。孤独の悲しみが、そこにはある…。

1860年代からの付き合いで「官展の審査員、ぶっ潰す!!!フランスの画壇を変えてやるぜーーー!!」なんて意気込んでいた時の、あんなにたくさんいた仲間たちが、ひとり、またひとりと、いなくなって。

亡くなったみんなから想いを託されて、託されて。

「任せろ、お前の意志は俺が継ぐから。」
「俺がお前がいたことを忘れないから。」
「だからお前がやってきたことは無駄なんかじゃないよ」と。

そうやって ひとつずつ、ひとつずつ。
亡くなっていく友人たちから、想いを受け取って、受け取って、受け取って。

そうして、最後の最後には画壇という戦場で一人ぼっちになってしまったモネさん。

もう一緒に語り合う仲間も、いがみ合う戦友もいないんです。
そのときにモネさんは、なにを考えていたのか。

なにを考えていたのかぁーーーーーーーー!!?


…それは、夜も遅くなってきたんで、また明日にでも呟きます。
よかったら、また明日も聞いてもらえると嬉しいな~
だれも聞く人がいないからな~~
寂しいんだよな~~~
つーか、もう今日じゃん~~
ウケる~

というやつでごじゃります。

では、ここまで読んでいただきありがとうございました。
今日はここら辺で!!
おやすみなさい! 眠い!!!

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