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注意深く節度ある振る舞い

2006年04月18日の朝日新聞には大江健三郎さんの「定義集」という記事があった。そのなかのこと。

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障害があり成人病のきざしもあるご子息の光さんと大江さんは歩行訓練のため遊歩道を歩く。 その歩行訓練中に光さんが石に足を取られて転んでしまう。光さんも大江さんも動転してしまう。

大江さんが光さんの上体を起こし、柵に寄らせる。それはもたもた頼りない動きに見えた。

そこへ自転車でやってきた壮年のご婦人が「大丈夫?」と声をかけ、光さんの肩に手を当てた。 光さんは見知らぬひとに身体を触られることを望まない。

こういう時、大江さんは「自分が十分に粗野な老人であることを承知の上で、しばらくほおって置いていただくよう強く」言う。

そのご婦人は憤慨して立ち去る。

その後、大江さんは少し離れたところで自転車を止めて .じっと大江さんたちを見ている高校生らしい少女に気づく。

その少女はケータイを出して、差し出すというのでもなく、 ちょっと示すようにして、また注意深く大江さんたちを見つめていた。

やがて光さんが立ち上がり歩きだす。 並んであるく大江さんが少女の脇を通り振り返ると、少女は会釈して、自転車に乗って去っていった。

わたしにとどいたメッセージは、 自分はここであなたたちを見守っている、 救急車なり家族なりへの連絡が必要なら、 ケータイで協力する、という呼びかけでした。 私らが歩き出すのを見ての、微笑した会釈をわすれません


と大江さんは書く。

シモーヌ・ヴェイユという哲学者の

「不幸な人間に対して注意深くあり、 どこかお苦しいのですか?と問いかける力を持つかどうかに、 人間らしい資質がかかっている」 


という言葉に大江さんは惹かれていて、 あのご婦人に示したような大江さん自身のこだわりを反省したりもする。

その上で、不幸な人間への好奇心だけ盛んな社会で、 私はあの少女の注意深くかつ節度もある振る舞いに、 生活になじんだ新しい人間らしさを見出す気がします。 好奇心は誰にもあります。
注意深い目がそれを純化するのです


とその文章を締めくくっている。

片頬であるあたし自身が常に 不幸な人間への好奇心にさらされて暮らしているからだろうが、このエピソードは胸の奥のほうを大きく揺さぶる。

そして、自分自身も この年若いひとの言葉ではなく型どおりでもない 礼儀正しいやさしさのようなものを どこででもきちんと掬いとれるおとなになろう。

親切の間合いのようなものを 善意と言う言葉でひとくくりにせぬよう心がけようとも思う。

なんというのか、この年まで生きてくると、困ったことに正しいことを言いたくなるのね。 あるべき姿みたいなものを伝えたくなるのね。 こんなことでいいのかって 、学級委員みたいな気分になってしまうのね。いかんね。それ、カッコ悪いです。

注意深く節度ある振る舞いをさりげなく、がカッコよ。


読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️