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ざつぼくりん 18「ダンゴムシの避難訓練Ⅲ」

絹子に抱きついたままの格好で、華子がかすれた声をだした。

「あのね、わたしね……わたし、ずっとずっと……」

なにか告げようとするが、しゃくりあげてうまく言葉にならない。吸う空気と言おうとする言葉が華子のなかでせめぎあう。思い切り泣いたあとの言葉はどうしてこんなにも震えるのだろう。

絹子は華子に向き合い、頬を両手で挟んで、うん? だいじょうぶなの? と問う。華子はこっくりをすると恥ずかしそうに絹子から離れ、顔、洗ってくる、と言い置いて身を翻す。

問い詰めてはいけないよ。華子ちゃんが自分から口をひらくまで待つんだよ、と時生は言った。

 絹子はゆっくり立ち上がり、おなかを撫でる。ふたごのむすめたちが華子を思っているのがわかる。

そう、だいじょうぶよ、きっと、と呟きながら窓のそとをのぞくと、外は少しあかるくなったようだ。雲が流れていく。雨、やむかもしれない。

カタンと椅子を引く音がする。振り向くと華子がテーブルで頬杖をついている。両手で支えられた顔の目と鼻が赤い。きまりわるそうな顔つきだ。

それをみて絹子はキッチンに入り、牛乳をコップに注ぐ。華子のほうをむいてそのコップを持ちあげて問うように首を傾げてみる。華子がうなずく。自分の前に置かれた牛乳を華子が飲む。細い喉がこくこくと動く。

「あのねこ、最後は牛乳しか飲めなかったの」
姉はそう言っていた。

飲み終わると華子はそばにあった写真立てのモノクロ写真を見つめる。放心したように見続ける。絹子の父の法事のときに親戚が集まったときの写真だ。母と絹子たち三人姉妹とその家族、父の兄弟、母の兄弟。時生も華子も緊張して写っている。

指が写真の上を動いている。華子はここにいるのに、思いがここにないという感じがする。

「ね、雨がやみそうだから、ちょっと散歩しない?」

なにごともなかったようにプリンの皿を片付けながら絹子が誘うと、え、と華子は我に返る。眉根を寄せて、痛々しいほど不安な顔つきになる。

「妊婦は体を動かさないとだめだって時生さんが言うの」
「ふーん、それでどこまでいくの?」

華子は無意識に写真立てのガラスの指をすべらせて、聞く。

「駅前に古書専門店があるの、そこまで」
「こしょせんもんてん? そこでなんか買うの?」

「買わないけど、行くの。プリン、たくさんできたから、持っていってあげようと思うの」

天気がよくなったらいっしょにカンさんところへ行くといい。華子ちゃんとカンさん、ふたりがであったら、なにかがおこるかもしれないよ、と時生は予言した。 

霧雨は傘を差さずに歩くふたりを遠慮がちに濡らす。ふたりはゆっくり歩く。歩道でひととすれ違う。華子が前を行く。

絹子は華子のふくらはぎを見て、痩せたと感じる。細いけれど形のよい筋肉をまとっていた。どこまでも駆けていけそうな足だった。

商店街を歩くと肉屋のおじさんがケースの向こう側から血色のよい顔で、よー、べっぴんさんがおそろいでおでかけかい、といつものように声をかけてくる。

華子はこまったようにうつむく。

「やーねー。おじさんたら。姪っ子が困ってるじゃない。お散歩よ。雨、やむのかしらね」
「さあ、どうだかねえ。はやいとこ、かーっと秋晴れになって欲しいやねー」

この町に住んで三年が経つ。商店街のひとなつっこい応対にも慣れ、おじさんにたくさんおまけしてもらうようになって、こんな会話もできるようになった。

それだけではなく、妊娠してからはこの町のたくさんの見もしらぬひとから声をかけられ、案じてもらうようになった。未来を内包する妊婦にはひとを引きつける力があるのだと実感する。

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️