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野上弥生子のカケラ〜漱石のこと〜

野上さんのこと、漱石との関係などをもう少し詳しく。

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1906年秋小出川ヤエさんは(後の野上弥生子さん)帝国大学英文学科在学中の野上豊一郎氏と結婚しました。夏目漱石は1903年にイギリスから帰って、一高教授、帝大英文科講師を兼任していましたから、そこで接点が生まれました。

弥生子さんは木曜会に参加するあるじの豊一郎氏を介して夏目邸の出来事を知ります。やがて、弥生子さんも短編を書き始めるのですが、木曜会には参加しないで、作品だけを漱石に見てもらっていました。

初めて書いたものの題名が「明暗」といいます。

この作品に対して漱石ははっきり落第点をつけます。そして作品批評や文学の根本の意味などについて懇々と説いた、現存する漱石の手紙のなかではもっとも長いであろう、1メートル半以上もある手紙(巻紙ですから)を貰います。

「思想的なことはまだ書けないのだから対象を忠実に描くというふうなことから始めたら」

という内容が、その後、弥生子さんが書き続ける出発点になったのでした。

なんてことは、置いておくとしても、実際に弥生子さんが漱石宅をたずねたことが2,3回あったのでした。

最初は奥さんに用があって行くのですが、先生の謡が聞こえてくるんですね。

「正直なところ、まあ、下手です」と弥生子さんは言います。漱石は「めえー」と山羊のような甘ったるい、間の延びた調子で謡いだすのでおかしくてならなかったそうです。声は悪くないけれど、間延びして、いかにも素人くさい謡だったとか。

次に行ったのは、4つになる長男に夏目漱石をいっぺん見せておこう、という弥生子さん曰く「実に変なばかげた」思いつきからでした。

それは英文学史上のこと、スコットが幼いときチョーサーに会った記憶があるということに由来しています。

弥生子さんと長男が漱石と向かいあって座るのですが、長男はとび色のビロードの頭巾のような帽子がお気に入りで脱がないんです。

で、漱石は「この子、帽子取らないんだな」と何度も聞くんですね。弥生子さんはそのとき、漱石が子供を見据えた顔つきが忘れられないと言います。

別なときに何かのお礼に弥生子さんが謡の本をしまう桐の本箱を誂えて贈ったのですが、それを運ぶときに、蓋に汗をたらしてしまいました。漱石は礼を言う前に「蓋にしみができたね。こりゃあまずかったね」と、しきりにしみを気にしたといいます。

この子供の帽子や汗のしみを気にするところが、ちょっと常人にはないような、普通のしつっこさとは違った妙なところが漱石にはあった、と弥生子さんは述懐します。

しかし、それは弥生子さんのほうがちょっと違ってて、漱石が普通と言えなくもないような気もするのですが、どうでしょう。

弥生子さんの弟さんは一時、野上さん宅に同居していたことがあり、そこへふらりと漱石が尋ねたことがありました。そこで漱石は弥生子さんの弟と会ったわけですが、次の木曜会で漱石はその弟さんの噂をして、本当に弥生子さんの実の弟か、としきりに訊ねたといいます。

それを聞いて弥生子さんはがっかりしてしまいます。弟さんはお母さん似の端正な美男子だったのです。

それについて、弥生子さんはこんなふうに書いています。

「先生の疑いは、私の似もつかぬみっともない顔との比較から生じているわけになります。先生にはそれこそ言葉につくせぬご恩になりながらも、この一つのことだけは恨めしい、と私は笑い話にしますが、いったいに先生は人の顔には一種特別な興味をもっていらしたような気がします」

そのせいなのかどうか、弥生子さんは漱石の風貌にたいしてはいささか手厳しいのです。

「今で言ったら先生はいわゆる小男の部類でしょう。・・・お召し物は地味な質素なものを召しているのに、膝が切れるからといって無地の前掛けをしているお姿などは、良くある先生のお写真のようなああいう紳士とは全然ちがった、江戸っ子のそこいらの番頭さんというような風情でした。
顔は実にご立派でしたが、だたちょっと顎が張っている。いつかうかがったときなど、夏でしたが、赤いほてった顔色でいらして、お狂言の『叔母ヶ酒』の鬼の面ににていました。・・・岡本一平の描いた先生の漫画が鬼の顔にしてあるのを見て、私の考えは間違っていなかったと思ったものでした」

九十二歳くらいのときに書いた随筆にそうあります。

おなじ九十二歳の折の人間ドックで検査についてはこんなふうに書いています。ここのくだりが私はとても好きです。

ちょっと長いですが・・・この言葉でおしまいにします。

「例えば調和のことひとつにしろ、能舞台の、茶室の、とそんなことまで持ち出すには及ばなかったはずだ。入院以来のつぎつぎに多様なテスト・・・のことごとくは結局が、人間なる一個の肉体が、あるべき「調和」を保っているか、否やをしらべあげようとするに外ならないのだから、どんな命令に誰が否応をいえるだろう。
その準備として、ベッドの上の壁に「お食事待ち」の赤線入りの紙が下げられ、朝御飯抜きの絶食がお昼まで続こうと、それも暗室で、なにか責め道具めいた装置のあいだで、今度はほとんど半分以上の裸体で受ける胃の検査ともなれば、地獄に行っても、こんな厭なものは飲まされはしないだろう、と思われるバリュウムの乳白色のどんみりした液体を、しかもコップで3杯も強いられる辛さも、悦んで忍ばなければならない。もしかしたら私は、ソクラテスが最後の毒盃をとりあげた恰好に似ていなかったろうか」

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️