教えてタカハシさん #1「光悦印写し」
複数存在する光悦の印
大森 本阿弥光悦の研究をしている高橋さんと一緒に仕事をさせていただいているので、いつものように雑談のなかで出てくる専門知を、BUNBOUに関心を持ってくださっている方々と共有してみようという考えで、この連載を企画しました。題して「教えてタカハシさん」です。
高橋 僕にできることがあれば、何でもやりますよ。専門知と言われると少し堅苦しい気もしますが……なるべく間違えないようにしないと(笑)。
大森 さっそくですけど、これ、見てください。本阿弥光悦の印を模造(※1)してみました。
高橋 え? 大森さんが?
大森 はい。
高橋 印の前に……これって共箱(※2)ですよね。
大森 そうです。せっかくなんで共箱もこしらえてみました。
高橋 大森さんって、暇なんですか(笑)。しかし、どうしてまた模造をしようと思った?
大森 20代の頃から古玩を弄ぶ趣味がありまして。
高橋 確かに、古い万年筆やら蓄音機やら、大森さんのご自宅には日常生活に役立たないものがいろいろありますよね。
大森 妻に言わせるとすべてガラクタです。それはそれとして、今年(2024年)の1月から3月まで東京国立博物館で開催された特別展「本阿弥光悦の大宇宙」に光悦印が出品されていましたよね。あれを見て、「これなら自分にも作れるんじゃないか」って思ったんです。
高橋 模造して弄ぼうと思ったわけだ……。
大森 図録を見たら寸法(※3)まで記載されているので、だったらできるだろうと。ただ、出品されていたものは木印なんですが、僕は篆刻の印材としてよく使われる青田石を用いました。
高橋 大森さんってムチムチな手のわりに器用なんですね。
大森 手の形は母親譲りです。ムチムチなほうが器用なのかな。ともあれ、高橋さんに聞きたいのは、出品されていた光悦印についてです。あれって、本当に光悦が使っていたものなんですか。
高橋 先般の展覧会に出品されていたのは、光悦の遠孫に伝わったとされるものです。貴重な品であることは間違いないのですが、あれを光悦が実際に使用していたことを裏付ける文献などはありません。
巻子本や色紙などの作品に捺された光悦の印とは別に、史料のうえで確認できる印影として最も早い例は、万治2年(1659年)頃に出版されたと推定される『和漢印尽(群印宝鑑)』に掲載されています。実は、これを見てみると、先般の展覧会に出品された印――大森さんが模造した印ですね――とは印影が異なるんです。
大森 ホントだ。よく見てみると、かなり違いますね。「悦」の「兄」の左足部分がない。
高橋 そうなんです。さらに言えば、光悦は寛永14年(1637年)に死没しているので、『和漢印尽』で確認できるものすら、光悦が実際に使っていたかは定かではないんです。
ちなみに、展覧会の目玉の作品でもあった「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」に捺されている印も「悦」の「兄」の左足部分がないのですが、かといって『和漢印尽』に掲載されているものとは線の太さや「光」の字形などが明らかに違うんです。
大森 さすが専門家……見ているところがニッチです(笑)。ちなみに、「本阿弥光悦の大宇宙」の図録に掲載されていた奈良国立博物館の樋笠逸人氏の論考では、典拠として高橋さんの論文が使われていましたね。
高橋 本当に恐縮しています。
極めて難しい光悦作品の真贋の判定
大森 展覧会に出品されていたものと、「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」に捺されていたもの、それから『和漢印尽』に掲載されているものがそれぞれ異なるということは、光悦の印とされるものはひとつではないという話ですよね。
高橋 そうです。「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」に捺された印章を、偽印とする研究者もおられます。
大森 複数の印章が確認できるということは、確かに真贋の話になりますね。
高橋 光悦印の真贋については、先の展覧会の図録にある解説文が適切かと思います。ちょっと読んでみますね。
〈実作品に捺されている印影には複数の種類がみとめられており、本印文の「光悦」印が数種類存在したことがわかり、「光悦」印が光悦自身の作の標(しるし)とされたのか、光悦ブランドの商標として用いられたのか、あるいは後代に「極め」として捺されたものなのか、判然としない状況にあるといえる〉
大森 「極め」というのは、刀剣や書画の真偽を見極めることですね。僕のような素人でも簡単に模造できたので、容易に贋作が生み出せるということになる……。
高橋 光悦の作品の真贋についての議論は本当に難しいんです。例えば、光悦って平安時代の和歌を書写したものに自身の署名を付したりしているんです。これを、当時のしきたりからするとあり得ないとして、贋作と判定する見方もあります。確かにそれはもっともらしい主張なのですが、僕が考えたいのは当時のしきたりから見た〝例外〟です。
光悦は日蓮の「立正安国論」を、楷行草の書体を自由に織り交ぜて書写していますが、これも当時のしきたりからすれば例外と言えます。もしかしたら、光悦は〝例外〟を楽しんでいたんじゃないか。僕はそんな可能性を考えていて、長い時間がかかるかもしれませんが、それを立証してみたいと思っています。
大森 面白い。高橋さん、ぜひとも長生きして、たくさん働いてください。
何度も同じ話をするおじいさん
大森 専門家には怒られるかもしれないんですが……個人的な考えを述べていいですか。
高橋 僕は怒りませんが、他の専門家から怒られる分には個人の責任ということで(笑)。
大森 共箱には「一生涯へつらい候」と書きました。これは、光悦の孫である光甫が著した本阿弥家の家記『本阿弥行状記』にある「一生涯へつらい候事至て嫌ひの人(一生涯、へつらうことが大嫌いだった人)」に対する僕なりの疑義を表わしたつもりです。
僕は個人的に、偉人の神格化に問題意識を持っています。光甫をはじめとした本阿弥家にとっては、光悦が非の打ちどころのない人物であったほうがよいに決まっています。『本阿弥行状記』のこの部分は、そうしたバイアスを考慮して読んだほうがいいんじゃないか、と思うんです。あくまで素人の意見ですが。
高橋 その点について、僕が関心を持っているのは、光悦の従兄弟の孫にあたる灰屋紹益が記した随筆『にぎはひ草』です。これは生前の光悦を知る人物の証言として極めて貴重で、次のような一節があります。長くなりますけど、読みますね。
〈我いとけなき時より光悦そは近くなれて、老人の物語きくことおもしろく覚けれは、いくそたひまかりてけり、少物覚けるほとに成ぬれは、ちやのみの友にも成て、私宅にもあまたたひたつね来られし/老人のくせにて、おなし物語も度/\きゝける中に〉(※4)
(私は幼い頃から光悦と親しくしていて、その老人〔光悦〕の話を聞くのに関心があったので、何度も彼のもとへ通った。少し物心がつく頃になると、〔光悦は〕茶飲み友達にもなり、私の家にもたびたび訪ねて来てくれた。老人の癖で、同じ話を何度も聞かされる中で……)
大森 相手が年配の方であれば仕方ないことですが、「同じ話を何度も聞かされる」というのは、人として忍耐が必要ですね(笑)。
高橋 まさにそこなんです。神格化というのはこういう〝じかに話を聞いた人の生々しい言葉〟が忘れ去られていくことから生じるように思うんです。東京国立博物館が大々的に展覧会で取り上げるような日本美術の巨星であっても、従兄弟の孫からすれば何度も同じ話をするおじいさん。こうした紹益の何気ない感覚を、僕は光悦の研究者として大切にしたいと考えています。
大森 今日はとても勉強になりました。次回以降も、僕が古美術商で二束三文で落手したものや、模造したものを題材にして、高橋さんにいろいろ教えてもらいたいんですが、お付き合いいただけますか。
高橋 もちろんです。
※
【脚注】
(※1)印面だけでなく、丁字型の印章そのものの形も模造した。持ち手の天面には、おそらく印面の上下を識別するための線が刻まれており、それも模してある
(※2)木箱は安価なものを購入し、印章を固定するための工作を施した。印面を天に向けて持ち手がぴったりと収まるような形状になっている(画像参照)
(※3)縦45mm×横40mm×高さ45mm(縦横が印面の寸法)
(※4)『假名草子集成』第五十五巻(東京堂出版、2016年)
写真:水島洋子
構成:BUNBOU WEB 編集部
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