調布駅そばのホール
駅そばのホールで落語を聴いた。桂歌丸と三遊亭円歌だ。前座が春風亭小まさ、曲独楽の三増紋之助もだ。
この紋之助というひとがなかなかにお賑やかなひとで、ほっほっ言いながら、熱意と誠意と芸熱心さで独楽を回す。
このひとの持っている一生懸命さはどこか素人っぽくて、客席の高齢者は、かつて学芸会でわが子を見守った親の気持ちを思い出す。がんばれがんばれとハラハラするのだ。
それにしても、落語のライブの席を後ろから見ると特徴的に禿頭(とくとう)が目立つ。見るともなく見てしまう。
文珍さんの時も小遊三さんの時もそう思った。歌舞伎も同様に年齢層は高いのだが女性が多く、男性はどちらかというと白髪のひとが多いように思う。
歌丸さんの演目は「井戸の茶碗」。
時代ものはだんだんにその背景が遠くなっていく。屑屋の「せえべえ」さんが出てくるのだが、屑屋という商売がなくなって久しいから、話の頭にその説明から入らなければならない。
仏像の中から出てきた50両の行方の話。話はゆるやかに続いていくのだが、ちょっとうつらうつらしてしまう。歌丸さんの声はけっこう耳に逆らわない穏やかな声なのだ。
気の弱い登場人物があわわあわわとうろたえるくだりになると、歌丸さんは俄然生彩を放つ。痩せた面立ちが説得力になる。
円歌さんはおなじみ「中沢家のひとびと」
他の落語は忘れてしまったというが、コレ一本でドカンドカンとホールは大爆笑。歌丸さんを聞きながら寝ていたおじさんが天井を仰いで笑っている。
6人のジジババ、自分の両親、前妻の両親、後妻の両親、の日常。観察に裏付けられているのかいないのか、そのべらんめいの突き放したような口調が、笑いを誘う。
得度している円歌の醒めた目、突き放しながら掬いあげる。何度聞いても笑ってしまう。
自分もだんだんに年寄りになって、その話が現実にありそうなことになってくると、自分ではいえない台詞をすぱっと言い切ってもらう爽快感もあるのだと気づく。
暮れ始める調布の空にやわらかな雲がわいていた。駅にむかうひとびとは互いに支えあったり、杖を突いたりして、横断歩道を渡る。
そのひとりひとりがもはや半世紀以上を生きてきているのだなあ、と改めて思う。年寄りのはなし、おもしろうてやがてかなしい。
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