ざつぼくりん 14「爪の形Ⅳ」
冷蔵庫からそら豆を出してダイニングへ運ぶ。いつものようにふたりでそら豆の皮を剥く。孝蔵は手早い。
そういえば後楽園の外野席でふたりして声を枯らして応援したのは川上監督の時代だったと思い出す。孝蔵は根っからのジャイアンツファンだ。長島がいて王がいた。
柴田はいい男ね、と志津が言うと、孝蔵は、ばか、男はみてくれじゃねえぞという。柳田の面構えを見てみな。ああいう男がいい男なんだ。
あのころは巨人が勝ちを重ねていた。孝蔵は気持ちよく缶ビールを空けた。白っぽいナイターの明かりが空を染めていた。
「今日、帰りに公園のそばの開田モーターズの前を通ったらねえ」
「ああ。開田のじいさん、元気だったか?」
「いつもの椅子に座ってなかったんで、どうしたのかなって思ってたら、上の物干しのほうで音がしてね」
「じいさん、階段上れるのか?」
「ふふ、上れても下りるのが大変でしょうね」
「で、どうした?」
「あのねえ、物干しでパン屑、撒いてたの」
「ははー、じいさんらしいや」
「雀が高い声で鳴いて遠巻きに見てて、おじいさんが撒き終わると寄ってくるの」
笊のなかに剥いたそら豆がたまっていく。元気のいいみどりがてんでに跳ねている。
「おじいさん、うれしそうな顔してたわ。下の薄暗いガレージで正夫さんが車の下に潜ってたけど、雀の鳴き声、正夫さんに聞こえたかしら」
「じいさん、今ごろ正夫のやつに怒られてんじゃないか。……階段踏み外したらどうするんだ、って」
「そうね。でもまた忘れて上るんでしょうね」
「はは、ちげえねえや」
剥いたそら豆を、塩を少し入れた湯で三、四分間強火で茹でる。このほっこりとした食感が志津は好きだ。おたふくのような形も愛嬌があって好きだ。
孝蔵は帰ってこない。電話をかけても出ない。一度帰って来てください、と手紙を書いても返事はこなかった。
「孝蔵さんはスナックの女と暮らしているらしいって」
篠崎の妻からそう告げられたのは木枯らしが吹き始めるころだった。連絡を取れない孝蔵に確かめようもなかった。
クリスマスも暮れも正月も独りだった。孝蔵からは「帰れねえ」とだけ電話があった。言いたいことはたくさんあったはずなのに、何も言えないうちに電話は切れた。掛けなおしても誰も出なかった。
それでも志津名義の郵便局の通帳には毎月律儀に生活費が振り込まれていた。純一が生きていたころの額と変わらなかった。
高崎にいると、純一がまだ東京で何事もなく生きていると思えるのだろうか。だとしたら、東京で暮らす志津が、高崎では孝蔵が何事もなく独りで暮らしているのだと思っていてもいいのではないか。
孝蔵も純一もいない家で志津は独り目覚める。本当に眠っていたのだろうか。途切れ途切れの夢を見ては目覚め、うつつのまままた意識が遠くなった。
窓の向こうで内緒ごとを告げ口するような鳥の鳴き声がしてあたりが明るくなる。ぐずぐずと布団から出られない。
食事も独りでする。食器棚にはたくさんの食器があるのに、茶碗一個、皿一枚しか使わない。できあいのものや残り物ですませる日も多い。最後は茶漬けにして流し込むように食べる。
誰にむかっていただきますといい、ごちそうさまというのか。無言の時間が長い。
わずかな洗濯物を干し、植木に水をやる。この世界で志津に頼っているのは植木鉢のなかの花だけだ。
それからミシンに向かう。預かった仕立物がある。スカートのすそ直しやファスナー付けの仕事もあった。もう学資をためる必要もないのに結構な手間賃をもらう。
ダダダダダ。電動ミシンが布をはぎ合わせる。一日中、ダダダダダというミシンの音だけが家に満ちた。それは志津をこの世に縫いとめる音だったのかもしれない。なにも考えなくても仕事は指先が覚えていた。
夏を迎え、純一の命日も独りで済ませ、僧侶を見送ったあと志津は倒れた。誰も知らない森の奥で朽ちた木が倒れるように崩れ落ちた。
熱が高かった。暑い盛りで気温は三十度を越えているのに体の芯まで凍りつくような寒気がした。会いたい、もう一度純一に会いたい。妄執のような思いが体を駆け巡っていた。
久しぶりに訪ねてきた篠崎の妻がやつれた志津を見て「なんてこと!」と憤りながら、強引に大きな病院へ連れて行った。
混んだ待合室で長い時間待って、血液やCTの検査をしたのち、カルテは心療内科へ回された。自分の心には穴が開いているのだと志津は思った
「あなたのペースで無理しないで、ゆっくり過ごしてください。ストレスをためないことです。薬はきちんと飲んでください。では、次回は二週間後に来てください。」
自分よりはるかに若い医者が表情を変えず穏やかに話す。形の良い爪の細長い指がカルテに何か書き込む。
志津は診察室のカレンダーに書き込まれた走り書きの文字を見つめた。学会、定例会議、カウンセリング。志津にはわからない横文字もならんでいる。
これから先、自分になんの予定があるのだろう。二週間後にここに来ることだけだろうか。精神安定剤を含む何種類かの薬を処方された。
また長い時間待たされて大小の白の錠剤と青いカプセルをもらう。それをいっぺんに飲んだら純一に会えるだろうか。
日々はのろのろと過ぎた。夏は知らない間に終わり、次第に日が短くなっていった。
家に待つ人はいない。話すことも抱きしめることもできない純一の残像だけが家に満ちていた。
読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️