時にひととの距離の取り方に悩む。京都にもどってから、ますますだ。
こんなに長く生きてきて、思春期に思い煩ったようなことにいまだに振り回されたりする。まったくもって成長のないことである。
まるっきりわからないというのではない。正解はなんとなくわかるのだけれど、それがどうもへったぴいなのだ。いかんな、とよく思う。
初対面はいい。自由にとわれごとなくのびのびとした自分でいられる。知らない人は気楽だ。
そこで大好きになってしまえば距離はぐんと縮む。そこから発展していった長く密度の濃い付き合いもある。人生の山川をかたわらで見ていてくれたひとたち。そこではなにを言っても自分である。
その中間の、自分が選んだわけではない状況のなかの「知り合い」というポジショニングに困っている。
すきでもきらいでもないけど、知り合いである、というとき、どんな位置にいればいいのかわからなくなってしまう。
永遠に初対面ではいられないし一足飛びに密度濃くなるのも稀有なことだし。
作家の柳美里さんというひとは、おまけをしてもらった店には二度といけないらしい。またおまけしてもらいたくて来たのかと思われるのがいやだからだという。それに似た自意識なのだろうなと思う。
初対面から時間がたって、互いのなかに立ち入って、旧知のなかにように親しく話してしまっても
そのあとなかなかべったりはできないし……
べったりしてもされてもそれはなんだか息苦しいし、なんだかそれにも嫌気がさしてくるし……
かといっていつまでも他人行儀でいるのも、悪いかなとか思ってしまうし……
どうすべえと思っているうちに時間はたって、どんどん不義理ばかりがたまっていって、それでいよいよ遠くなってしまって、それはなんだか仲たがいしたような気分にもなってしまって……
知り合いなのに知り合いじゃないみたいな距離になっても、それでもやっぱり知り合いは知り合いで、かといって今更距離を縮めるのもおっくうで、じゃこれでいいのかと自問すれば、やっぱりあかんやろと思ったりもするわけで、冒頭の言葉と相成るわけだ。
なんというか、知り合いとは、大きく前にならえの距離でいるのがいいのかもしれない。ときどき小さく前にならえになって、また大きく前にならえになる。
そんなふうに、自分の腕の長さ分くらい離れておくこと。それがいごこちのいいあんばいのような気がする。
そんな埒もないことを思う。
読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️