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東京消費 #4 コーヒー「KhazanaCoffee」sandz

 食・ファッション・工芸――。東京には国内のみならず世界各地から洗練されたものが集まる。「消費」には必ず対価がある。洗練されたものを手に取り、比較し、楽しむ。幾ばくかの使えるお金があれば、東京は今なお世界でも有数の楽しめる都市だ。
 インバウンドが徐々に戻り、アジアの大国・中国からも大勢の観光客が来日しつつある。〝爆買ばくがい〟の時代は終わった。これからは、まだまだ広くは知られていないが、洗練されたものを探し求める時代だ。
 中国語と日本語を話し、東京を消費によって楽しむsandzさんず。この連載では、sandzが日々楽しむ食・ファッション・工芸を紹介する。

 お金と時間を上手に使う。無駄使いをしないだけでなく、使うときには惜しみなく使う。それが日常における〝豊かな消費〟だと僕は考えている。

 つい先日、手挽きのコーヒーミルを買った。1867年にドイツで創業されたZASSENHAUS(ザッセンハウス)という老舗コーヒーミルメーカーのものだ。

 価格は手頃に買える電動ミルの10倍ほどするが、豆を粉砕するときに手に伝わってくる感触や挽いた後の粉の粒度の均一性、それらを可能にしている刃の工業的な美しさを体感すると、価格にも納得がいく。

 これまでコーヒーにこだわってなかった訳ではない。自分なりのこだわりがあり、およそ8年ものあいだ同じ店で同じ豆を買い続けた。その店が、東京・八王子にあるスペシャルティコーヒー専門店「Khazana Coffee(カザーナ・コーヒー)」だ。

「お客様に美味しいコーヒーをお渡しするために最善を尽くせたら、と思っています」

 そう話すのは同店のマスターである栗原崇さん。穏やかな笑みを浮かべながらも、その表情からは真っ直ぐな意思を感じる。かつてはインドの弦楽器であるシタールの奏者として活動した。20代はインドのコルカタやニューデリーと日本を行き来し、異国の伝統的な古典音楽の習得に夢中だった。

 2006年に夫妻で開業した「Khazana Coffee」――。「Khazana」とはインドの言葉で「宝物」を意味する。開業当初は奥さんのサポートが中心だった栗原さんだが、出産を機に音楽の道を離れる。コーヒーを本格的に学び始め、しだいにその魅力に取り憑かれていった。

「音楽との共通点も多く、今はコーヒーの仕事を通して音楽を学んでいるような気さえしています」

 約2坪の小さなお店から始めた事業はしだいに拡大。八王子市内で2度の移転を経て現在の場所に至った。JR八王子駅の北口から徒歩で約10分。西放射線ユーロードを抜けた先にある「みずき通り」の中ほどに店を構える。

 コーヒー豆はシングルオリジンとブレンドを浅煎りから深煎りまで約30種類準備している。もちろんすべての豆は常に新鮮な状態だ。豆の品質の評判は高く、今では遠方からも愛好家や同業者がわざわざ店を訪ねてきたり、地元企業や自治体から商品の開発・製作を依頼されたり、専門誌に取り上げられたり。

「自分たちがやるべき目の前のことにリラックスして集中したい」との夫妻の考えから派手な宣伝や広告を好まない姿勢は開業当初から変わらない。

 僕が初めてこの店を訪れたのは2015年。大学のゼミの教授に連れられてのことだった。二つのことに驚いた。一つは席数が少なく対面席がないこと。もう一つはホットコーヒーがワイングラスに注がれて出てきたことだ。

 席数が少なく対面席がない理由は「コーヒーと向き合っていただける場所であってほしい」との夫妻の思いから。現在の店舗も、客席のスペースよりも焙煎機やエスプレッソマシンなどが置かれたキッチンスペースのほうが圧倒的に広い。

「浅煎りから中煎りのコーヒーをグラスで提供し始めたのは、五感でコーヒーを楽しんでいただきたい、との思いからです」

 深めのローストのコーヒーはカップ&ソーサーで出てくるが、浅めのローストのコーヒーは飲み口がすぼまった透明なグラスに注がれることで香りや風味、液体の色、温度をより意識しやすくなるという。

「Khazana Coffee」で初めて飲んだコーヒーのことは今でも鮮明に覚えている。勧められるがままに注文したのは、エチオピア産のナチュラル精製の豆。鮮やかな赤茶色の温かいコーヒーがグラスに注がれて運ばれてきた。

 グラスを持ち上げると液体の華やかな香りがまず広がってくる。口にひとくち含むとベリーのようなフレッシュな風味が軽やかな質感とともに感じられた。液体がなくなった口の中にも甘味ある香りが続く。これまで飲んできたコーヒーとは明らかに一線を画す飲み物に衝撃を受けた。

 それからというもの、最初の味が忘れられず、お店に行くたびに同じコーヒーを注文した。自宅で飲むのも同じ豆。一度これと決めたら、浮気はしない。それが僕の偏愛的なこだわりである。

 仕事の都合で京都に住んだ4年間も、豆は「Khazana Coffee」から取り寄せていた。そこまで徹底しているのに、なぜか自分で豆を挽くことはせず、いつも挽かれた豆を購入していたのだ。

 今思えば、自分で豆を挽かなかった理由はおもに二つあった気がする。一つは、どうせ自分で淹れてもお店のような味にはならないという諦めの気持ち。もう一つは、一度こだわり始めるとあれもこれもと道具を揃えたくなるだろうという経済的な心配である。かくして、僕とコーヒーの〝付かず離れず〟の関係は8年間続いた。

「sandz君、もし良かったらこれからは豆を自分で挽いて淹れてみない?」

 均衡を破ってくれたのは、栗原さんだった。

「コーヒーをより美味しく飲みたいという人におすすめしているのは〝淹れる直前に豆を挽く〟ことです」

 性能の良いミルはコーヒー粉の粒の大きさが均一に揃うという。手挽きでも電動でも良い性能のミルはあるそうだが、個人的にはコーヒーに対する〝親密さ〟は手挽きのほうがより強く感じられる。

「淹れるコーヒーをより美味しくしたいと思ったときに、機具であればミルに投資することが最も効果的なので、まずは良いミルを導入することをおすすめしています」

 朝食はいつもコーヒーの準備から。キッチンスケールの上に、コーヒーミルを乗せて、1杯に使う豆は25グラム。きっちりと計量したら、ハンドルを取り付けてゆっくりと挽き始める。ザクザクザクと粉砕される豆の音と、ハンドルから伝わってくる振動が妙に心地良い。

 挽き終わってミルを開けると、華やかな香りが一気に広がる。起き抜けのボーっとした頭とけだるい体が、少しずつ目覚める。

 朝から手挽きのミルで豆を挽くとなると、これまでよりも少し早く起きなくてはならない。ミルの代金と朝の時間ーー。それらを費やしてもなお、コーヒーを自分で淹れて飲むたびに心が満たされるのは、少なくとも僕にとってはこれが日常における〝豊かな消費〟ということなのだろう。


sandz(さんず)
バンタンデザイン研究所大阪校を卒校後、2009年に上京。2011年に創価そうか大学に進学し、在学中に北京に留学。同大と北京語言ごげん大学の学位を取得。中国漢語水平考試かんごすいへいこうし「HSK」6級(220点以上)。中国語検定準1級。
Twitter : SandzTokyo
Instagram : sandzager

写真:Yoko Mizushima

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