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ざつぼくりん 9 「ひきこみ運河Ⅱ」

絹子はふたごを身籠っている。出産予定日にはまだ間があるのだが、養護学校に勤める時生は出生時のトラブルが障害につながった悲しい例をたくさん見聞きしているので、分別くさく、どこか神経質に、胎教や食事の養生訓を垂れ、絹子に実行させてきた。

身ごもった実感のなさをそんなふうに補って父親というものを手探りしているのかもしれない。

今日も時生はおっくうがる絹子を散歩に連れ出したのだが、そうはいってもふたつの命を孕んだ身重の体は思うようには動かない。歩き出すと右に左に体の軸が揺れる。体のなかで窮屈な思いをしている臓器が不平をもらす。

激しくなった鼓動を宥めるように大きなため息をついて絹子がを足を止めると、時生がうなずく。絹子はだるくなった腰をこぶしで叩きながら近くのベンチに腰かけ、両足を大きく開き背中をベンチに預ける。ふんぞり返るつもりはなくても、ついそうなってしまう。

ふたりならんで運河を眺める。漁船や釣り船、警備艇がその流れのない川を上ってきて、河岸やその突き当りに繋留される。木製の桟橋には小さな提灯をいくつもつけた屋形船が繋がれている。

末広がりの波を従えて仕事を終えた船が帰ってくると、後を追ってきたらしい海鳥が白っぽい倉庫を背景に高く低く舞う。その下で時折小さな魚がぴちんと跳ねる。

桟橋に老人が座っている。傍らには老犬がいる。時生と絹子はそのシルエットを眺めるともなく眺める。スケッチされた絵のように双方ともぴくりとも動かない。時間がとまってしまったように老人は入ってくる船を眺め、老犬は飼い主の息遣いに安心してただそこにいる。

しばらくして運河に漣がたちはじめると老人は立ち上がり、そう小さくはない犬をぐいっと抱えて遊歩道へとあがってくる。犬はその体勢になんの文句も唱えない。老人はそうやって抱えたまま反対側の階段を降り、堤防そばの狭い私道で降ろす。

老人がリードをはずし、犬の先を歩き出すと、支えを失った犬はその瞬間ふらついてしまう。足がこわばって前に進まない。困ったようにあたりを見回し、老人を呼ぶでもなく、俯いて道のにおいを嗅ぐ。試すように一歩を踏み出すが、どうも四本の足の運びがぎこちない。どこか傷んでいるのか、筋肉が衰えているのか、後ろ足を引きずるようにして歩き、一メートルも歩かないうちに止まってしまう。

老人が気づいて振り返る。動かない犬を黙って見下ろす。もう二度と駆けることなどないだろう犬を見つめ、話しかける。犬はゆっくりと見上げ、次の瞬間、ぎこちなく小用をし始める。たらたらと時間をかけて流れる。老人は待つ。終わったことを見届け再び先を行く。

今度は振り返らずにどんどん先を行き、私道の先の角を回ってしまう。ところが犬は歩き出せない。不安げに視線を踊らせ何度も首を振って老人を探す。

やがて角から老人が現れ犬のもとへ戻ってくる。ふわりとやわらかく犬の尻尾が揺れる。老人は首輪にリードをつけて犬を引いた。犬はゆっくり歩き出し、角を曲がるまで止まらずに歩き続けた。

「あの人、きっと最期まで面倒みるんだろうなあ」
「それが飼い主の責任だろうけど、先に逝く命だからつらいでしょうね。犬にも痴呆があるし……」

絹子は口ごもる。記憶が混濁して、夜昼がわからなくなった犬はどんな夢を見るのだろう。

「さあ、ぼくたちも歩こう」

時生が絹子の手を引く。小学校のときから竹刀を握っていた力強い指が絹子の手を包む。どっこいしょと絹子が立ち上がる。ふたごもいっしょに立ち上がる。

風が吹いてきて、絹子の首筋の後れ毛をさらりと撫でていく。そんなことに励まされてまた桜並木の木陰を歩き始める。

「あらっ」と絹子が小さく声を出した。
堤防の下に帰る家のないひとがひとり座っている。ワンカップの酒を手にただ時間を食んでいる。煤けたように黒い顔を日が照らし、撚れてかたまる長い髪とのびたひげを風が撫でる。髪が伸びた時間だけ彼はどこにも帰れないでいる。今日はどの公園で眠るのだろう。

流れのない運河と対峙し、対岸の花に目をやり、水辺に群れる鳥をながめ、独り言をつぶやく。誰に語るでもなく長々とつぶやく。彼はそうやって自分自身への帰り道を思い出しているのかもしれないし、あるいは全て忘れようとしているのかもしれない。そのどちらが心安らぐことなのだろう。

ふたりの言葉が途切れると樹にまつわりつく薄闇が次第に濃さを増した。さややと枝がなる音が耳をかすめる。

時生は歩きながら、だまって絹子の腰に手を回す。自分が抱えうるものの大きさ、自分に出来ることの範囲を確かめているのだろうと絹子は思う。

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️